
三歳児なんだねえ
うちの人間が、光る板を見ながら言った。
「猫の知能って、人間の三歳児くらいなんだって」
長椅子で隣に座っていたシジミは、片方の耳を動かした。
うちの人間は画面に書かれていることを読み続ける。
「簡単な言葉を覚えたり、数を少し理解したりできるらしいよ」
それから、シジミの頭を撫でた。
「シジミは三歳児なんだねえ」
ずいぶんうれしそうである。
自分より年下だと思えることが、そんなに楽しいのだろうか。
もっとも、人間の知能と猫の知能を単純に比べるなら、三歳児くらいというのも、まったく見当違いではないのかもしれない。
シジミは、人間の言葉をすべて理解しているわけではない。
名前。
食事。
おやつ。
待て。
駄目。
おいで。
病院。
風呂。
そのほかにも、毎日の生活でよく使われる言葉なら分かる。
声の調子や、うちの人間が見ている方向、手に持っているものまで合わせれば、もう少し複雑なことも判断できる。
だが、人間が長々と話している文章を、一言一句正確に理解しているかと言えば、そうではない。
うちの人間が外から帰ってきて、
「今日は仕事でこんなことがあって、あの人がこう言って、それで私がこうしたんだけど」
と話し始めても、シジミに分かるのは、
仕事。
嫌な人間。
疲れた。
おそらく、その程度である。
細かな事情までは分からない。
そもそも、知らない人間の名前をいくつも出されても困る。
シジミは、その者たちの匂いを嗅いだこともなければ、姿を見たこともない。
それでも、うちの人間は、
「それでさ、ひどいと思わない?」
と同意を求めてくる。
何がひどいのかは分からない。
だが、うちの人間が不満を抱いていることは分かる。
そのようなときは、短く鳴いておけばよい。
うちの人間は、
「だよね」
と勝手に納得する。
人間の言葉を完全に理解できなくても、人間を扱うことはできる。
とはいえ、文字は読めない。
数字も、細かな計算まではできない。
昨日と今日の違いは分かるが、七日前と八日前を正確に言い分けることは難しい。
その意味では、うちの人間のほうが知能は高いのだろう。
うちの人間は文字を読む。
数字を計算する。
遠くの人間と話す。
見たことのない場所まで、一人で移動する。
毎日決まった仕事をし、その代わりに紙や数字を受け取る。
それらを使って、食事や服や家を手に入れる。
猫にはできないことを、いくつもできる。
年月だけで比べても、うちの人間のほうが長く生きている。
シジミよりも先に生まれ、シジミよりも多くの季節を見てきた。
知っていることも多い。
できることも多い。
そこは認めてよい。
だが、精神年齢は別である。
知能が高いからといって、精神まで大人とは限らない。
多くの言葉を知っていても、自分の気持ちを扱えるとは限らない。
計算ができても、欲しいものを我慢できるとは限らない。
長く生きていても、同じ失敗から学ぶとは限らない。
残念ながら、精神年齢については、シジミが生まれて一年ほどで、うちの人間を追い抜いてしまった。
起きたくない
その日の朝も、そうだった。
うちの人間の枕元で、鳴る箱が音を出した。
うちの人間は布団の中から腕だけを伸ばし、音を止める。
少しすると、また鳴る。
また止める。
三度目に鳴ったところで、布団の中から低い声が聞こえた。
「起きたくない……」
起きなければよい。
外へ行く必要があるなら、起きればよい。
選ぶべきことは、そのどちらかである。
だが、うちの人間は起きないまま、
「仕事行きたくない」
「でも休めない」
「あと五分だけ」
と、布団の中で何度も同じことを言う。
五分たてば、また五分を欲しがる。
時間を細かく分ければ、起きなくてもよくなると思っているらしい。
シジミは、食事の時間になれば起きる。
眠くても起きる。
食べ終わってまだ眠ければ、もう一度眠る。
簡単なことである。
眠いことと、起きる必要があることは、同時に存在できる。
眠いから起きられないわけではない。
眠いが、起きる。
それだけだ。
うちの人間は、それができない。
布団から出たくないという気持ちと、仕事へ行かなければならないという事実を前にして、毎朝長い話し合いを始める。
話し合っているのは、うちの人間一人である。
出たくない。
出なければならない。
眠い。
遅れる。
寒い。
あと少し。
どれだけ言葉を重ねても、最後には起きるしかない。
それなら、最初から起きればよい。
ようやく布団から出たうちの人間は、栗色の髪を乱したまま、洗面所へ向かった。
鏡を見て顔をしかめる。
「ひどい顔」
寝たのは、うちの人間である。
夜遅くまで光る板を見ていたのも、うちの人間である。
昨夜、
「これを見たら寝る」
と言ったあと、さらにいくつも見ていた。
眠る時間が遅くなれば、朝は眠い。
それは前の日から分かっていたはずだ。
だが、夜のうちの人間は、朝のうちの人間のことを考えない。
朝になると、昨夜の自分へ文句を言う。
同じ人間なのに、ずいぶん仲が悪い。
シジミが子猫だったころ、夜中に家の中を走り回ったことはある。
棚へ登った。
布を引っ張った。
床の上を転がるものを追いかけた。
だが、朝になって眠ければ、そのまま眠った。
自分で夜更かしをしておきながら、朝へ文句を言ったりはしない。
そもそも猫は、眠れるときに眠る。
人間のように、眠る時間を自分で削り、その結果へ不満を抱くことはない。
うちの人間は身支度を終え、家を出た。
荷物、まだかなあ
その日の夜。
帰ってきたうちの人間は、いつもより落ち着きがなかった。
上着を脱ぎ、柔らかな部屋着へ着替える。
肩へ落ちた髪を後ろでまとめる。
それから何度も、光る板を確認した。
画面を見る。
置く。
少し歩く。
また見る。
窓の外を見る。
扉のほうを見る。
そして、また画面を見る。
何かを待っているらしい。
「まだ来ない」
シジミは長椅子の上から、その様子を見ていた。
うちの人間は画面を指で触る。
「今日届くって書いてあるのに」
荷物が届く予定らしい。
必要なものなのだろうか。
食事か。
水か。
シジミの食べ物か。
それなら、待つ気持ちは分かる。
だが、うちの人間が画面に表示したものは、小さな鞄だった。
家には、すでに似たような鞄がいくつもある。
明日まで届かなくても、何も困らない。
それでも、うちの人間は数分ごとに画面を確認する。
「今、どこにあるんだろう」
画面を何度見ても、荷物が早く動くわけではない。
配達する人間が、うちの人間の視線に気づいて急ぐわけでもない。
だが、見ずにはいられないらしい。
そのとき、シジミの食事の時間までは、まだ少しあった。
シジミは食事の置かれている棚の前へ移動した。
うちの人間を見る。
うちの人間も、シジミを見た。
「ごはんは、まだだよ」
分かっている。
少し早いことは承知している。
出る可能性があるので確認しただけだ。
うちの人間が出さないなら、時間まで待てばよい。
シジミは棚の前へ座った。
うちの人間は、また光る板を見る。
「荷物、まだかなあ」
自分は待てないらしい。
シジミの食事には、
「まだ」
と言う。
自分の鞄には、
「まだ?」
と言う。
同じ待つという行為でも、自分が待つ側になると急に難しくなるようだ。
今日中って、何時まで?
うちの人間は部屋の中を歩き回った。
「そろそろ来てもいいよね」
誰へ確認しているのだろう。
シジミは返事をしない。
「今日中って、何時まで?」
今日が終わるまでである。
うちの人間は時間も読める。
時計も使える。
それなのに、今日中という言葉の意味が急に分からなくなったらしい。
欲しいものを待っていると、人間の知能は下がるのだろうか。
シジミは静かに食事を待った。
途中で一度、棚を見た。
だが、鳴かなかった。
時間が来れば出る。
出なければ鳴けばよい。
まだ何も起きていないうちから、不満を言う必要はない。
うちの人間は、何も起きていない段階で、すでに不満そうだった。
荷物は届いていない。
ただし、届かないと決まったわけではない。
遅れているとも限らない。
今日という時間は、まだ残っている。
それでも、
「遅い」
と決めている。
人間は未来を予想できる。
その能力は便利だ。
だが、悪い未来まで先に想像し、その想像へ腹を立てることがある。
起きていないことへ、先に不機嫌になる。
知能が高いというのも、扱い方を間違えると面倒である。
来た!
やがて、扉の外から物音がした。
うちの人間が立ち上がる。
先ほどまで疲れたと言っていたとは思えない速さだった。
呼び出しの音が鳴る。
うちの人間は、ほとんど走るように扉へ向かった。
荷物を受け取る。
そして、満足そうな顔で戻ってきた。
「来た!」
見れば分かる。
うちの人間は床へ座り、すぐに箱を開け始めた。
少し前まで、
「遅い」
「まだ来ない」
と不満を言っていたのに、荷物が届いた瞬間、すべて忘れたようである。
箱の中から、小さな鞄が出てきた。
うちの人間は持ち上げ、正面から見る。
横から見る。
肩へかける。
鏡の前へ移動する。
髪を整える。
鞄の位置を変える。
また鏡を見る。
「かわいい」
届く前から、画面で何度も見ていたはずだ。
形も、色も、大きさも知っていた。
それでも、実物を見ると初めて知ったように喜ぶ。
うちの人間は鞄へ夢中になり、空になった箱を床へ置いた。
シジミは箱へ近づいた。
匂いを確かめる。
知らない場所の匂い。
紙の匂い。
少しだけ、鞄の匂いもついている。
大きさも悪くない。
シジミは箱の中へ入った。
体を一度回し、座る。
ちょうどよい。
どちらが子どもか
うちの人間が鏡の前から戻ってきた。
箱の中のシジミを見ると、笑った。
「シジミ、もう入ってる」
もう、とは何だろう。
空いていたから入っただけである。
うちの人間はシジミの写真を撮り始めた。
「猫って、本当に箱が好きだねえ」
箱は安全である。
周囲を囲まれている。
狭いため、背後へ誰かが入りにくい。
体も落ち着く。
入り口から外を確認できる。
好きになる理由は十分にある。
うちの人間が、さらに笑う。
「箱に入るだけで喜ぶなんて、子どもみたい」
シジミは箱の中から、うちの人間を見た。
先ほどまで、鞄一つを待ちきれず、何度も画面を確認していた者が言っている。
まだ来ない。
遅い。
どこにある。
今日中とは何時まで。
届けば走って取りに行く。
箱を開ける。
鏡の前で何度も見る。
そして、箱へ入ったシジミを子ども扱いする。
喜ぶ対象が違うだけではないだろうか。
シジミは箱が気に入った。
うちの人間は鞄が気に入った。
ただし、シジミは箱が届くまで歩き回ったりはしていない。
数分ごとに状況を確認してもいない。
箱が来ることすら知らなかった。
目の前に来たから、使っただけである。
どちらが子どもかは明らかだった。
待つべきところでは待つ
そのあと、食事の時間になった。
うちの人間は鞄を眺めるのに夢中で、時間に気づいていない。
シジミは箱から出た。
棚の前へ移動する。
うちの人間を見る。
反応がない。
一度鳴く。
うちの人間が振り返った。
「あ、ごはんだね」
ようやく気づいたらしい。
うちの人間は立ち上がり、シジミの食事を用意した。
シジミは皿の前へ座って待つ。
袋が開く。
食事が皿へ入る。
うちの人間が皿を置く。
それから食べ始める。
待つべきところでは待つ。
出たら食べる。
食べ終わったら離れる。
シジミは、自分の欲しいものを理解している。
いつ手に入るかも、だいたい分かっている。
手に入らない時間に騒いでも、早くなるとは限らないことも知っている。
生まれて一年もたたないうちに覚えた。
一方、うちの人間は何十回も荷物を頼んでいる。
注文した日に届かないことも知っている。
配達には時間がかかる。
表示が今日中なら、夜に来ることもある。
それを何度も経験している。
それでも毎回、
「まだ来ない」
と言う。
知識として知っていても、気持ちが追いついていないらしい。
知能と精神年齢が別だというのは、こういうことである。
知っているだけ
うちの人間は多くのことを知っている。
だが、知っているとおりに行動できるとは限らない。
夜更かしをすれば朝がつらいと知っている。
それでも夜更かしする。
紙や数字を使えば減ると知っている。
それでも使ったあとで驚く。
食べすぎれば苦しくなると知っている。
それでも、
「あと一個だけ」
と言いながら食べる。
早く寝たほうがよいと知っている。
片づけたほうが後で楽だと知っている。
欲しいものがすべて必要なものではないと知っている。
腹を立てても荷物は早く届かないと知っている。
すべて知っている。
知っているだけである。
とうに追い抜いている
その日の夜、うちの人間は新しい鞄を長椅子の横へ置き、また光る板を見ていた。
シジミは、届いた箱の中で体を丸めている。
うちの人間が、昼間見ていた記事をもう一度開いた。
「猫の知能は、人間の二歳から三歳くらいなんだって」
先ほども聞いた。
うちの人間は、箱の中にいるシジミを見た。
「だから箱に入るだけで、こんなに楽しめるのかな」
関係ない。
箱の利点を理解して入っている。
何も考えずにはしゃいでいるわけではない。
むしろ、届く前から鞄のことで頭がいっぱいになっていたうちの人間より、落ち着いて判断している。
うちの人間はシジミの頭を撫でる。
「三歳児くらいかあ。まだまだ子どもだね」
知能だけなら、そうなのかもしれない。
言葉の数。
計算。
文字。
人間の作った道具を扱う能力。
そのような基準で比べれば、うちの人間のほうが上である。
だが、精神年齢を決めるのは、知っている言葉の数ではない。
欲しいものがすぐ手に入らなくても待てるか。
嫌なことがあっても、周囲へ不機嫌をまき散らさないか。
自分で選んだ結果を、ほかの何かのせいにしないか。
同じ失敗を何度も繰り返さないか。
眠いとき。
腹が減ったとき。
欲しいものを見つけたとき。
思いどおりにならないとき。
そういうときに、どのように振る舞うかである。
うちの人間は、シジミより長く生きている。
言葉も多く知っている。
複雑な道具も使える。
だが、朝は布団から出たくないと駄々をこねる。
夜は眠りたくないと先延ばしにする。
欲しいものが届かなければ、何度も画面を確認する。
届けば大喜びする。
食べすぎれば後悔し、買いすぎれば金がないと嘆く。
そして、箱の中で静かに座っているシジミを、子ども扱いする。
シジミは生まれて一年ほどで、自分の食事の時間を覚えた。
待っても早くならないことを覚えた。
届かない場所にあるものは、別の方法を探すことを覚えた。
嫌なことがあれば距離を取る。
眠ければ眠る。
必要がなければ騒がない。
自分の機嫌を、自分で整える。
うちの人間は、それを何年たっても覚えない。
知能では負けているかもしれない。
だが、精神年齢では、とうに追い抜いている。
しかも、その差は少しずつ広がっているように思える。
こっちの色も、かわいいなあ
うちの人間は新しい鞄を膝へ載せ、満足そうに眺めていた。
「明日、これ持っていこう」
その直後、光る板に別の鞄が表示された。
うちの人間の指が止まる。
「こっちの色も、かわいいなあ」
今届いたばかりである。
シジミは箱の中から、うちの人間を見た。
うちの人間は、少し迷ったあと、画面を閉じた。
「駄目駄目。今日は買ったばかり」
少しは成長したらしい。
だが、光る板を置いてから、もう一度拾うまでに、それほど時間はかからなかった。
シジミは猫語でつぶやく。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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