勇者の条件 第21話 小さな精霊たちの話

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勇者の条件
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勇者の条件 第21話 小さな精霊たちの話 人物相関図

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雨上がりの神殿

雨は、夜のうちに上がっていた。

朝の神殿は、まだ湿っている。

石段の欠けたところには水が溜まり、屋根の端からは時々、遅れてきた雫が落ちた。

庭の土は柔らかく、昨日の雨で倒れた草が、朝の光を受けて少しずつ起き上がっている。

ロアンとミルカは、泊めてもらった礼として神殿の片づけを手伝っていた。

ロアンは薪を運ぶ。

ただし、昨日より少なめに。

エナとミルカの二人に見られているためである。

「それ、持ちすぎじゃないですか?」

エナが薬草の棚の前から言った。

ロアンは薪を抱えたまま固まる。

「これでも減らしました」

ミルカが濡れた床に小さな風を送って乾かしながら言う。

「昨日のロアン基準ではね」

「昨日の俺と今日の俺は違う」

「どのくらい?」

「薪三本分くらい」

エナは真面目に数えた。

「昨日より三本少ないなら、成長です」

ロアンは少し胸を張る。

「ほら」

ミルカは床を見たまま言う。

「成長幅が薪三本」

「単位があると分かりやすいだろ」

「分かりやすいけど、誇るには小さい」

「小さい精霊の神殿だから」

エナが少し嬉しそうに顔を上げた。

「今のは、けっこう合っています」

「本当に?」

「たぶん」

「エナさんのたぶん、当たりそうで怖い」

ミルカがすぐに言う。

「豆以外は」

エナは少し考えた。

「豆も、たまには当たります」

「たまに」

「はい。たまに、今日は豆を増やした方がいい気がします」

ロアンが聞く。

「それで当たったことは?」

「増やしたら、だいたい足ります」

ミルカは額に手を当てた。

「それは増やしてるから足りるの」

エナは目を丸くした。

「なるほど」

「今気づいたんですか」

「はい。ひとつ賢くなりました」

ロアンは笑った。

「朝から成長が多いな。俺は薪三本、エナさんは豆」

ミルカは静かに言う。

「私は床を乾かしている」

「それは働き」

「二人も働いて」

「はい」

ロアンは薪を運び、エナは薬草を並べ直し、ミルカは濡れた床へ小さな風を送った。

大きな魔法ではない。

床板の隙間に溜まった湿気を、少しずつ外へ逃がすだけだ。

エナはそれを見て、感心したように言った。

「便利ですね」

ミルカは少しだけ目をそらす。

「便利止まりです」

ロアンが薪置き場から顔を出す。

「便利は大事だって、昨日も言った」

「ロアンが言うと軽い」

「便利は軽い方が使いやすい」

「そういう話じゃない」

エナは風に揺れる床の湿りを見ていた。

「でも、本当に助かります。床が乾くと、老人の足が滑りにくくなるので」

ミルカは少し手を止めた。

「そういうことなら、やってよかった」

「はい」

エナはにこりと笑った。

その笑顔を見て、ミルカは少しだけ表情を和らげた。

片づけが一段落したころ、ロアンは祈りの間の隅にある古い本棚に気づいた。

背の低い棚だ。

少し傾いている。

並んでいる本も、立派なものばかりではない。

祈りの手引き。

土地の祭礼の記録。

薬草帳。

雨漏りの修理帳。

古い帳簿。

そして、子ども向けらしい薄い本が数冊。

ロアンはその中の一冊に目を止めた。

表紙は擦り切れている。

色もだいぶ薄くなっていた。

けれど、かろうじて絵が見える。

火のように赤い小さなもの。

水色の丸いもの。

風に乗った細いもの。

土色の四角いもの。

題名は、ゆっくり読めば分かった。

小さな精霊たちの話。

ロアンは本を手に取った。

「これ、読んでもいいですか」

エナが振り向く。

「あ、それ。子どもの頃によく読んでもらいました」

ミルカも近づいた。

「精霊信仰の本?」

エナは首を少し傾ける。

「難しい本ではないです。子ども向けです」

ミルカは本をのぞき込む。

「難しくない本の方が、たまに大事なことを書いてある」

ロアンが言う。

「それ、ミルカが言うと説得力あるね」

「どういう意味?」

「難しい本ばっか読んでそうだから」

「読んでるけど」

「認めた」

「難しい本も読むし、簡単な本も読む」

「俺は簡単な本からで」

「そうして」

エナがくすりと笑った。

「では、座って読みますか? 立ったままだと、本を落とすかもしれません」

ロアンは本をしっかり持つ。

「落としません」

ミルカが言う。

「昨日、薪を落としかけた」

「薪と本は違う」

エナは真面目に言った。

「落ちる時は平等です」

ロアンは一瞬黙った。

「足元の真理、広いな」

ミルカがうなずく。

「座って」

「はい」

ロアンは素直に腰を下ろした。

足りない精霊たち

本を開くと、紙は少し波打っていた。

何度も読まれたのだろう。

角は丸まり、ところどころ指の跡が残っている。

絵は古く、色は薄い。

けれど、小さな精霊たちの表情は、まだ分かった。

火の精霊は、少し得意げな顔をしている。

水の精霊は、眠そうに見える。

風の精霊は、どこかへ飛んでいきそうだ。

土の精霊は、動く気がなさそうにどっしりしている。

ロアンは声に出して読み始めた。

昔、世界がまだ形になっていなかった頃。

小さな火の精霊は、寒いところを温めようとしました。

火の精霊が踊ると、凍った地面は温かくなりました。

けれど、火は嬉しくなって踊りすぎました。

草は燃え、木の芽は黒くなり、温めるはずの場所は灰になってしまいました。

ロアンは少し止まった。

「いきなり失敗してる」

エナは懐かしそうに言う。

「火の精霊は、いつも張り切りすぎます」

ミルカが絵を見る。

「ロアンみたい」

「俺、燃やしてないけど」

「張り切りすぎるところ」

「そこだけ?」

「今のところ」

「今後増えそうで怖い」

ロアンは続きを読んだ。

小さな水の精霊は、乾いたところを潤そうとしました。

水の精霊が歌うと、雨が降り、地面はしっとりしました。

けれど、水は嬉しくなって歌いすぎました。

土は流れ、種は浮かび、潤すはずの場所は川になってしまいました。

ロアンは水の精霊の絵を見た。

「水もだめか」

ミルカが言う。

「だめというより、加減が難しい」

エナが頷く。

「水の精霊は、やさしいけど止まりにくいです」

「誰かに似てる?」

ロアンが言うと、ミルカは即座に返した。

「ロアン」

「俺、火も水も?」

「勢いが止まりにくい」

「属性が増えた」

エナが真剣に言う。

「二属性ですね」

ロアンは少し困った。

「強そうなのに、あまり嬉しくない」

ミルカは言う。

「制御できない二属性」

「弱点が見えた」

ロアンは続きを読んだ。

小さな風の精霊は、遠くへ種を運ぼうとしました。

風の精霊が走ると、種は遠くまで飛びました。

けれど、風は嬉しくなって走りすぎました。

種はどこかへ行ってしまい、どこに落ちたのか、風にも分からなくなりました。

ミルカが小さく笑った。

「これは少し好き」

ロアンが見る。

「どこが?」

「運べるけど、留められないところ」

「好きなの?」

「分かる、に近い」

エナが頷く。

「風の精霊は、よく忘れます」

「忘れるんだ」

「飛んでいるうちに楽しくなるので」

ロアンが言う。

「それも俺っぽい?」

ミルカは少し考えた。

「少し」

「増えた」

エナも少し考える。

「ロアンさんは、楽しそうに道を外れそうです」

「そこまで?」

ミルカが言う。

「地図がなければ」

「地図があっても、少し怪しい」

「エナさんまで」

エナはにこにこしている。

悪気はない。

悪気がない分、少し刺さる。

ロアンは咳払いして続きを読んだ。

小さな土の精霊は、すべてを支えようとしました。

土の精霊が眠ると、大きな山ができました。

けれど、土は眠りすぎました。

山は硬く、草は根を張れず、水は染み込まず、誰も動けなくなりました。

ロアンは本を少し下ろした。

「全員、足りないんだ」

エナがうなずいた。

「そういうお話です」

ミルカは土の精霊の絵を見る。

「精霊なのに、万能じゃないんだね」

エナは少し笑った。

「ここの精霊様は、けっこう不器用です」

ロアンは本を見つめた。

火も、水も、風も、土も。

どれも力はある。

でも、一つだけではうまくいかない。

強いから成功するのではない。

強いまま使うと、むしろ失敗する。

ロアンはぽつりと言った。

「ちょっと分かるな」

ミルカが見る。

「ロアンが?」

「俺、剣も中途半端だし、魔法も中途半端だし、旅もまだ下手だし」

ミルカは少し考えた。

「自覚はあったんだ」

「あるよ」

「じゃあ、少し安心した」

「安心するところ?」

「自覚がないと、こっちの仕事が増えるから」

「俺は仕事を増やしていたのか」

「かなり」

エナがくすっと笑った。

ロアンは少し肩を落としたが、不思議と嫌ではなかった。

足りないことを口にしても、誰もそれを責めなかったからだ。

少しずつ補う

ロアンはページをめくった。

小さな精霊たちは、それぞれ失敗して落ち込みました。

火の精霊は、燃やしてしまった灰の上に座りました。

水の精霊は、流してしまった種を探しました。

風の精霊は、種を飛ばしすぎた空を見上げました。

土の精霊は、硬くなった山の中で黙りました。

四人は言いました。

「自分には、世界を作れない」

ロアンは本を見ながら、小さく言った。

「まあ、そう思うよな」

エナが頷く。

「ここで子どもがよく悲しみます」

「悲しむんですか」

「はい。火の精霊が泣いている絵があるので」

ロアンは絵を見た。

確かに、火の精霊が小さくしょんぼりしている。

「火なのに涙が出るんだ」

ミルカが言う。

「絵本だから」

「便利だな、絵本」

エナが微笑む。

「涙で少し火が弱くなるのかもしれません」

「それはそれで理屈がある」

ミルカが感心したように言う。

「この神殿、たまに説明が柔らかくて強い」

「褒めてますか?」

「はい」

エナは嬉しそうに笑った。

ロアンは続きを読んだ。

火の精霊が、土の精霊の冷たい地面を少しだけ温めました。

すると、凍った土はやわらかくなりました。

水の精霊が、そこへ少しだけ雨を降らせました。

すると、土は潤い、小さな芽が顔を出しました。

風の精霊が、遠くから種を少しだけ運びました。

すると、芽の隣に新しい芽が増えました。

土の精霊が、芽の根を少しだけ支えました。

すると、芽は倒れず、空へ向かって伸びました。

ロアンは読む声を少し落とした。

火は、燃やすだけではありませんでした。

水は、流すだけではありませんでした。

風は、散らすだけではありませんでした。

土は、止めるだけではありませんでした。

小さな精霊たちは、自分の力を少しずつ分け合いました。

すると、世界は少しずつ形になっていきました。

ロアンは本を見つめた。

「一人で全部やらなくていいんだな」

ミルカが言う。

「子ども向けの話だよ」

ロアンはうなずく。

「でも、子ども向けだから分かりやすい」

エナが言った。

「父もそう言っていました。難しいことは、簡単な話にした方が残るって」

ミルカは少し頷いた。

「それは分かる」

ロアンがミルカを見る。

「難しい話を簡単にするの、得意?」

「得意ではない」

「じゃあ、難しいまま?」

「相手による」

「俺には?」

「かなり簡単にしてる」

「そこまで?」

エナが尋ねる。

「どのくらい簡単に?」

ミルカは真顔で言う。

「靴紐くらいから」

ロアンは目を閉じた。

「俺の理解、靴紐から始まるのか」

「大事でしょ、靴紐」

エナも頷く。

「靴紐は大事です」

「また二対一」

ロアンはため息をつきながらも、笑ってしまった。

それから、本の絵に視線を戻す。

小さな芽を、四つの精霊が囲んでいる。

どの精霊も、世界を一人では作れなかった。

でも、少しずつならできた。

少しずつ分けると、失敗した力が、役に立つ力に変わっている。

それが、妙に胸に残った。

洞窟の時も

ロアンは本を閉じかけて、また開いた。

国境洞窟のことを思い出した。

自分たちは魔物を討ち倒した英雄ではない。

書状を運んだだけ。

けれど、両村の自警団が同じ時刻に動けた。

洞窟は開いた。

ロアンは言った。

「洞窟の時も、そうだったのかも」

ミルカはすぐには答えなかった。

少し考えてから、うなずく。

「私たちだけでは洞窟を開けられなかった」

「でも、自警団だけでも時刻を合わせられなかった」

「反対側の村も、こちら側の村も、どちらかだけでは無理だった」

エナは二人を見た。

「それで、開いたんですか?」

ロアンはうなずく。

「たぶん。みんなが少しずつやったから」

ミルカが補足する。

「ロアンは、少しずつを雑にまとめるのが得意かもしれない」

ロアンが顔を上げる。

「褒めてる?」

「半分」

「もう半分は?」

「雑」

「予想通りだった」

エナは小さく笑った。

「でも、少しずつを集めるのは、大事だと思います」

ロアンは本の絵を見る。

「俺は、火みたいに強く燃やせないし、水みたいに癒やせないし、風みたいに遠くへ飛べるわけでもないし、土みたいに支えられるわけでもないけど」

ミルカが言う。

「比べ方が少し変」

「そう?」

「火と水と風と土に並ぼうとしてる」

「そういうつもりじゃ」

「でも、続けて」

ロアンは少し照れくさそうに頬をかいた。

「洞窟の時、俺たちがやったのは、書状を運んだだけだった」

エナは静かに聞いていた。

「でも、それがなかったら、両側から入れなかったんですよね」

「はい。たぶん」

ミルカが言う。

「たぶんじゃなくて、そこはそう」

ロアンは少し驚いてミルカを見た。

「言い切るんだ」

「書状を運んだのは事実だから」

「でも、洞窟を開けたのは自警団だろ」

「それも事実」

エナが本の絵を見ながら言う。

「どちらも、必要だったんですね」

ロアンは少し黙った。

それから、うなずいた。

「そうか。どっちかだけじゃ、だめだったんだ」

ミルカが言う。

「少しずつ、役割が違った」

「俺たちは、間に合うように走った」

「自警団は、洞窟に入った」

「村長たちは、書状を書いた」

「老人は、薬草道を教えた」

エナが微笑む。

「精霊たちみたいですね」

ロアンは少し照れたように笑った。

「俺たち、かなり泥だらけの精霊だったけど」

ミルカが即座に言う。

「精霊に失礼」

「そこまで?」

エナは真面目に考えた。

「泥の精霊なら、少し近いかもしれません」

ロアンはミルカを見る。

「ほら、近いって」

「喜ぶところ?」

「泥が役に立つこともある」

「あるけど、今はたぶん違う」

エナは楽しそうに笑った。

会話は軽かった。

けれど、ロアンの中に残ったものは、軽くなかった。

自分だけで足りないなら、誰かの力がいる。

誰かだけで足りないなら、自分が少しだけ間に入れることもある。

そのくらいのことなら、できるかもしれない。

そう思った。

どの精霊なんでしょう

エナは、本の中の四つの精霊を見ていた。

火。

水。

風。

土。

どれも小さく、不器用で、足りない。

でも、役割はある。

エナはぽつりと言った。

「私は、どの精霊なんでしょう」

ロアンは真面目に考えた。

「癒やすから、水?」

ミルカも考える。

「危ないところを感じるなら、風っぽくもある」

エナは目を丸くした。

「二つも?」

ロアンが首をかしげる。

「別に、一つに決めなくていいんじゃないですか」

エナは驚いたようにロアンを見る。

「いいんですか?」

「この話だと、一人で全部できないから補うんですよね。だったら、一人の中に少しずつ混ざっててもいい気がします」

ミルカが言う。

「ロアンにしては珍しくまとも」

「今日はそれ多くない?」

「まともなことを言う頻度が珍しいから」

「褒められてるのに傷が増える」

エナは笑った。

けれど、胸の奥に小さなものが残った。

自分の力を、無理に一つの名前に収めなくてもいい。

癒やし。

予感。

神官。

見習い。

娘。

どれか一つだけでなくてもいい。

混ざっているなら、混ざったまま考えてもいいのかもしれない。

ミルカは、エナの表情を見ていた。

「エナ」

「はい」

「どの精霊か決めるより、倒れない使い方を考えた方がいいと思う」

エナは少しだけ肩を落とす。

「そこに戻りますか」

「戻る」

「ミルカさんは、戻るのが上手ですね」

「戻る条件を決めてるから」

ロアンが言う。

「俺も最近は得意になってきた」

ミルカが即座に返す。

「自己申告は減点」

「また減った」

エナが言った。

「でも、戻れる人は強いと思います」

ロアンとミルカが同時にエナを見る。

エナは少し恥ずかしそうに続けた。

「癒やしを使うと、戻れなくなる時があります。力を使う前の自分に戻るのに、時間がかかるというか」

ミルカの表情が真剣になる。

「だから、倒れる前に言って」

「はい」

「本当に」

「はい」

「短めに倒れるのは禁止」

エナは少し笑った。

「それ、昨日も言われました」

「昨日言ったから今日も言う」

「毎日ですか?」

「必要なら」

ロアンが言う。

「ミルカの毎日は強いよ」

「ロアンも靴紐毎日確認」

「はい」

エナは二人を見て、また笑った。

自分の力をどうすればいいのか、まだ分からない。

だが、一人で考えなくてもいいのかもしれない。

それだけは、少し分かった気がした。

祈りの間の入口で、エナの父が三人の会話を聞いていた。

彼は、ロアンたちが古い子ども向けの物語を軽んじていないことに気づいた。

中央の神官なら、精霊像を片づけろと言うかもしれない。

子ども向けの本など、教義の中心ではないと言うかもしれない。

しかし、ロアンたちはその話を、自分たちの経験に重ねている。

エナも、楽しそうに話している。

神官は静かに思った。

この子は、ここだけに置いておくべきなのだろうか。

この神殿はエナを守ってきた。

だが、守ることと閉じ込めることは、同じではない。

まだ結論ではない。

ただ、迷いが少しだけ深くなった。

完成しない世界

ロアンは本の終盤を開いた。

小さな精霊たちは、世界を完全には作れませんでした。

山は崩れることがあります。

森は燃えることがあります。

川はあふれることがあります。

風は嵐になることがあります。

それでも、精霊たちはそのたびに補い合いました。

火が強すぎれば、水が冷ましました。

水が多すぎれば、土が受けました。

土が固すぎれば、風が種を運びました。

風が荒れれば、森が受け止めました。

世界は、一度で完成するものではありません。

少しずつ崩れ、少しずつ直されるものなのです。

ロアンは最後のページを見た。

そこには、四つの小さな精霊が描かれていた。

完成していない世界を見て、並んで笑っている。

山は少し歪んでいる。

川は曲がりすぎている。

森はところどころ薄い。

空には雲が多すぎる。

それでも、精霊たちは笑っていた。

ロアンが言った。

「完成しないんだ」

エナが本を覗き込む。

「子どもの頃は、そこが不思議でした」

ミルカが言う。

「完成した世界じゃなくて、直し続ける世界なんだ」

ロアンは本を閉じた。

「そっちの方が、本当っぽい」

「本当っぽい?」

エナが聞く。

ロアンは少し考えた。

「洞窟が開いても、すぐ全部戻ったわけじゃなかった。道も、荷も、人も、少しずつ戻る。昨日の神殿の屋根も、直さないとまた崩れる。俺の靴も」

ミルカが言う。

「靴は早めに直して」

「そこは完成させたい」

「完成というより修理」

「俺の旅、修理が多いな」

エナが言う。

「世界も修理が多いので、似ています」

ロアンは笑った。

「世界と俺の靴を並べていいのかな」

ミルカは真顔で言う。

「どちらも放置すると困る」

「並んだ」

エナも真面目に頷く。

「足元は大事です」

「また足元の真理だ」

三人は笑った。

けれど、ロアンの中で、笑いながらも何かが残っていた。

一度で完成しない。

足りないものがある。

崩れる。

直す。

補う。

それは、失敗ではなく、世界のあり方なのかもしれない。

ロアンは本を膝の上に置いた。

「俺たちが全部できなくても、できる人に届けばいいのかも」

ミルカが聞く。

「何を?」

「知らせとか、道とか、頼みごととか。俺たちが倒せなくても、倒せる人がいるかもしれない。俺たちが癒やせなくても、エナさんみたいな人がいる。俺たちが知らない道も、誰かが知ってるかもしれない」

エナが言う。

「それを探すんですか?」

ロアンは少し考える。

「探すというか、つなげる?」

ミルカは目を細めた。

「ずいぶん大きな話になってきた」

ロアンは慌てた。

「いや、今すぐ世界をつなげるとかじゃなくて」

「分かってる。でも、ロアンはそういう方向に行きそう」

エナは柔らかく笑う。

「向いていると思います」

ロアンは困る。

「そうかな」

ミルカとエナが同時に言う。

「たぶん」

ロアンは二人を見る。

「やっぱり、そのたぶん、強いのか弱いのか分からない」

ミルカが言う。

「ロアンが分からない時は、だいたい進む前に確認」

「今は?」

「本を返す」

「急に小さい」

エナが手を差し出した。

「では、確認としてお預かりします」

ロアンは本を返した。

「ありがとうございました」

エナは本を受け取り、少しだけ大事そうに抱えた。

「こちらこそ、久しぶりにちゃんと読みました」

「昔から知ってる話でも?」

「はい。知ってるつもりだったかもしれません」

ミルカが静かに言う。

「そういう本、ありますよね」

エナはうなずいた。

神殿の中に、朝の光が差し込んでいた。

白い柱はない。

大きな鐘もない。

けれど、古い本のページは、確かにそこで開かれていた。

足りないなら

その日の昼前、ロアンはエナの父に呼ばれた。

祈りの間の横の小さな部屋だった。

神官は、古い帳簿を閉じてロアンを見る。

「君は、あの物語をどう読んだ」

ロアンは困った。

「どう、と言われると……」

神官は急かさなかった。

ロアンは少し考えた。

難しい教義として読んだわけではない。

精霊信仰について深く理解したわけでもない。

ただ、絵本を読んだ。

でも、残ったものはある。

「一人で全部できなくても、いいんだと思いました」

神官はうなずく。

「それだけか」

「あと、足りないのは悪いことじゃないのかなって」

神官の目が少し細くなった。

「足りないのは、悪いことではない?」

ロアンはうなずいた。

「足りないと、誰かに頼めるので」

神官は黙った。

ロアンは少し不安になる。

「変ですか」

「いや」

神官はゆっくり息を吐いた。

「簡単な言葉ほど、時々難しい」

「俺、難しいこと言いました?」

「君が言うと、簡単に聞こえる」

「それは褒めてますか?」

神官は少し笑った。

「半分」

ロアンは苦笑する。

「最近、半分が多い」

「もう半分は、まだ分からない」

「それは正直ですね」

神官は窓の外を見た。

エナが庭で薬草を干している。

ミルカが布の湿りを確認している。

二人が何か話し、エナが笑った。

神官は静かに言った。

「エナには、力がある」

ロアンは黙って聞いた。

「だが、あの子は世界を知らない。自分の力の扱い方も、まだ知らない。私はここであの子を守れる。だが、外の世界までは見せられない」

ロアンは少し考えた。

「俺たちも、外の世界を全部知ってるわけじゃないです」

「だろうな」

「はい。すぐ迷います」

「そこは力強く言うところか」

「最近、迷う前に聞くことは覚えました」

神官は笑った。

「それは大事だ」

ロアンも少し笑った。

神官はもう一度、エナを見た。

「足りないなら、誰かに頼める、か」

その言葉は、ロアンに向けられたものではないようだった。

神官自身の中で、何かを確かめている声だった。

ロアンはそれ以上、踏み込まなかった。

分からないことを、無理に答えにしない。

それも、少しずつ覚えてきたことだった。

腹痛用です

出発の準備をしていると、エナが小さな薬包を持ってきた。

布に包まれた、軽いものだ。

「これを」

ロアンは受け取る。

「薬ですか」

「腹痛用です。旅先で変なものを食べた時に」

ロアンは薬包を見て、顔を上げた。

「俺、変なもの食べそうに見えます?」

ミルカが即答する。

「見える」

エナも少し遅れて言う。

「少し」

ロアンは肩を落とす。

「少しでも二人そろうと強いな」

ミルカは薬包を見る。

「ありがたいです。たぶん使います」

「使う前提?」

「旅先では何があるか分からない」

エナが真面目に説明する。

「知らない木の実は食べないでください」

ロアンはうなずく。

「はい」

「知らない茸もだめです」

「はい」

「知らない草も、よほどのことがなければ」

ミルカが横から言う。

「よほどでも、まず聞く」

「はい」

エナは少し考えた。

「知っている草でも、似ている別の草があります」

ロアンは薬包を握った。

「食べ物、難しいな」

ミルカが言う。

「だから食べる前に聞く」

エナもうなずく。

「聞ける人がいない時は、食べない」

「二人とも、俺が食べる前提で話してません?」

ミルカとエナは顔を見合わせた。

「少し」

「少し」

「そこは合うんだ」

エナはさらに小さな布を取り出した。

「薬草も少し入れておきます。湿気に弱いので、布をもう一枚」

ミルカが受け取る。

「詳しいんだね」

エナは少し照れた。

「ここでは、薬草を長持ちさせないと困るので」

「助かります」

ロアンも頭を下げた。

「ありがとう。ええと、変なものは食べません」

ミルカが言う。

「本当に?」

「本当に」

エナがじっと見る。

「豆は大丈夫です」

「豆だけ許された」

「豆は火を通してください」

「条件付きだった」

神官が入口から声をかける。

「ロアン君」

「はい」

「腹痛の薬は、飲みすぎるな」

「そこも?」

ミルカが言う。

「薬も食べ物も、量」

エナも言う。

「豆も」

ロアンは薬包を荷にしまいながら言った。

「旅、覚えることが多すぎる」

ミルカが答える。

「だから一人で全部覚えなくていい」

ロアンは少しだけ目を丸くした。

エナは柔らかく笑う。

小さな精霊たちの話は、もう少しだけ三人の間に残っていた。

村からの知らせ

ロアンとミルカが荷を背負い、神殿の石段を下りようとした時だった。

村の方から、一人の少年が駆け上がってきた。

息を切らし、雨上がりの坂で何度も滑りそうになりながら、神殿の前に飛び込んでくる。

「神官様!」

エナの父がすぐに立ち上がった。

「どうした」

少年は膝に手をつき、息を整える。

「鍛冶師のおじさんが、倒れたって。熱が、また上がって、奥さんが呼んでこいって」

エナの顔が変わった。

ロアンはミルカを見る。

ミルカもすでに荷を下ろしかけていた。

神官は短く言った。

「行く」

エナも薬箱を取ろうとする。

父は一瞬、娘を見た。

昨日、老人の腕を癒やした時の光。

夜の会話。

古い絵本。

足りないもの。

頼ること。

迷い。

それらが、神官の中で一瞬重なった。

「エナ」

エナは少し身構えた。

「はい」

神官は静かに言った。

「来なさい」

エナは驚いたように父を見る。

「いいんですか」

「薬箱を持って」

エナはすぐに頷いた。

「はい」

ロアンが言う。

「俺たちも手伝います」

ミルカも続ける。

「荷物運びでも、水汲みでも」

神官は二人を見る。

危なっかしい若者たち。

だが、何もしないより、何かをつなごうとする者たち。

「頼む」

ロアンは荷を置き直した。

「行こう」

ミルカが言う。

「足元」

エナも言う。

「石段、まだ滑ります」

ロアンは一歩目を慎重に下りた。

「足元の真理、今日も有効」

「毎日有効です」

エナは薬箱を抱え、少しだけ緊張した顔で笑った。

三人と神官は、村へ向かって急いだ。

その本は、神託ではなかった。

中央神殿の奥で授けられた言葉でもなかった。

聖なる光に包まれて開かれた書でもなかった。

寂れた神殿の古い本棚に置かれていた、子ども向けの物語だった。

火の精霊は、燃やしすぎた。

水の精霊は、流しすぎた。

風の精霊は、散らしすぎた。

土の精霊は、固めすぎた。

どの精霊も、世界を一人では作れなかった。

だから、補い合った。

ロアンは、その話を読んだ。

難しい教義としてではなく、ただの物語として読んだ。

けれど、その物語は彼の中に残った。

一人で全部できなくていい。

足りないことは、悪いことではない。

足りないなら、誰かに頼める。

誰かの足りないところを、自分が少しだけ埋められることもある。

後に、人々はこの日のことを大げさに語るかもしれない。

神の言葉を受けたのだと。

精霊が道を示したのだと。

だが実際には、雨上がりの田舎神殿で、若い旅人が古い絵本を一冊読んだだけだった。

それでも、その一冊が、彼の進む道を少し変えた。


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