エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第58話 捕らわれたシア

エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第58話 捕らわれたシア エレメンタルクロス ~精霊の剣~
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第58話 捕らわれたシア
エレメンタルクロス ~精霊の剣~
創作実験TOP作品紹介―― この剣はやがて、世界の向こう側にまで届く。 ―― 人が扱える精霊に、意志はない。火や光の力として術者に従う、粒子のような存在――それが、この世界の常識だった。白と黒。二種類の精霊を剣の形に固定する少年セトは、忌避…
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第58話 捕らわれたシア 人物相関図

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。

五国向けの草案

 光の精霊王との戦いが終わってから、しばらく経った。
 卓上には、ハルヴェンが持ち込んだ紙の束が積まれている。
 窓の外には穏やかな景色が広がり、赤い光も黒い翼も空を飛んでいない。
 それでも、星の外で何が起きたのかという問い合わせは、各国から届き続けていた。

「まずは五国へ送る、共通の報告書草案を作ります」

 ハルヴェンが紙の端をそろえ、筆を取った。
 彼は西のヴァレスト王国の騎士だが、五国すべてを代表して命令を出しに来たわけではない。
 当事者が知る事実を、一つの文書へまとめるために訪れていた。

「国ごとに違う内容を伝えると、後で食い違いが出ます。俺が三人から話を聞き、草案へまとめます」
「俺たちが書くんじゃないのか?」
「セトたちが自由に書いたものを、後から報告書へ直すより早いでしょう」
「自由には書かない」
「シアは、ほとんど書かないでしょうね」

 シアがハルヴェンを見る。

「聞かれたことには答える」
「だから聞きに来ました」

 ハルヴェンは最初の紙へ題名を書いた。
 光の精霊王の異常活動、周辺地域への影響、大気圏外での戦闘、最後に地上から見えた八つの赤い光。
 だが、これだけ並べても何が起きたのかは伝わらない。

「最初から順番に聞きます。各国が一番知りたいのは、今も危険が続いているのかどうかです」
「もう倒したぞ」
「その結論を、初めて読む人にも分かるようにするんです」

 ネアが机上の紙へ目を落とす。

「確認できた事実と、私たちの推測は分けた方がよいでしょう」
「そうします。分からないことを、分かったようには書きません」

 セトは窓の外を見た。
 あの八本の赤い筋だけを見た人々には、その前の一か月も、星を一周した十分間も見えていない。
 説明する必要があることは、三人が思っていたより多かった。

個人情報

「その前に、名前の扱いを決めましょう」

 ハルヴェンが筆を止めた。

「各国へ送る以上、個人情報には配慮します。報告書には個人名を出さず、役割名だけを記載します」
「わたしたちにも、個人情報に関する法が適用されるのか?」

 シアの問いに、ハルヴェンは少し考えた。

「分かりません」
「分からないのですか?」
「人間を対象に作られた法ですからね。国へ属していない精霊王が対象になるかは、確認しないと分かりません」
「適用されないなら、名前を書いてよいということですか?」
「そういうことにはしません。法が適用されるかとは別に、名前は伏せます」

 ネアがうなずく。
 公的な文書へ名前が残れば、それを誰が何のために利用するか分からない。
 伏せられる情報は伏せるという判断には、一定の意味があった。

「各国へ広く伝わるのであれば、その方がよいでしょう」
「では、今代のイフリート、今代のセレーネ、同行した剣状精霊術士一名と記載します」
「今代のイフリートは、わたししかいない」
「今代のセレーネも、私だけですね」

 ハルヴェンの筆が止まった。
 セトが二人を見る。

「それで個人情報を隠したことになるのか?」
「個人名は伏せています」
「誰のことかは分かるぞ」
「配慮した形にはなっています」

 さらに、二本の精霊剣を同時に持つ人間が何人いるかという話になる。
 ハルヴェンはその人数を口にせず、書きかけの文へ視線を戻した。

「せめて名前を直接書くことは避けましょう。どうしても誰かを指す必要がある時には、立場で区別します」
「結局、読めば分かるんだな」
「ええ。ですが、書くことと書かないことを選ぶ余地はあります」

 シアは納得していない顔をした。
 セトも完全には納得できない。
 それでも、正式な報告書にシアとネアの個人名は載せないことになった。
 自分たちが誰なのか分かっている者同士だからこそ、少し妙な取り決めだった。

書くこと

「では、最初からお願いします」
「光の精霊王がいた」
「もう少し前からです」
「光の精霊王がいる場所へ行った」
「周辺の状況もお願いします」

 シアは説明する役をネアへ譲った。
 ハルヴェンは何も言わず、筆を構え直す。

「光の精霊王が活動していた地域では、植物の焼失と急成長が繰り返されていました。大地も隆起と陥没を続け、河川や湖の位置まで変わっていました」
「光というより、混沌だったな」

 セトが付け加えた。
 燃え尽きたはずの場所に草木が茂り、その隣では地面が裂ける。
 一つの現象が終わる前に、別の属性の働きが割り込んでいた。
 遠くから見た人間には、どこから逃げれば安全なのかさえ分かりにくかったはずだ。

「被害を受けた地域は、すべて確認できていますか?」
「いいえ。私たちが実際に見た範囲と、各地から集まった情報は分ける必要があります」
「分かりました。数字が足りないところは、未確認として残します」

 ハルヴェンは紙へ短い注記を入れた。
 次に、光の精霊王自身の状態を尋ねる。

「光の精霊王自身に、明確な自我は確認できませんでした。周辺の精霊王も影響を受け、現在の世界を考慮せず、役割だけを広げようとしていました」
「狂っていた」
「各国向けなので、状態が分かるように書きます」

 ハルヴェンは三人の言葉を、順に文章へ変えた。
 シアの短い答えを、ネアが補足する。
 ネアの説明を、セトが途中で短くする。
 セトが省いた部分を、ハルヴェンが聞き直した。

「この作業、いつまで続く?」
「最後までです」
「光の精霊王が倒れたところから書けば、すぐ終わるのに」
「それでは各国が、なぜ被害が起きたのか分からないままになります」

 シアは机に頬杖をついた。
 誰が悪意を持って攻撃したのか、誰が自分の役割しか見えなくなっていたのか。
 ネアの話を聞きながら、ハルヴェンはそこまで区別して書こうとしていた。
 短い答えだけでは済まない仕事だった。

書かないこと

 聞き取りは、光の精霊王との最初の戦闘まで進んだ。
 ハルヴェンの前には、書き直しの入った紙が何枚も重なっている。

「極炎と絶光を使っても、倒せなかった」
「光を受けるたび、二本の精霊剣に損傷が出た。修復はできたが、二人の力が先に尽きる状態だった」

 ハルヴェンは、そこまでを書き留めた。

「その後、セトが二人を人型へ戻し、単独で戦闘を継続した」
「ああ」
「白刃と黒刃の出力を上げた方法は?」
「詳しく書かなくていい」
「報告書には、突然強くなったように見えますよ」
「精霊回路を壊しながら、限界を越えて原光を通しただけだ」

 ハルヴェンが筆を置いた。

「ほかの人間が再現できる方法ですか?」
「方法だけなら、できる可能性はある」
「なら、書かない方がよいでしょうね」
「同意します」

 ネアも答えた。

「強くなる方法として受け取られる可能性があります。実際には、自分を壊す方法です」

 セトは一度失った精霊回路を思い出した。
 今はヴァルナが重ねた別の構造で動いているが、それは壊した方法が安全だったという意味ではない。
 自分と同じことを試す人間が現れれば、助からないかもしれない。

「再構築できたことも詳しく書くのですか?」
「生還した事実は書きます。ただし、処置の再現方法は書きません」
「俺自身にも、全部を再現して説明できるわけじゃないからな」

 報告書には、セトが通常の安全限界を越えて原光を扱い、精霊回路へ致命的な損傷を受けたとだけ記された。
 極剣と絶剣の具体的な原理は、書かれなかった。

 話は四翼にも及んだ。
 二人が力を得た事実と、その後しばらく個人としての判断を失った事実は伏せられない。
 だが、原初の知識にある鍵をどう開いたかまで説明する必要はなかった。

「危険だったことは伝える。でも、危険なことを真似できる書き方にはしない」
「その方針でいきましょう」

 ハルヴェンは新しい紙を取り、書くことと書かないことをはっきり分けていった。

四翼と八翼

 その後も、聞き取りは続いた。
 残る分霊核を探したこと。シアとネアが四翼を得たこと。そして、二人が互いを消そうとして約一か月も戦い続けたこと。
 ハルヴェンは何度か筆を止めた。
 聞き間違いではないと確かめるたび、書きかけの文章へ言葉を足していく。

「一か月もの間、二人だけで戦っていたのですか?」
「そうだ。途中から、相手を倒すこと以外は考えられなくなっていた」
「戦う理由そのものが、今の私たちの理由ではなくなっていたのです」
「それで、どうやって止まったんです?」
「ネアが、わたしの名前を呼んだ」

 シアは短く答えた。
 ネアも、その声を聞いて今の自分を思い出したことを説明する。
 名前を呼んだから四翼が消えたわけではない。
 大きな力を持つ二人が、個人として判断できる状態へ戻ったのだった。

「では、その後は四翼を保ったまま戦えたと」
「ああ。セトが来て、助けてくれた」
「次は、四翼のイフリートとセレーネが、それぞれ精霊剣となった」
「極炎と絶光だ」
「その二本を、セトが同時に使用した」
「ああ」
「結果として、赤い四翼と黒い四翼を合わせた八翼が成立した」

 ハルヴェンは自分で書いた文章を読み返した。

「これだけでも、十分に意味が分かりませんね」
「わたしたちは分かる」
「当事者ですからね」

 セトの左右には二本の精霊剣。
 シアとネアは四翼を保ち、それぞれ七つの分霊核を扱った。
 火と月は一つに混ざるのではなく、別々の力として同じ相手へ向けられた。

「双天・星華」

 シアが言った。

「技名も記載するのですか?」
「あとで同じものを使った時、何のことか分かる」
「また使う前提なのですね」
「使えるものは使う」
「識別名としては、記載してもよいでしょう」

 ネアまで賛成したため、ハルヴェンはその名を記した。
 十六門の砲撃で巨体を大きく崩し、その隙にセトが内部へ侵入したことも書き加える。

「内部で一時的に四翼に似たものを作った件は?」
「書くのか?」
「俺も説明できるほど理解していません。省きます」

 核となる人型を倒したところまで書き終えると、ハルヴェンはようやく次の紙へ移った。
 そこから先にも、まだ信じがたい出来事が残っていた。

世界一周

「核を倒した後も、光の精霊王だったものには力と質量が残っていた」

 ハルヴェンが確認しながら書く。

「そのままでは地上へ落下した」
「ああ」
「双天・星華をもう一度使う余力はなかった」
「無理だった」
「そこで、八翼で星を一周した」

 また筆が止まった。

「約十分で?」
「八翼でも、十分くらいかかりました」
「一周する間、加速を続けた」

 セトが答える。
 ハルヴェンは丸く書きかけた文字を見つめ、それから三人の顔を順に確かめた。

「一周する必要があった理由も、書いておきたいのですが」
「その場から押すだけじゃ、重すぎた。離れて加速して戻れば、もっと大きな勢いをぶつけられる」
「ただし、真っすぐ遠ざかって引き返すのではありません。星に沿って進路を曲げ続けたのです」
「加速したのは、わたしだ!」

 シアが赤い翼を一枚だけ小さく見せた。

「赤い四翼から火を放って加速した。ネアは黒い四翼で進路を曲げた」
「分霊核を使って加速したのですか?」
「いいや。飛ぶのは翼だ。分霊核は砲撃や制御のために使う」

 ハルヴェンは、四翼による加速と方向制御を別々に記した。
 さらに、衝突した後を尋ねる。

「戻った後、そのまま光の精霊王だったものへ衝突した」
「返ってくる衝撃は、私が反射しながら散らしました」
「残った分ごと、わたしが押した」

 ハルヴェンは再び三人を見た。

「文章にすると、書き間違いにしか見えませんね」
「間違っていない」
「分かっています」

 八翼は星を一周し、衝突で残骸の進路を変えた。
 地上へ向かう落下軌道から外れたことを確認して離脱し、最後にシアが八門砲撃を放った。

「最後の八本は、地上からも見えています」
「なら、その部分は信じるだろ」
「そこから世界一周まで信じてもらえるかは別です」

 シアは、自分たちが本当に飛んだのだからそれでいいと答えた。
 ハルヴェンは筆を動かしたまま、しばらく何も言わなかった。

報告書

 聞き取りは、日が傾くまで続いた。
 ハルヴェンは書き終えた草案を、最初から読み直す。
 窓から差す光が細くなり、机の上には書き損じの紙も積まれていた。

 光の精霊王は倒された。
 核となる人型との接続は断たれ、残された巨大な身体も落下軌道から外された。
 地上への直接的な衝突は回避された。
 今代のイフリートとセレーネは、現在、個人としての意思を保ったまま四翼を制御している。
 今回の戦闘は、いずれの国家から命じられた軍事行動でもない。

「これで、終わったと書けますね」
「少なくとも、あの光の精霊王についてはな」
「それでも、すべて確認できたとは言えません」

 ネアが草案の末尾を指した。
 巨大な残骸は星の外で崩れたが、それより前の戦闘で地上へ落ちた破片まで、すべて調べ終えたわけではない。
 見つけたものが何なのか、通常の人間には判断できない可能性もある。

「小さな残骸が残っている可能性は否定できず、発見した場合は独自に利用せず、関係者へ連絡することを推奨する、と書きます」
「何かに使えるものなのか?」
「分かりません。だからこそ、勝手に使わない方がいいのです」

 ハルヴェンは注意書きを加えた。
 各地にある異常の痕跡を、今すぐ三人だけで調べ尽くすことはできない。
 国や町の力を借りる必要がある。

「これを五国向けの共通草案にします」
「安心すると思うか?」
「しないでしょうね」

 ハルヴェンは紙をそろえた。

「ですが、何も分からないまま赤と黒の光が空を飛び、最後に八本の赤い線が見えた状態よりはましです」
「実際の内容も、十分悪く見えると思いますが」
「そこは変えられません」

 草案をもとに、正式な報告書が作られた。
 その中に三人の個人名は一つも記載されなかった。
 誰について書かれたものなのかは、読めばすぐに分かる。
 それでも、個人情報への配慮だけはされていた。

平和の証拠

 報告書が五国へ送られた後も、世界は終わらなかった。
 空に赤と黒の光を見た者たちの間では、さまざまな話が生まれていた。
 世界の終わりを防ぐ戦いだったという話もあれば、精霊王同士が世界を取り合ったという話もある。
 空の外にはさらに大きな世界があり、最後の八本の赤い線は次の終わりの印だった、と書いた紙まで売られていた。

「もう終わった後なのに、終末論を話してる」

 シアが町で手に入れた紙を卓上へ置いた。
 文字を指で追い、最後の一行を見て首を傾げる。

「終わりの前触れだって書いてある。でも、終わったんだぞ」
「本当に終末が来ていれば、それを論じる余裕もありません」

 ネアが答える。

「終末論が流行していること自体、平和になった証拠なのでしょう」
「変な証拠だな」
「平和とは、そういうものかもしれません」

 セトは紙を手に取り、半分ほど読んで机へ戻した。
 実際に戦った三人が読めば、間違っている部分はいくつもある。
 それでも、町の人間がこの話題で言い争ったり、紙を買ったりできることが、少し前とは違っていた。

 戦いが終わっても、後始末まで終わったわけではない。
 光の精霊王に関する追加確認、落下した破片らしきものの調査、各地で観測された光の記録。
 魔獣の目撃情報も、以前と変わらず届いていた。

「また三人で行くのか?」
「確認だけなら、一人で済むことも多いでしょう」
「そうだな。俺まで毎回ついて行く必要はないか」
「だったら、わたしも一人で行けるな!」

 シアは当然のように言った。
 以前なら三人がそろわなければならなかった相手も、今は現れていない。
 シアとネアが個々の意思で行動し、セトが別の用事を片づける日も増えた。

 三人が全員そろわない時間も増えていた。
 それを心配する者はいなかった。
 別々に動いても、帰ればまた顔を合わせる。
 それもまた、平和になった証拠だった。

北からの知らせ

 北側の山地で、大型の魔獣らしきものを見たという知らせが、近くの町から届いた。
 街道を外れた谷の一部が焼けており、遠くから赤い光を見た者もいるという。
 ただし、魔獣の姿を近くで確かめた人間はいなかった。
 地図の端には、おおよその場所だけが示されていた。

「火なら、わたしが行く」

 シアが真っ先に立ち上がった。

「正体は確認されていません」
「だから見てくる」
「三人で行くほどの相手か?」

 セトが尋ねた。
 ネアは地図を広げ、山地と街道の位置を確かめる。

「火の精霊力が残っているだけなら、シアが見ればすぐに分かるでしょう。魔獣がいたとしても、まずは確認だけです」
「わたしなら火の痕跡は追えるし、大きな魔獣でも見つければ分かる」
「倒してこいとは言ってないぞ」
「分かってる。何がいるか見てくるんだろ」

 シアは七つの赤い分霊核を寄せた。
 休みが続いていたためか、動きはいつも以上に軽い。
 セトはその様子を見ながら、地図に書かれた谷へ目を落とした。
 近づいた人間がいないなら、危険の種類も分からないままだ。

「異常があれば、無理に近づくな。様子がおかしければ戻ってくれ」
「すぐ戻る」
「知らない相手なら、一度距離を取ることも考えてください」
「ネアまで。ちゃんと見てくるよ」

 セトはそれ以上引き止めなかった。
 火の精霊王にしか判断できない痕跡を、わざわざ三人で確かめる必要はない。
 何か異常があれば、いったん戻って相談できる。
 そう判断したのは、三人とも同じだった。

 シアが外へ出る。
 赤い七核が周囲に浮かび、火の力で地面を蹴ると、その身体は北の空へ上がった。
 セトとネアは遠ざかる赤い光を見送った。
 光の精霊王との戦いが終わってから、別々に行動することは何度もあった。
 だから、この日も特別な別れにはならなかった。

焼けた谷

 報告された場所に、魔獣はいなかった。
 山と山の間に細長い谷があり、斜面を縫うように岩と草が続いている。
 ところどころ黒く焼けていたが、山火事が広がった跡には見えない。
 火の通った場所が、谷の中央を囲むように不自然に途切れていた。

「火の跡だけか」

 シアは谷の上から周囲を見渡した。
 大型魔獣が走り抜けたなら、岩が砕かれたり、草が押し倒されたりしていてもよい。
 しかし、地面を荒らしたような跡は見当たらない。
 焼けていない草が、焦げた岩のすぐ隣で風に揺れていた。

 シアは少し離れた場所へ降りた。
 足元の土を拾い、指の間で崩す。
 熱は残っていないのに、細い火の精霊力が地下へ向かっていた。
 地表を焼くためではなく、どこかへ導くために置かれたような流れだった。

「変な燃やし方だな……」

 七つの赤い分霊核が、シアの周囲へ広がる。
 岩陰を確かめ、足元の流れをたどり、谷の両側へ意識を向けた。
 核は離れた山まで飛んでいくわけではない。
 シアは少しずつ位置を変えながら、近くの地面に何があるかを調べた。

 生き物の動きは少ない。
 代わりに、地中を通る精霊力が何本にも分かれていることに気づいた。
 自然に生じた火なら、周囲の原光ともっと緩やかにつながる。
 今見えるのは、通る場所と方向が決められた流れだった。

「これ、人間が作ったものか?」

 シアは岩の割れ目へ手をかざした。
 薄い火を流すと、返ってくるはずの力が地下へ抜けた。
 吸い込まれる方向を確かめようと、もう一度手を伸ばす。
 そこに、複数の流れが同時に集まった。

「……ん?」

 シアが足元へ視線を落とした瞬間、焼けた地面が割れた。
 岩の下で、金属が引きずられるような音が重なる。
 正体を確かめるより先に、黒ずんだ鎖が飛び出してきた。

鎖

 最初の一本が、シアの右足首へ巻きついた。
 続く二本は左右の腕を狙う。
 シアは身体をひねって腕へ迫る鎖をかわし、足首をつかむ一本へ手を伸ばした。
 引くと地面が震え、鎖の根元を覆っていた岩が砕ける。

「なんだこれ!」

 谷の両側から、新しい鎖が伸びた。
 シアは足首の一本へ火を流す。
 黒ずんだ表面が赤く輝き、流れた火の大半が地面の下へ吸い込まれた。
 それでも、さらに火を集中させると、露出した一節が焼けて裂けた。
 シアはそのまま引きちぎり、自由になった足を岩へつく。

「よし、一本!」

 しかし、足を踏み出すより早く、別の鎖が腰へ巻きついた。
 切れた鎖の根元が地中へ引き込まれ、代わりの一本が反対側から伸びてくる。
 シアは腕を振って二本を弾いた。
 弾かれた鎖は岩へ当たり、また別の方向から伸び直す。

 シアは空中へ跳び上がろうとした。
 腰へ巻きついた鎖が強く張り、身体を谷の中央へ引き戻す。
 火で強引に引き離そうとすると、その火まで鎖へ流れ込み、今度は拘束がさらに強まった。

「……火を吸ってる?」

 足首へ向けた火が、地中の別の場所へ運ばれていく。
 鎖そのものを焼き切れないわけではない。
 だが、一本を切るまでに流した力を奪われ、その間に次の一本が届く。
 火を出さずに引きちぎっても、谷の別の位置から予備が伸びる。

 シアは鎖を二本つかみ、力任せに引いた。
 岩と土が巻き上がり、地面の下に埋まっていた固定点が一つ抜ける。
 その穴から、まだ別の鎖が現れた。
 谷全体が、最初からシアを捕まえるために用意されていたようだった。

「罠か!」

 シアが顔を上げる。
 相手の姿は見えない。
 鎖だけが、切るたびに別の方向から迫ってきた。

四翼

「だったら、全部まとめて吹き飛ばす!」

 赤い四翼が開いた。
 谷の中央が赤く照らされ、シアを囲む鎖が一斉に強く張る。
 四翼へ集まった火が、身体へ巻きついた鎖に引かれていった。
 鎖を通った力は、地面の奥へ運ばれる。

「ふざけるな!」

 シアは四翼の向きを変え、露出した鎖の一本へ火を集中させた。
 火が鎖の表面を焼き、連結した部分を赤く裂く。
 シアが身体をひねると、一本が焼け落ちた。
 空いた隙間へ右腕を抜こうとする。
 だが、反対側から伸びた鎖が、その腕を先に捉えた。

 シアは七つの分霊核を周囲へ並べた。
 核の内部には、もともと蓄えていた火がある。
 身体からの供給が奪われても、その力まで瞬時に消えるわけではない。
 一つの赤い核が短い火を放ち、岩陰の固定点を吹き飛ばした。
 続いて別の核から火を放ち、谷の端で鎖を支えていた岩を崩す。

「これならどうだ!」

 固定点が二か所、続けて壊れた。
 しかし、身体を引く鎖の力は緩まない。
 谷の反対側で別の導路が動き、予備の固定点へ拘束が引き継がれる。
 七つの分霊核を動かしている間にも、シア本体へ巻きついた鎖は火を奪い続けた。

「固定点、二か所損傷」
「予備へ切り替え」

 谷の上から、人間の声が聞こえた。
 シアはそちらを見上げたが、岩の影に人影は見えない。
 見えない相手は攻撃を撃ち込んでこない。
 ただ、鎖を補充する指示だけが続いていた。

 シアは残る核へ力を集め、八門の砲撃を構えようとした。
 だが、核へ送る火の流れが鎖に引かれ、八つの射点を同時に満たせない。
 蓄積分だけで個別に撃つことはできても、構えを整える間に新しい鎖が届く。
 胸にも一本が巻きつき、四翼の流れをさらに奪った。

 力比べで負けたわけではない。
 鎖は壊せる。
 それでも、壊した分だけ補充され、使った火を奪われ続けている。
 相手は、シアが強いことを前提にしていた。

縛炎鎖

「縛炎鎖、接続を確認」
「対象の出力上昇に合わせ、拘束を追加」

 谷の上から、別々の男の声がした。
 シアの両腕、両脚、腰へ、さらに鎖が巻きついていく。
 一本の拘束を緩めれば、別の一本が張る。
 火を流せば、その力の一部が地中の導路へ抜かれ、拘束を強めるために使われた。

 シアは右腕の鎖へ火を集め、つなぎ目を焼き切った。
 すぐに左腕へ力を移し、もう一本を引きちぎる。
 だが、自由になった右腕には新しい鎖が巻きつき、左肩にも別の鎖が届いた。
 谷の斜面が崩れ、岩がいくつも落ちる。
 それでも、鎖の数は減らなかった。

「出てこい!」

 シアが谷の上へ叫ぶ。
 返事の代わりに、金属の擦れる音がした。
 相手は姿を見せず、シアを倒すための攻撃も仕掛けてこない。
 ただ、拘束の状態を見て鎖を増やしていた。

 シアはセトとネアとのつながりへ意識を向けた。
 切れた感覚はない。
 セトへ向かう細い火の流れを感じることもできる。
 しかし、その流れへ力を送ろうとすると、途中で縛炎鎖が火を奪っていく。
 声を届けられたかどうか、シアには確かめられなかった。

「対象の出力、低下」
「固定を続けろ」

 人間たちは、シアを一度も名前で呼ばなかった。
 聞こえるのは出力と固定点の話だけだった。
 何本壊されたかは数えているのに、その鎖を壊した相手が何を考えているかには触れない。

「おい! わたしの話を聞け!」

 シアは胸へ巻きついた鎖をつかみ、強く引いた。
 金属が軋み、地面の下でまた何かが壊れる。
 それでも別の鎖が背中から伸び、身体を固定した。

「わたしはシアだ!」

 声は谷へ響いた。
 しかし、返事はない。
 研究者たちが確認しているのは、イフリートの火と拘束の状態だけだった。
 彼女の名前は、最初から必要な情報に含まれていなかった。

収容

 谷の端で、地面が持ち上がった。
 土と岩の下から、黒い枠がせり上がる。
 シアを立ったまま収めても余るほどの大きさがあり、内側には何本もの鎖を受けるための固定具が並んでいた。
 谷へ張られていた導路の一部が、枠へつながり始める。

「搬送へ移行する」

 谷の上から声がした。
 鎖が同時に巻き取られ、シアの身体が黒い枠へ引かれた。
 足を地面へ食い込ませる。
 岩が砕け、足元に深い溝ができた。
 それでも、背中と腰を引く鎖は止まらない。

「離せ!」

 シアは腕を振り、横から伸びる一本を焼き切った。
 身体をひねれば、まだ動ける隙間がある。
 だが、その隙間へ黒い枠から伸びた別の鎖が入り込み、空いた腕をつかんだ。
 谷に設置されたものとは別の拘束が、次々に加わっていく。

 シアは赤い四翼を広げ直した。
 火を放って枠から離れようとする。
 しかし、翼に集めた火は胸の鎖へ引かれ、黒い枠の奥へ流れた。
 四翼そのものが消えたわけではない。
 力を出すたびに、逃げるための流れを横取りされていた。

 七つの分霊核がシアの周囲を移動する。
 最後の一つが小さな火を放ち、腕を押さえる鎖の根元を焼いた。
 だが、枠の内側では別の固定具がすぐに閉じた。
 核を遠くへ逃がすことも、そこで落ち着いて撃ち続けることもできない。
 シア自身が枠へ引き込まれていくからだった。

「イフリート、収容位置へ」

 両腕と両脚が、別々の方向へ固定された。
 次に腰と胸の鎖が締まり、身体を動かせる範囲が急に狭くなる。
 シアはなおも力を込めたが、先ほどまでより火が集まらない。
 谷での抵抗に使った分まで奪われ続けていた。

「イフリート、収容完了」

 黒い枠の覆いが閉じた。
 外の光が消えた。
 シアの最後の叫びだけが、狭い空間へ返ってきた。

運ばれる

 どれほどの時間、どこへ運ばれたのか、シアには分からなかった。
 黒い枠の中では、外の景色も、進む方向も見えない。
 ときどき揺れが伝わるが、地上を運ばれているのか、地下を通っているのかさえ判断できなかった。
 鎖からは絶えず火が抜かれていく。

 シアは意識を保ちながら、一本ずつ鎖の位置を確かめた。
 腕、脚、腰、胸。
 どこかに手を伸ばす余裕があれば、その一本を壊せるかもしれない。
 しかし、今は関節を動かすことさえ難しかった。
 火を集中させると、鎖がその力を奪い、固定具の奥へ運んでしまう。

「こんなもの、ずっと続けられると思うなよ……」

 返事はなかった。
 七つの分霊核はまだ近くにある。
 蓄えている力が一度に消えたわけでもない。
 だが、枠の内側には核を自由に動かせる広さがなく、砲撃の向きをそろえることもできなかった。
 シアは小さな火を作り、鎖の接続部分へ向けてみる。
 火は届いたものの、外側から別の流れに引かれ、奥へ逃げていった。

 覆いの向こうで、人間の声がした。

「出力は安定」
「拘束を維持」
「予定地点まで継続」

 誰もシアへ話しかけない。
 相手がまだ生きて意識を持っていることは、確認する必要すらないようだった。
 シアも、やがて声を出さなくなった。
 返事のない相手に叫ぶより、鎖を緩める機会を探す方を選んだ。

 セトとのつながりへ、もう一度意識を向けた。
 消えてはいない。
 だが、その方向へ火を流そうとすると、やはり途中で奪われる。
 届いたかどうかも分からないまま、集中が途切れた。

 意識が沈みかける。
 シアは歯を食いしばって顔を上げた。
 このまま眠ってしまえば、自分で鎖を壊すこともできなくなる。
 そう分かっていても、身体の内側から火が抜け続けていた。

 やがて、黒い枠の動きが止まった。
 覆いが開いた。

巨大な器

 外は暗かった。
 広い空間の中央に、巨大なものが横たわっている。
 生き物のようにも見えるが、呼吸はしていない。
 赤黒い表面には裂けた部分があり、その奥には硬い骨組みのような構造が通っていた。
 肉に似たものと人工的な導路が、無理やりつなぎ合わされているようだった。

 シアは目を凝らした。
 黒い枠の位置からでは、全体の大きささえ分からない。
 奥へ続く壁が、この巨大なものの一部なのか、それを収める建物なのかも見分けにくかった。
 人間たちは、慣れた手順で枠を動かしている。
 誰も、シアへ何をするつもりか説明しなかった。

「何だ、これは……」

 黒い枠が巨大なものの内部へ運ばれた。
 あらかじめ開けられていた空洞へ、枠ごと押し込まれる。
 七つの赤い分霊核もシアの周囲に残ったまま、同じ場所へ入っていった。
 壁の近くには、何本もの導路が口を開けている。

「火の導路、接続を開始」

 シアへ巻きついた縛炎鎖が、空洞の奥にある導路へ一本ずつつながれた。
 火の流れる方向が変わる。
 それまでは鎖を通って遠くへ逃げていた火が、今度は周囲の巨大な構造へ広がっていく。
 まだ何かが動き出した様子はない。
 ただ、シア自身の力だけが、本人の意思とは無関係に外へ運ばれていた。

「火の導路、接続を確認」

 シアは鎖を引いた。
 手足は動かない。
 残った火を集めても、その流れは自分のもとへ戻らなかった。
 精霊剣となってセトへ身と力を預けたときとは違う。
 あのときは、自分で選んだ。
 今は、誰にも選択を聞かれていない。

「イフリートの組み込み、完了」

 人間の声がした。
 シアが顔を上げる。

「わたしは――」

 声がかすれた。
 それでも、最後の力を込めて言い直した。

「シアだ」

 返事はなかった。
 人間たちは次の作業へ移っている。

「起動準備へ移行する」

 巨大な器の内側が、ゆっくり閉じていった。
 最後まで、誰もシアとは呼ばなかった。


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エレメンタルクロス ~精霊の剣~
創作実験TOP作品紹介―― この剣はやがて、世界の向こう側にまで届く。 ―― 人が扱える精霊に、意志はない。火や光の力として術者に従う、粒子のような存在――それが、この世界の常識だった。白と黒。二種類の精霊を剣の形に固定する少年セトは、忌避…

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