
先輩の小説を読む
うちの人間は、以前家へ来た先輩の小説を読んでいた。
先輩は、自分が読みたい世界を自分で作ると言っていた人間である。
読者が多くなくても、自分だけは必ず読む。
だから、最低でも一人は読者がいる。
そのようなことを平然と言っていた。
うちの人間は、その考え方を聞いて少し感心し、自分の小説も再び書き始めた。
だが、先輩が実際にどのような小説を書いているのかは、きちんと読んだことがなかったらしい。
知り合いが書いた文章を読むのは、少し気恥ずかしい。
おもしろくなかった場合、どう感想を伝えればよいか困る。
そのような理由で、今まで後回しにしていたという。
人間は、知らない者が書いた小説なら気軽に読む。
気に入らなければ、何も言わずに閉じればよい。
だが、書いた者の顔を知っていると、文章の向こうにその人間が見える。
少し読みづらくなるらしい。
それでも、先輩から小説の話を聞いたあとでは気になったようだ。
休日の午後。
うちの人間は長椅子へ座り、絵の光る板に先輩の小説を表示した。
シジミはその隣で体を丸めていた。
画面には、かなり長い文章が並んでいる。
一つの話だけではない。
同じ世界を舞台にした話が、いくつも続いているらしい。
うちの人間は一覧を見て、少し驚いた。
「こんなに書いてたんだ」
先輩は、以前から書いていると言っていた。
しょっちゅう止まるとも言っていた。
だが、止まることと、やめることは違う。
止まっても再び書けば、文章は少しずつ増える。
うちの人間の小説は、主人公が異世界で菓子を買ったところから、ようやく少し先へ進んだ。
先輩の小説は、すでに一つの世界ができあがるほど続いている。
うちの人間は最初の話から読み始めた。
思っていたより普通
特別に大きな事件から始まるわけではなかった。
誰かが朝起きる。
食事をする。
町を歩く。
仕事へ向かう。
知り合いと話す。
その世界で暮らす者にとっては、普通の一日である。
うちの人間はしばらく黙って読んでいた。
そして言った。
「思ってたより普通だなあ」
何を期待していたのだろう。
先輩は世界観を作るのが好きだと言っていた。
だから、最初から世界の歴史や魔法の仕組みが大量に説明されると思っていたらしい。
だが、画面の中にいる者たちは、自分たちの世界をわざわざ説明しない。
うちの人間も、朝起きるたびに、
この世界には電気という仕組みがあり、壁にある場所へ線をつなぐことで道具を動かせる。
とは言わない。
水を使うたびに、水道の仕組みを説明することもない。
その世界で普通に暮らしている者にとって、世界の仕組みは説明するものではなく、使うものである。
先輩は、登場人物の日常を通して世界を見せると言っていた。
今のところ、本当にそうなっているらしい。
あとから意味が分かる
うちの人間は続きを読んだ。
主人公が町の中で、あるものを受け取る。
近くにいた者は、特に驚かない。
主人公も気にしない。
そのまま話が進む。
うちの人間は、一度そこを読み流した。
少しあとで、似たようなものが別の場面にも出てくる。
使い方が少し違う。
さらに先では、それを持っていない人物が困っている。
うちの人間の指が止まった。
少し前の場面まで戻る。
もう一度読む。
「え?」
さらに前へ戻る。
最初の日常の場面を読み直す。
「これって、日常を書いてるだけだと思ってたけど、結構根幹部分?」
そうらしい。
何気なく使っていたもの。
普通の挨拶。
町で当然のように行われていたやり取り。
それらが、その世界の仕組みと強く結びついていた。
説明はされていない。
だが、あとから意味が分かる。
何もかも怪しく見える
うちの人間は、再び続きを読んだ。
今度は先ほどより慎重だった。
登場人物が何をしているか。
なぜ、その言葉を使ったのか。
なぜ、ほかの者は驚かなかったのか。
最初に読んだときは、ただの生活の描写だと思っていた。
だが、一度重要なものが隠れていると気づくと、何もかも怪しく見えるらしい。
「この食事も何かあるのかな」
普通の食事かもしれない。
「この店の人、あとで重要になる?」
ただの店の人かもしれない。
「今の言い方、何かの伏線?」
単にそう話しただけかもしれない。
世界の形を組み立てる
人間は、何もないと思っているときには見落とす。
何かあると知った途端、今度はすべてに意味を探す。
ちょうどよい観察が難しいらしい。
シジミは、うちの人間の指が何度も前の文章へ戻るのを見ていた。
先輩の小説は、読み進めるだけでは足りないようだった。
あとで分かったことを持って、前へ戻る。
すると、最初とは違って見える。
先輩が言っていた、
世界を先に作り、登場人物を経て読者に見てもらう。
という意味が、うちの人間にも少し分かってきたらしい。
先輩は世界のすべてを説明しない。
登場人物が見たものだけを出す。
その人物にとって普通なら、普通のこととして扱う。
読者は、いくつもの場面をつなぎ合わせて、世界の形を考える。
シジミには、少し面倒な方法に思えた。
最初から説明すれば早い。
だが、人間は自分で気づくことを好む。
答えだけを渡されるより、途中で、
そういうことだったのか。
と思うほうが気持ちよいらしい。
一つの規則から生まれる
うちの人間は、さらに先まで読んだ。
世界のある規則が明らかになる。
最初に見たときには不思議だった習慣。
登場人物たちが当然のように避けていたもの。
人間の常識なら、むしろ積極的に行いそうなこと。
それらが、すべて一つの規則から生まれている。
うちの人間は画面を見たまま言った。
「この設定だと、そうなるのか」
少しして、さらに声を上げる。
「普通と真逆の状態になっちゃう」
先輩は、ただ珍しい規則を一つ置いたわけではないらしい。
その規則がある。
ならば、暮らしが変わる。
価値の高いものが変わる。
危険だと思われる行動も変わる。
人間同士の関係も変わる。
こちらの世界では正しいことが、向こうでは危険になる。
こちらでは避けられることが、向こうでは望まれる。
世界の規則を一つ変えるだけで、その先にある多くのものが反対になる。
うちの人間は、自分の小説で主人公に転移能力を与えた。
便利だからである。
遅刻しない。
買い物が楽になる。
敵の攻撃も避けられる。
だが、その力が当たり前に存在する世界なら、町はどうなるのか。
扉は必要なのか。
道は使われるのか。
荷物はどう運ぶのか。
国境は何で守るのか。
犯罪をどう防ぐのか。
そこまでは考えていなかった。
主人公だけが使えるから、考えなくても話を進められると思っていた。
先輩は、一つの仕組みを決めたあと、その影響がどこまで広がるかを考えている。
ちゃんと書いてある
うちの人間は感心しながらも、少し疲れた顔をした。
「これ、書く前にどこまで考えてるんだろう」
本人に聞けばよい。
だが、今は読むほうが先らしい。
話の中では、以前の場面で出てきた人物が再び現れた。
ずいぶん前に少しだけ登場した者である。
うちの人間は、その名前を覚えていなかった。
指を止める。
「誰だっけ」
検索する。
前の話へ戻る。
ようやく見つける。
「ああ、この人か」
その人物が以前言った短い言葉が、今の出来事へつながっている。
うちの人間は画面を見つめた。
「そこから続いてたの?」
先輩の伏線は、すぐには戻ってこないらしい。
同じ話の中で回収されるものもある。
かなり離れた先で意味が分かるものもある。
日常の中へ混ざっているため、最初に読んだときには気づきにくい。
うちの人間は、また前へ戻った。
「こんなの覚えてないよ」
だが、前の文章には確かに書かれている。
隠されていたわけではない。
読んだ。
ただし、重要だとは思わなかった。
人間の記憶は、自分が重要だと思ったものを残す。
そのとき意味が分からなければ、簡単に流す。
あとで必要になってから、
聞いていない。
書いていなかった。
と言う。
だが、実際には聞いていた。
書かれていた。
自分が覚えていなかっただけである。
うちの人間は、少し悔しそうに笑った。
「ちゃんと書いてある」
先輩の小説を疑っていたらしい。
急に出てきた設定ではないか。
あとから加えたのではないか。
そう思って戻った。
だが、最初から置いてあった。
うちの人間は、読む速さをさらに落とした。
読者が地図を組み立てる
「これ、結構読み込まないと分からない感じだなあ」
ようやく先輩の小説の読み方を覚えたらしい。
ただ、先へ進みたい者には少し難しいかもしれない。
軽く読める話を求める者。
その場ですぐに意味が分かる展開を好む者。
前の出来事を細かく覚えていない者。
そういう読者は、途中で置いていかれる可能性がある。
先輩は、自分の好きな世界を自分で作っている。
だが、その世界を見るには、読者側にも少し努力がいる。
入口は開いている。
しかし、中へ入ったあと、地図を自分で組み立てなければならない。
うちの人間は何度も戻りながら、ようやく一つの区切りまで読み終えた。
あとがきがやばい
そして、あとがきを開いた。
本文で使われた設定の説明。
書いているときに考えたこと。
次の話への補足。
そういうものが書かれていると思ったらしい。
だが、うちの人間は読み始めてすぐ、声を上げた。
「あとがきがやばい!」
シジミは耳を向けた。
何があったのだろう。
うちの人間は画面を読み進める。
「そこ気にするところ?」
先輩は、話の中で起きた大きな出来事については、ほとんど触れていなかった。
代わりに、登場人物が途中で食べていたものの形について長く悩んだと書いている。
丸いのか。
細長いのか。
手で持てるのか。
その世界の道具で、どう作るのか。
本筋にはほとんど関係がない。
読者が気づかなくても困らない。
だが、先輩には気になったらしい。
世界の規則を考える。
社会がどう変わるか考える。
物語の根幹へ長い伏線を置く。
その一方で、登場人物が一度食べただけのものへ何時間も悩む。
うちの人間は笑っていた。
「本文であれだけ大きな話をしてたのに、あとがきでずっと食べ物の話してる」
先輩にとっては、どちらも世界の一部なのだろう。
世界を作るということは、大きな規則だけを決めることではない。
何を食べるか。
どう作るか。
どの形が普通なのか。
そのような小さなことも含まれる。
ただし、読者が一番気になる場所と、作者が一番悩んだ場所は一致しないらしい。
人間は、見えている結果だけでは、作った者がどこで苦労したか分からない。
大きな場面は、最初から決まっていたため簡単に書けたのかもしれない。
一度しか出ない食事の形は、世界の規則と合わず、なかなか決まらなかったのかもしれない。
外から見れば、
そこを気にするのか。
と思う。
作る者には、そこが気になる。
二度目の読者
うちの人間はあとがきを最後まで読んだ。
そして、最初の話へ戻った。
今度は、先ほど見落とした部分を確認している。
「ここ、最初から意味が違ったんだ」
一度読み終えたあとで、また読む。
先輩が言っていたとおりである。
展開を知っていても、読む理由はある。
世界をもう一度見る。
好きな場面を読む。
前には分からなかったものを探す。
うちの人間は、すでに二度目の読者になりかけていた。
次の話を開く。
また読む。
途中で前の話へ戻る。
小さなつながりを見つける。
「これも、あっちと関係あるのか」
少しずつ、声が増える。
「この人、前に名前だけ出てた」
「この習慣、最初は変だと思ったけど、世界のルールから考えると普通なんだ」
「うわ。これ、かなり前の話につながるんだ」
先輩の小説は、うちの人間が想像していたより、ずっと作り込まれていたらしい。
よいものでも読まれるとは限らない
やがて、うちの人間は画面から顔を上げた。
「このレベルでも、読者がそんなにつかないのかあ」
その言い方には、少し驚きがあった。
文章を書ける。
世界も作れる。
長く続けられる。
前の話と後ろの話をつなげられる。
あとから読み返して意味が変わる場面もある。
それでも、多くの人間が読むとは限らない。
人間は、よいものを作れば自然に見つかると思いたがる。
だが、世の中には小説が多すぎる。
毎日、新しいものが増える。
読者が使える時間は限られている。
題名。
最初の数行。
紹介文。
更新の時期。
偶然見つけてもらえるか。
さまざまなものが重なって、ようやく読まれる。
内容がよいことは重要である。
だが、それだけで多くの読者がつくわけではないらしい。
読者を選ぶ
うちの人間は考えながら言った。
「まあ、伏線が長距離なものも多いから、結構読み込まないと分からない感じなのかも」
それも一つの理由だろう。
すぐに分かる気持ちよさが少ない。
説明を読めば理解できるのではなく、場面を覚えて自分でつなぐ必要がある。
読者を選ぶ。
先輩が好きな方法で書けば、誰にでも読みやすい形にはならない。
先輩も、おそらく分かっている。
だから、
読者が多くなくても、自分が読む。
と言ったのだろう。
多くの者に読んでもらうために、自分の書き方をすべて変える。
それも一つの方法である。
自分が読みたい形を残し、分かる者が一人でもいればよいと考える。
それも一つの方法である。
どちらが正しいとは限らない。
先輩は後者を選んでいる。
食べ物の形は大事
うちの人間は、しばらく考えていた。
そして、先輩へ文字を送った。
『小説読みました』
少し待つ。
さらに書く。
『日常の場面だと思ってたところが、あとから根幹の設定につながって驚きました』
また少し考える。
『あとがきの食べ物の話、そこまで考えてたんですか?』
送る。
しばらくして、先輩から返事が来た。
『読んでくれたんだ。ありがとう』
次に、
『食べ物の形は大事』
と返ってきた。
やはり、そこは譲れないらしい。
うちの人間は笑った。
さらに文字を送る。
『続きも読みます』
先輩から、すぐに返事が来た。
『読者が一人増えた』
読者が一人増えた
うちの人間は画面を見た。
「一人増えたって」
少しうれしそうだった。
先輩は以前、自分だけは必ず読むと言っていた。
最低でも一人。
そこへ、うちの人間が加わった。
二人である。
増えた数は、一人だけだ。
世の中にある小説の読者数から見れば、恐ろしく小さい。
何千人。
何万人。
それ以上に読まれる話もある。
その中で、一人増えた。
比べれば、ほとんど何も変わっていないように見える。
だが、先輩の言い方に従えば、読者は一人から二人になった。
数としては一つ増えただけである。
割合で考えれば、倍である。
自分しか読まない話を、もう一人が読んだ。
自分しか知らなかった世界を、別の人間が見た。
日常だと思っていた部分の意味に気づいた。
設定から生まれる逆転をおもしろいと思った。
あとがきのおかしなこだわりに笑った。
その差は、世界全体から見れば小さい。
先輩から見れば、同じ小ささとは限らない。
一人は数字ではない
人間は大きな数字を好む。
読者数。
評価。
反応。
順位。
数が多ければ価値があると思いやすい。
一人しかいなければ、少ないと言う。
だが、その一人は、数字の印ではない。
文章を読んだ。
前へ戻った。
考えた。
笑った。
続きを読みたいと思った。
一人増えるというのは、そういう出来事が一つ増えることらしい。
真剣な読者
うちの人間は、すぐに次の話を開いた。
「ここまで読んだら、続きも気になる」
先輩のために読んでいるわけではない。
知り合いだから無理に読んでいるのでもない。
自分が続きを知りたくなった。
その時点で、先輩の言う読者になっている。
シジミは、その瞬間を見ていた。
一人の作者に、一人の読者が増えた。
とても小さい差である。
広い世の中から見れば、何も変わっていないような差である。
それでも人間は、その小さな差を喜ぶ。
たった一人に読まれたことで、また書こうと思う。
たった一つの感想を、何度も読み返す。
自分以外にも、この世界を見た者がいる。
それだけで、長い文章を書いた時間が少し報われたように感じる。
ずいぶん単純である。
だが、自分一人でも読むから書くと言っていた先輩に、もう一人が加わった。
その程度の小さな変化で十分なら、長く続けるには都合がよい。
人間は、大きな成功を夢見る。
同時に、驚くほど小さな反応でも喜べる。
その矛盾があるから、何もないところへ世界を作り続けられるのかもしれない。
うちの人間は次の話を読みながら、また前の話へ戻った。
「これも先につながるのかな」
すでに、かなり真剣な読者になっている。
シジミは猫語でつぶやく。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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