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(一)神官長の到着
神殿から使いが来た翌朝、カランタ神殿分院の鐘が鳴った。
普段の祈りを知らせる鐘ではない。
短く二度。
間を置いて、さらに一度。
分院の者たちが慌ただしく動き始めた。
神殿前の広場へ、白い外套をまとった一団が入ってくる。
大仰な行列ではない。
若い神官と、記録係らしい神官。それに旅装の護衛。
その先頭に、一人の老人がいた。
分院長は老人の姿を見ると、階段を下りて深く頭を下げた。
中央神殿の神官長、エルネスト・ワルト。
山科理人は、その名をセリアから聞いていた。
中央から現地確認の指示を出した本人。
だが、神官長自身がカランタまで来るとは思っていなかった。
エルネストは、柔らかな目をした老人だった。
町の年寄りが子どもを見る時のような柔らかさではない。
長く祈り、長く迷い、口にできないものを抱え続けてきた者の目だった。
「雨期前巡察を前倒ししました」
エルネストは分院長へ告げた。
「中央から文書を送るだけでは、確認が遅れることもあります。今回は、私が見ます」
分院長は驚きを隠せていなかった。
「神官長自ら、ですか」
「はい」
それだけ答えると、エルネストは広場の端にいた理人へ顔を向けた。
セリアとリナも、理人の隣にいる。
「山科理人殿ですね」
「はい」
理人は答えた。
「あなたの報告書を読みました」
声は穏やかだった。
責めているようには聞こえない。
だが、称賛しているようにも聞こえなかった。
理人は背筋を伸ばした。
「今日は、あなたが何を見つけたのかを聞くために来たのではありません」
エルネストは続けた。
「これから、何を見るのかを確認します」
リナが理人の袖を小さく引いた。
「怖い人?」
「分からない」
理人は声を抑えて答えた。
「でも、分からないままにしない人だと思う」
エルネストの目が、一瞬だけ理人へ向いた。
聞こえていたらしい。
それでも、何も言わなかった。
(二)誰が何を見るか
出発前、冒険者ギルドの一室に記録が並べられた。
神殿側の水祓い対象台帳の写し。
カランタ分院の巡回予定。
ギルドの依頼記録。
荷運びの往来記録。
祭礼への参加記録。
そして、理人が作った二つの表。
神託文中の未来・距離表現に関する仮対応表。
川沿い村落の交流・祈祷対象確認表。
理人は、空欄の紙も数枚用意していた。
セリアがそれを見て言う。
「最初から増える前提なんですね」
「現地で見る前に、項目が足りるとは言えません」
「紙は安くないんですけど」
「価値は出します」
「それを言えば通ると思っていませんか」
「前は通りました」
セリアはため息をついた。
リナが、理人の前にある表をのぞき込む。
「今日は、白倉村だけを見るの?」
「最初から白倉村だけを見ると、白倉村が特別に見えてしまう」
「違う村も見る?」
「比べるために必要だ」
理人は、集まった者へ向き直った。
「今日は、神託が正しいかどうかを確かめに行くわけではありません」
若い神官が眉を寄せる。
「では、何を確認するのです」
「水祓いの対象として、現在も注意が届いているかです」
理人は表を指した。
「台帳に名前があるか。それだけでは足りません。最近、誰かが行ったか。報告が届いているか。道が使われているか。異常があった時に、町へ連絡できるか。それを見ます」
セリアがギルド側の記録を示す。
「白倉村への依頼と荷運びは、近年減っています」
分院長は神殿側の写しを見た。
「水祓い対象には含まれています。ただ、巡回順は後ろです」
リナが言う。
「私は道を見る。荷役獣が嫌がる場所も」
エルネストは一通り聞いたあと、静かに言った。
「役割を分けましょう」
理人は空欄の紙へ書き始めた。
神殿側。
台帳、巡回、水祓い対象、祈祷記録。
ギルド側。
依頼、荷運び、護衛、連絡経路。
理人。
差分、緊急度、確認項目。
リナ。
道、動物の反応、村人の様子。
セリア。
記録整理、依頼への変換。
最後に、エルネストの欄を残した。
理人が筆を止める。
エルネストが言った。
「神託文と現地条件の照合」
理人は、そのまま書いた。
「私は、あなたが神託をどう扱うかを見ます」
エルネストの声は穏やかだった。
だが、見逃すつもりはない。
そう伝わる声でもあった。
(三)三つの村
一行は、その日のうちに三つの川沿い村を回った。
最初は東川村。
カランタに近く、川沿いの荷運びが多い村だった。
村へ入る前から、新しい車輪跡が何本も見える。
神殿の水祓い札は新しい。
村人は、前回巡回した神官の顔を覚えていた。
川の水位を記した杭も立っている。
「雨の後は、村の者が分院へ知らせています」
村人の一人が言った。
セリアが記録を確認する。
「ギルドにも報告が届いています。荷運び依頼も定期的にあります」
理人は表へ書いた。
東川村。
町や神殿との接触があり、報告経路も機能している。直近の巡回も確認できたため、対応は通常確認。
次は南瀬村。
橋が新しく、村からカランタへ向かう荷車も定期的に出ている。
神殿の祈祷記録も新しい。
村人の一人は、分院の神官が次に来る時期まで知っていた。
「少なくとも、町との接触はあります」
セリアが言う。
理人はうなずき、表へ書いた。
南瀬村。
町との接触があり、巡回と異常報告も確認できた。対応は通常確認。
最後は水原小村。
村は小さい。
道も狭い。
だが、最近入った神殿巡回の記録があり、村人も担当した神官の名を覚えていた。
川の濁りが強かった日について、ギルドへ知らせた記録も残っている。
リナは荷役獣の耳と足運びを見た。
「道は狭いけど、嫌がってない。柔らかい場所も少ない」
理人は表へ書く。
水原小村。
規模は小さいが、町との接触と報告経路は維持されている。最近の巡回も確認できたため、対応は通常確認。
三つの村を回った時点で、日が傾き始めていた。
その日はカランタへ戻る。
理人は夜、確認表を広げ直した。
東川村。
南瀬村。
水原小村。
すべて小さな問題はある。
だが、町や神殿との接触は続いている。
異常があれば、何らかの形で報告が届く。
白倉村だけが違う。
台帳と水祓い対象には含まれているが、直近の巡回は確認できない。荷運びと祭礼参加は減り、ギルドへの依頼も少ない。現在の報告経路も不明だった。
理人は、白倉村の行に線を引いた。
消えてはいない。
ただ、薄い。
エルネストは向かいの席から、その線を見ていた。
「明日は、そこですね」
「はい」
理人は答えた。
(四)細くなった道
翌朝、一行は日の出前にカランタを出た。
白倉村までは、川沿いに半日ほどだという。
最初の道は広かった。
荷車が二台すれ違える。
川も穏やかで、道の端には新しい車輪跡が残っている。
だが、途中から道が細くなった。
石が崩れたままになっている。
古い橋の板は一枚外れ、端へ寄せられていた。
荷車が通れないわけではない。
橋板を避け、慎重に進めば渡れる。
ただ、進んで使いたい道ではなかった。
リナが荷役獣の耳を見る。
「ここ、嫌がってる」
「橋か?」
「橋の前。石の下が少し動く」
理人はしゃがみ、地面へ手を触れた。
表面は乾いている。
だが、踏み込むと石の下から湿った土が見えた。
「雨の後は、もっと崩れますね」
セリアが言う。
「荷運びが減った理由の一つかもしれません」
理人は周囲を見た。
新しい車輪跡は少ない。
歩いた跡も薄い。
道の脇にある小さな祠は、屋根の一部が落ちたままだった。
少し先にある休憩所も使われていない。
薪は古く、腰掛けには苔が生えている。
「荷が減ると、人の行き来も減る」
理人は言った。
「人の行き来が減ると、知らせも減る」
リナが頷く。
「村がなくなったわけじゃないのに、遠くなるんだね」
理人は細い道の先を見た。
白倉村までの距離そのものは変わっていない。
だが、通る者が減った。
道を直す者も減った。
途中で話を受け取る者も減った。
何か起きても、誰かが町へ持ち帰る機会が少ない。
「村が遠くなったんじゃない」
理人は言った。
「連絡の経路が細くなったんだ」
後ろで、筆が紙を擦る音がした。
記録係の神官が、その言葉を書き留めていた。
エルネストは何も言わなかった。
ただ、細くなった道を長く見ていた。
(五)今もある村
白倉村は、そこにあった。
隠されてはいない。
廃村でもない。
畑がある。
家々の煙突から煙が上がっている。
子どもたちが道の端で遊んでいる。
家の前では、年配の女性が野菜を干していた。
村の入口には、古びた木札が立っている。
白倉村。
名前も変わっていない。
理人は現地確認表へ書いた。
白倉村は現地に存在し、村名も変わっていない。廃村ではなく、住民も生活している。
リナが村を見回した。
「思ってたより、普通だね」
「普通だから、見落とされる」
理人は答えた。
「消えていたら、誰かが気づく。名前が変わっていたら、照合で止まる。でも、昔の記録どおりに残っていたら、そのまま通る」
村の年長者が、神官たちの姿を見つけて走ってきた。
エルネストの外套を見て、慌てて頭を下げる。
「中央の神官様が、なぜこのような小さな村へ」
セリアが、その言葉に目を向けた。
小さな村。
村人自身が、自分たちをそう扱っている。
エルネストは年長者の前に立った。
「小さいから、見なくてよいということはありません」
声は穏やかだった。
だが、分院の若い神官は目を伏せた。
年長者は困ったように笑う。
「見ていただくようなものは、何もありません」
理人は、その言葉を聞いた。
何もない。
本当に何もないのか。
それとも、何かがあっても、報告するほどではないと考えているのか。
「最後に分院の神官が来たのは、いつですか」
理人が尋ねると、年長者は首を傾げた。
「いつでしたか。二年……いや、三年ほど前かもしれません」
分院長が巡回記録の写しを見る。
予定には毎年入っている。
だが、実施したかどうかを示す記録は揃っていない。
「町へ知らせを持っていく人は?」
「前は荷車に頼んでおりました。最近は、こちらへ来る荷車も減りまして」
「急ぎの時は?」
「歩ける者が行きます」
理人は表へ書いた。
連絡手段は定期化されておらず、町への連絡は荷運びの往来に依存していた。急ぎの場合は、村人が徒歩でカランタへ向かうしかない。
白倉村は今もある。
だが、現在の話の中には入りにくくなっていた。
呼ばれし村。
呼ばれぬまま残る。
過去の村ではない。
今も存在する村だった。
(六)白い石倉
白倉村の川沿いには、古い石倉があった。
白い石を積み上げて造られている。
雨風を受けて一部は黒ずんでいたが、遠目には確かに白く見える。
村の年長者が倉を見上げた。
「昔は、ここが荷の中継場所でした。麦や薬草を入れて、川沿いの荷車へ積んでいたのです」
「今も使っていますか」
「量は減りましたが」
理人は倉と川の距離を見た。
近い。
荷を積み下ろすには便利だったのだろう。
だが、水が増えた時には近すぎる。
倉の床も、それほど高くない。
壁の下部には、色の違う帯が残っていた。
理人はしゃがんだ。
「これは水の跡ですか」
年長者は少し困った顔をした。
「大水ではありません。雨の後に、少し水が入ったことはあります」
「いつですか」
「去年だったか、その前だったか」
「何回くらい」
「そこまでは数えておりません」
理人は確認表へ書いた。
白い石倉を現地で確認。
倉は川に近く、床も低い。壁の下部には過去の水跡が残っていたが、水が入った時期と回数は記録されていなかった。
倉の中へ入る。
麦袋。
薬草の包み。
乾燥させた木の皮。
水に弱いものが、床へ直接置かれている。
リナが奥を指した。
「薬草、低いところにある」
セリアが包みを確認する。
「濡れたら使えなくなります」
年長者が慌てて言う。
「今までは、ひどい水は来ておりません」
「今まで大丈夫だった可能性はあります」
理人は答えた。
「でも、水が来た回数も高さも記録していないなら、どの程度まで大丈夫だったのかは分かりません」
「今年だけ、急に危ないと?」
「まだ分かりません」
理人は川を見た。
「だから、周りも見ます」
エルネストは、倉の白い壁へ目を向けた。
神託文の写しを開くことはしなかった。
まだ、その時ではないと考えているようだった。
(七)川の子ら
石倉の裏手へ回ると、荷役獣が急に足を止めた。
耳を後ろへ向け、右前脚を置こうとしない。
リナがすぐに近づく。
「ここ、下が柔らかい」
草の生えた地面だった。
見た目は、周囲と大きく変わらない。
理人は草をかき分けた。
その下に、細い溝がある。
水はほとんど流れていない。
だが、底には新しい泥と小さな枝が残っていた。
一本だけではない。
石倉の周囲を探すと、草に隠れた細い水路がいくつも見つかった。
村の年長者が言う。
「雨の時だけ流れる子川です」
理人は顔を上げた。
「子川?」
「大きな川から分かれたり、山から流れ込んだりする細い水です。昔の者は、そう呼んでおりました」
エルネストが、そこで初めて神託文の写しを開いた。
「川の子ら」
年長者は目を見開く。
「古い言い方です。今の若い者は、あまり使いません」
エルネストは次の部分を読んだ。
「数えられぬまま眠る」
理人は周囲の水路を見た。
普段は乾いている。
雨期だけ流れる。
草に覆われている。
神殿の台帳には村名と倉の位置しかない。
細い水路までは記録されていない。
ギルドの荷運び記録にも、道として載っていない。
「この子川は何本ありますか」
理人が尋ねると、年長者は周囲を見回した。
「何本と言われましても……雨のたびに流れる場所が少し変わります」
「詰まりを確認していますか」
「大きな溝は見ます。細いものまでは」
リナが一本の水路を指した。
「ここ、枝が詰まってる」
理人は近づいた。
泥。
枯れ草。
細い枝。
完全に塞がってはいない。
だが、水が増えれば流れにくくなる。
その先は、白い石倉の側へ低くなっていた。
理人は確認表へ書いた。
子川は複数存在するが、正確な本数は確認されていない。神殿台帳とギルド記録のどちらにも記載はなく、一部には枝や泥の詰まりが見られた。水が増えた場合、流れが石倉側へ向かう可能性がある。
リナが水路を見ながら言った。
「眠ってるみたい」
理人はうなずいた。
「数えられないままな」
エルネストは、神託文から目を離さなかった。
(八)後から来る濁り
白倉村の上空は晴れていた。
雲はある。
だが、雨は降っていない。
川の色が変わり始めたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
最初に気づいたのは、リナだった。
「理人、水の色が違う」
川の端に、細い茶色の筋が入っていた。
透明だった水へ、遠くから別の水が混ざり込んでいる。
少し遅れて、小さな枝や葉が流れてきた。
村の年長者の顔が強張る。
「山側で降ったのか」
白倉村では降っていない。
カランタでも、まだ本格的な雨は降っていない。
だが、見えない山側で降った雨は、川を通って遅れて届く。
理人は神託文の一節を思い出した。
後なる濁りは、雨とともに来たり。
未来の出来事ではない。
すでに、どこかで雨が降った。
すでに、土や枝が川へ流れ込んだ。
ただ、その変化が白倉村まで届いていなかっただけだ。
未来ではない。
未到達だった。
理人は川辺へ近づいた。
「さっきの水位が分かる場所は?」
リナが川岸の石を指す。
「ここ。白いところまで出てた」
今は、その白い部分が半分ほど水に隠れている。
短い時間で、水位が上がっていた。
濁った水の一部が、石倉側へ伸びる細い溝へ入り始める。
だが、その先にある子川は枝と泥で詰まり、水を逃がせていない。
行き場を失った水が、倉の方へ寄っていた。
荷役獣が耳を伏せ、数歩後ろへ下がる。
「ここ、嫌がってる」
リナが言う。
「足元がさっきより柔らかい」
理人は周囲を見た。
川。
子川。
白い石倉。
低い荷。
濁り。
上がる水位。
条件が重なっている。
神託が白倉村を指しているとは、まだ言えない。
だが、今ここに危険があることは言える。
「対策します」
理人は言った。
エルネストが尋ねる。
「祈祷ではなく?」
「祈祷もしてください」
理人は答えた。
「でも、先に荷を上げます」
周囲が静かになった。
理人はエルネストを見た。
「濡れてから祈っても、薬草は乾きません」
若い神官が息を呑む。
だが、エルネストは怒らなかった。
一度だけ目を閉じる。
そして、分院長へ向き直った。
「水祓いの準備を」
次に、理人を見る。
「荷を上げましょう」
(九)今すぐやること
理人は村の広場へ板を運ばせた。
その上に、やるべきことを分けて書く。
今すぐ。
今日中。
次の雨まで。
雨の後。
「最初は石倉です」
理人は言った。
「低い場所にある荷を上へ移します。水に弱い薬草を最優先。次に麦。濡れても使える道具は後です」
セリアが村人たちへ声をかける。
「荷の移動は、ギルドの緊急依頼として処理します。作業した人の名前と時間を残してください」
理人が続けた。
「誰が何を動かしたかも書いてください。あとで報酬と責任が混ざらないように」
村人たちが倉へ走る。
次は子川だった。
若い村人が鍬を持ち、詰まりを一気に掘り返そうとする。
「全部は開けないでください」
理人が止めた。
「流せばいいんじゃないのか」
「一気に開けると、別の場所へ水が集中します」
理人は水路を指した。
「まず一本。少しずつ詰まりを取って、どこへ流れるか見ます」
リナが荷役獣を連れ、周囲を歩く。
「こっちは平気。こっちは足を置きたがらない」
理人は嫌がった場所に印をつける。
地面の下を水が通っている可能性がある。
重い荷を運ぶ経路から外す。
記録係の若い神官は、最初は何を書けばよいのか分からない顔をしていた。
エルネストが静かに言う。
「誰が、いつ、何をしたかを書きなさい」
若い神官は慌てて筆を走らせた。
「水祓いの巡回順を変更します」
エルネストは分院長へ告げる。
「白倉村を最初に」
分院長が頭を下げる。
「承知しました」
理人は川岸へ杭を立てさせた。
今の水位に一つ目の印。
倉へ水が入る前の高さに二つ目。
低地側の家へ影響が出る高さに三つ目。
川辺には白い布を吊るした。
濁りの変化を見るためだ。
「白くなくなったら、どうするの?」
リナが聞く。
「色が変わった時刻を書く。枝や泥が増えた時も」
「布を洗ったら?」
「洗った時刻も書く」
村からカランタへ向かう連絡係を決める。
一人ではなく、交代できるよう二人。
川沿いの荷道は一時停止。
丘側の迂回路を使う。
神殿側は、水祓いと巡回を行う。
ギルド側は、荷移動と護衛の依頼を発行する。
村人は、石倉の荷と子川の状態を確認する。
リナは、荷役獣の反応と足元の変化を見る。
セリアは、作業者の名前、依頼内容、実施時刻を記録する。
理人は、それぞれの作業順と判断条件を一枚の板にまとめた。
それは祈りではない。
だが、祈りを否定するものでもなかった。
祈りが届くまでに、人ができることだった。
(十)現地確認表
夕方までに、理人が持ってきた表は大きく書き換わっていた。
表題も変えた。
川沿い村落現地確認表。
東川村。
台帳掲載、水祓い対象ともにあり。直近の巡回を確認。町との往来は多く、神殿の訪問記録も新しい。異常報告も届いている。緊急度は低く、対応は通常。
南瀬村。
台帳掲載、水祓い対象ともにあり。巡回記録は新しい。荷運びは中程度で、祭礼への参加もある。異常報告は町へ届いている。緊急度は低く、対応は通常。
水原小村。
台帳掲載、水祓い対象ともにあり。直近の巡回を確認。町との往来は少ないが続いており、異常報告も届いている。緊急度は低く、対応は通常。
白倉村。
村名と住民の存在を現地で確認。名称変更なし。台帳掲載、水祓い対象ともにあり。ただし、直近の巡回は現地で確認できず、町との往来と荷運びも減少している。
川には濁りと水位上昇が見られた。白い石倉は川に近く、床も低い。壁には過去の水跡がある。周囲には台帳に記載されていない子川が複数あり、一部に詰まりを確認した。
異常報告は町へ届いていない。緊急度は高く、対応は要対策。
セリアが表を見た。
「これで、白倉村だけが明確に浮きましたね」
「白倉村だけが危険とは限りません」
理人は答えた。
「確認できた中では、ここが最優先というだけです」
エルネストが尋ねる。
「神託が白倉村を示したと断定しますか」
理人は首を横に振った。
「断定しません」
エルネストの目が少しだけ鋭くなる。
理人は続けた。
「白い倉がある。子川が数えられていない。濁りが遅れて届いた。現在の注意から外れていた。神託文の条件と、現地で確認した危険が重なっています」
「ならば、白倉村では?」
「別の場所にも同じ条件があるかもしれません」
理人は表を指した。
「神託の対象を決めるより、今ある危険へ対策する方が先です」
エルネストは、しばらく理人を見た。
それから、静かにうなずいた。
「その答えを待っていました」
(十一)注意漏れ
理人は別の紙へ表題を書いた。
白倉村の注意漏れ確定記録。
セリアが横から見る。
「対象漏れ、ではないんですね」
「台帳にはあります。水祓い対象にも入っています」
理人は答えた。
「だから、対象漏れではありません」
「注意漏れ」
「はい」
理人は確認した内容を書いていく。
白倉村は現存し、名称も変更されていない。住民がおり、神殿台帳と水祓い対象の双方に含まれている。
一方で、近年の巡回、荷運び、祭礼参加、ギルド依頼に関する記録は薄い。村とカランタを結ぶ定期的な連絡手段も、荷運びの減少に伴って失われつつあった。
村の周囲には、雨期のみ流れる小水路が複数存在する。村では子川と呼ばれているが、神殿台帳とギルド記録のどちらにも記載されていない。一部の子川には詰まりも確認された。
白い石倉は川に近く、床も低い。水に弱い薬草と麦が低所に保管されていた。現地到着後には、上流側から届いたと考えられる濁りと水位上昇も確認した。
それらの異常は、理人たちが到着するまでカランタへ報告されていなかった。
結論。
白倉村は記録上の対象ではあるが、現在の注意対象としては後退していた。
台帳漏れではない。
注意漏れである。
雨期前の優先対応が必要。
リナが最後の部分を読む。
「あるのに、見てなかった」
理人はうなずいた。
「そういうことだ」
神殿だけの問題ではない。
ギルドも、荷運びも、町も、少しずつ白倉村を見なくなった。
村自身も、問題を町へ知らせる経路を失いかけていた。
誰か一人が切ったわけではない。
細い糸が一本ずつ切れた。
気づいた時には、名前だけが台帳に残っていた。
エルネストは、注意漏れという文字を長く見ていた。
(十二)緊急対策記録
緊急対策の記録は、実施済みと継続確認に分けた。
実施済み。
白い石倉では、薬草包みを優先して低所の荷を高所へ移し、麦袋を床から浮かせた。
子川は、詰まった箇所の一部だけを開放し、開放後の流れを確認した。
川沿いの荷道は一時停止し、荷運びを丘側の迂回路へ変更した。川岸には水位確認杭と、濁りを確認するための白布を設置した。
白倉村からカランタへの連絡係を二名決め、ギルドでは荷移動と護衛の依頼を発行した。
神殿は水祓い巡回の順番を変更し、白倉村を優先対象とした。低地側の住民が避難する場所には、村中央の高台を指定した。
継続確認。
雨後の水位と濁り、子川の詰まり、石倉内の湿りを確認する。あわせて、荷役獣の反応、連絡係の往復可否、丘側迂回路の状態も記録する。
理人は、水位杭の印ごとに行動を決めた。
一つ目の印を越えた場合。
白布と子川を確認。
二つ目の印を越えた場合。
石倉の残りの荷を高所へ移す。
川沿いの家へ注意を伝える。
三つ目の印を越えた場合。
低地側の住民を高台へ移動。
川沿いへの立ち入りを止める。
村の年長者が青ざめた。
「そこまで水が来ますか」
「来ると決まったわけではありません」
理人は答えた。
「でも、来てから相談を始めると遅い」
エルネストが静かに尋ねる。
「それが、警告を受け取るということですか」
理人は少し考えた。
「たぶん」
神託文の写しを見る。
「起きることを当てるより、起きた時に何をするか決める方が役に立ちます」
若い神官が息を呑んだ。
「神託を予言より下に置くのですか」
理人は若い神官を見る。
「下には置いていません」
「では、今の言葉は」
「当たったと喜ぶだけの予言より、行動できる警告の方が、人を助けると言ったんです」
若い神官は反論できず、口を閉じた。
エルネストは少しだけ寂しそうに笑った。
「不遜ですね」
「自覚はあります」
「ですが、間違ってはいない」
エルネストはそう言った。
(十三)数えられていないもの
対策が一段落した頃、空は暗くなり始めていた。
白倉村の川は、まだ氾濫していない。
だが、水は朝より濁っている。
水位杭の一つ目の印へ、水が近づいていた。
白い石倉の低い荷は、すでに移されている。
子川の一つは細く流れ始め、倉の前へ溜まりかけていた水は少し引いていた。
エルネストは川辺に立っていた。
理人も隣に立つ。
しばらく、二人とも川を見ていた。
先に口を開いたのはエルネストだった。
「あなたは、神託を当てたわけではありませんね」
「はい」
理人は即答した。
「未来は見えていません」
「では、何をしたのです」
「条件を分けました」
「条件」
理人は指を折った。
「遠い水」
一本目。
「白い倉」
二本目。
「数えられていない川の子」
三本目。
「後から届く濁り」
四本目。
「呼ばれていたのに、現在の注意から外れた村」
五本目。
「それぞれを、現地で確認できる項目に変えただけです」
エルネストは目を閉じた。
「神託を、祈りの文ではなく確認表にした」
「そう言われると、かなり失礼ですね」
「失礼です」
エルネストは言った。
「ですが、粗末にはしていない」
理人は黙った。
「神託を未来予言として待っていれば、私たちは水祓いの順番を少し変えただけで終わっていたでしょう」
「そうかもしれません」
「しかし、あなたは村を並べた」
エルネストは川を見る。
「道を見た。倉を見た。水路を数えた。報告が届いているかを確認した」
理人も濁った水へ目を向ける。
「神託に書いてあったからではありません」
「違うのですか」
「神託に書かれた条件と同じものが、ここにあったからです」
「同じでは?」
「神託の正解は、まだ分かりません」
理人は答えた。
「でも、危険は目の前にあります。なら、神託の正解を待つ必要はありません」
エルネストは長く息を吐いた。
「あなたは、数えられていないものを見つけた」
子川。
白い石倉。
届かなかった報告。
現在の注意から外れた村。
「やはり、神託は予言ではない」
エルネストの声は、とても小さかった。
理人は聞き返さなかった。
聞き返してはいけない言葉のように思えた。
(十四)出頭要請
白倉村での記録をまとめ終えたのは、夜に近い時刻だった。
エルネストは、記録係の神官から三枚の紙を受け取った。
川沿い村落現地確認表。
白倉村の注意漏れ確定記録。
白倉村緊急対策記録。
すべてに山科理人の名がある。
作成。
現地照合。
対策案。
エルネストは新しい紙を一枚取り出した。
上部へ表題を書く。
中央神殿出頭要請。
筆が止まった。
その場にいた者の視線も止まった。
出頭。
分院長の表情が固くなる。
若い神官は背筋を伸ばした。
ギルド側の護衛が、エルネストと理人の間へ視線を走らせる。
セリアは何も言わなかった。
だが、理人の少し前へ立つ。
リナは、はっきり一歩前へ出た。
「理人を、連れていくの?」
小さな声だった。
だが、広場にいた者にはよく聞こえた。
エルネストはリナを見た。
それから、自分が書いた表題へ目を戻す。
「言葉が強すぎました」
エルネストは、出頭要請の上へ細い線を引いた。
その下に書き直す。
中央神殿同行依頼。
だが、一度見えた文字は消えない。
広場に落ちた緊張も、すぐには消えなかった。
「拘束ではありません」
エルネストは言った。
リナは理人の袖を握った。
「神託のことで怒ってるんじゃないの?」
「怒ってはいません」
「でも、中央神殿に連れていくんでしょ」
若い神官が何か言おうとする。
エルネストは手を上げて制した。
そして、理人へ向き直る。
「山科理人殿」
「はい」
「中央神殿へ、同行を願います」
理人はエルネストを見た。
丁寧な言葉だった。
紙にも、依頼と書かれている。
だが、この世界で中央神殿の神官長から名指しで同行を求められる。
ただの招待であるはずがない。
「理由を伺っても?」
「あなたには、神託が降りる場所を見てもらいたい」
「神託が降りる場所」
「中央神殿にあります」
エルネストは一度言葉を切った。
「正確には、中央神殿の地下に」
分院長が顔を上げた。
若い神官も驚きを隠せていない。
神殿の者でさえ、誰もが知る場所ではないらしい。
リナの手に力が入る。
理人はエルネストの目を見た。
この老人は答えを知っているのではない。
扉の場所を知っている。
「同行依頼、ですか」
「はい」
「拒否はできますか」
広場が、再び静かになった。
分院長は目を伏せた。
若い神官が緊張した顔をする。
エルネストは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、依頼と命令の間にあるものを示していた。
「できます」
やがて、エルネストは答えた。
「ただし、私はあなたに来てほしい」
「なぜです」
「あなたが見つけたものは、白倉村だけではないからです」
理人は眉を寄せる。
エルネストは続けた。
「あなたは、神託を未来予言として扱わなかった。祈りの言葉として流しもしなかった。現地で確認できる条件へ変えた」
エルネストは川辺に吊るされた白布を見た。
「その読み方が、神託が降りる場所に必要かもしれません」
リナが尋ねる。
「危ない場所?」
エルネストは否定しなかった。
「安全とは言いません」
理人はリナを見る。
「リナは残ってもいい」
「行く」
返事は早かった。
「でも」
「行く」
リナは理人の袖を離さない。
エルネストがリナへ視線を向ける。
「あなたの同行も許可します」
「私も?」
「あなたは、山科殿が見落とすものを見ています」
リナは少し驚いた顔をした。
理人は小さく息を吐く。
「正式な役割になったな」
「一人より二人の方がいいよ」
「それはそうだ」
セリアが三枚の記録をまとめた。
「ギルドへは、私から報告します。中央神殿へ行く前に、白倉村の依頼が止まらないよう手配します」
「セリアさんも来ますか」
理人が尋ねると、セリアは首を横に振った。
「私はカランタに残ります。誰かが依頼と連絡を受けなければなりません」
「お願いします」
エルネストは、同行依頼の本文を書いた。
白倉村現地確認において、山科理人による神託文の条件分解が、未到達の現地危険の発見に寄与した。
当該手法は、神託を未来予言として待機するのではなく、警告条件として現地照合するものである。
中央神殿において、降託記録および古い神託設備との照合を行う必要がある。
山科理人に中央神殿への同行を求める。
リナの同行を許可する。
冒険者ギルドおよびカランタ分院へ、行程と帰還予定を通知する。
エルネストは最後に印を押した。
薄い紙だった。
だが、理人をカランタから動かすには十分な重さを持っていた。
招待に近い。
だが、ただの招待ではない。
最初に書かれた出頭という文字が、その境目を曖昧なまま残していた。
(十五)神託が降りる場所
夜、白倉村の白い石倉には明かりが灯っていた。
低い場所にあった荷は移されている。
薬草の包みは棚の上。
麦袋は木組みの台へ載せられた。
川岸には水位杭が立っている。
白布は濁った水に揺れていた。
子川の一つは、細く音を立てて流れている。
村人たちは交代で川と倉を見ることになった。
連絡係は、翌朝カランタへ向かう。
水祓いは前倒しされた。
ギルドの荷移動依頼も発行された。
白倉村は、小さな村だった。
名前も変わっていない。
消えてもいない。
ただ、町の現在から遠くなっていた。
呼ばれし村。
呼ばれぬまま残る。
理人は、その一節をもう一度思い出した。
神託が未来を当てたのかは分からない。
白倉村を名指ししていたのかも分からない。
だが、見えていないものを見ろという条件は残っていた。
数えられていないものを数える。
届いていないものを確認する。
過去の側へ押しやられたものを、現在の記録へ戻す。
理人は、エルネストから渡された同行依頼を見た。
中央神殿。
地下。
神託が降りる場所。
そこに何があるのか、理人は知らない。
エルネストも、すべてを知っているわけではないのかもしれない。
だが、扉はある。
その先に、祈りだけでは説明できない何かがある。
翌朝、理人は白倉村からカランタへ戻る。
その後、中央神殿へ向かう。
招かれたのか。
呼び出されたのか。
それとも、穏やかな言葉で連れていかれるのか。
まだ分からない。
同行依頼には、中央神殿の印が押されている。
理人が紙をたたむと、隣にいたリナが尋ねた。
「地下に行くの、怖くない?」
「怖い」
理人は答えた。
「でも、行くんだね」
「見ないまま考えても、分からないからな」
リナは、少しだけ笑った。
「理人らしいね」
理人は白い石倉の外へ出た。
川はまだ濁っている。
空の遠くで、低い雷が鳴った。
エルネストが、倉の前で待っていた。
「準備が整い次第、中央へ向かいます」
「分かりました」
理人は答えた。
エルネストは、一度だけ周囲を確認する。
それから、理人へ言った。
「あなたには、神託が降りる場所を見てもらいたい」
「はい」
「それは、中央神殿の地下にあります」
(十六)ログ
ログ
未到達警告:現地照合
注意漏れ:確認
緊急対応:発行
注記:
神託経路への外部接続要求を検出。
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