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(一)九つある
翌朝、南の棚には飼料袋が九つあった。
山科理人は、しばらくその前で立ち止まった。
九。
昨日の朝は十二。
昼に三つ運んだ。
なら、夕方に残るべき数は九。
計算上は合っている。
問題は、昨日の夕方には八つしかなかったことだ。
理人はもう一度数えた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
九。
九つある。
昨日の差分は、消えていた。
いや、消えたのではない。
戻されたのかもしれない。
数え間違いだったのかもしれない。
別の棚にあったものを誰かが移したのかもしれない。
昨日の八つの方が、理人の見間違いだった可能性もある。
だから、断定はできない。
だが、ひとつだけ分かる。
誰も、昨日の八つについて説明しなかった。
誰も、昨日の湿った袋について記録しなかった。
何かが起きたかもしれない。
だが、何も起きなかったことになっている。
理人は棚を見た。
九つの袋は、何も言わない。
当然だ。
袋は証言しない。
証言するには、記録がいる。
(二)問題なし
倉庫番は、いつも通り帳簿板を持っていた。
何かを書いている。
いや、書いているように見える。
理人には読めない。
読めないものは、存在しないのと同じではない。
だが、読めない以上、検証できない。
倉庫番は南棚を見た。
袋を見た。
それから何事もなかったように、別の作業者へ指示を出した。
リナは水桶を運んでいる。
昨日、湿った袋を避けた荷役獣は、今朝は普通に飼料を食べていた。
それもまた、問題を見えにくくしていた。
今は食べている。
だから問題はない。
そう処理される。
理人は、前世の資料を思い出した。
確認済み。
問題なし。
一時的な移行影響。
便利な言葉だった。
何かを説明したように見えて、何も残さない言葉。
「ここにもあるのか」
理人は小さく言った。
世界が変わっても、問題が消える仕組みは似ている。
見ない。
書かない。
説明しない。
それでも現場は回る。
回っているように見える。
だから、止まりかけているものほど、外からは分かりにくい。
理人は南棚の九つの袋を見た。
数は合っている。
今だけを見れば。
(三)履歴がない
理人は、もう一度だけ試すことにした。
南棚を指す。
「サル」
袋。
次に、昨日を示そうとする。
太陽が沈むしぐさ。
寝るしぐさ。
朝になるしぐさ。
倉庫番は面倒そうに眉を寄せた。
理人は石を並べた。
十二。
三つ移す。
九。
昨日の夕方は八。
今は九。
差分。
説明したかったのは、それだけだった。
だが、説明は形にならない。
倉庫番は、理人の並べた石を見下ろした。
それから、棚にある九つの袋を指す。
何かを言う。
たぶん、
ちゃんと九つあるだろう。
そういう意味だった。
理人は首を振った。
違う。
今の数ではない。
昨日の履歴が問題なのだ。
だが、「履歴」という言葉がない。
理人は自分の頭を指した。
昨日の方向を指した。
石を指した。
棚を指した。
倉庫番の表情が固くなった。
リナが近くで手を止める。
理人は、そこで気づいた。
このまま続けると、リナが巻き込まれる。
昨日、石を拾ったのはリナだ。
湿った袋を避けたのもリナだ。
倉庫番から見れば、理人に変なことを吹き込まれた見習いに見えるかもしれない。
理人は口を閉じた。
石を拾い、脇にどける。
「分かった」
もちろん、通じない。
だが、理人が引いたことだけは伝わった。
倉庫番は短く何かを言い、仕事に戻った。
リナは、理人を見ていた。
不安そうだった。
(四)お前のせいだ
倉庫番はリナを呼んだ。
短い言葉だった。
リナの肩がわずかに跳ねる。
理人には内容は分からない。
だが、声の温度は分かった。
注意。
警告。
面倒ごとに近づくな。
そういう声だった。
リナは小さくうなずいた。
視線が下がる。
倉庫番は理人を一度だけ見た。
その目で、理人は理解した。
お前のせいだ。
はっきり言われたわけではない。
だが、そういう意味が含まれていた。
理人の胸の奥が冷えた。
前にも見たことがある。
問題を見つけた人間が、問題の一部として扱われる瞬間。
本音のデータを出した現場リーダー。
自由記述欄に本当のことを書いた作業者。
遅れを遅れと書いた担当者。
彼らは嘘をついたわけではない。
ただ、見えたものを見えたと書いた。
それなのに、いつの間にか責められる側に回っていた。
理人は拳を握りかけた。
だが、すぐに開いた。
今ここで怒っても、リナを守ることにはならない。
むしろ、リナの立場を悪くする。
理人には、まだ信用がない。
信用のない怒りは、ただの危険行動だ。
(五)まず、引く
理人は、その日の午前中、飼料袋の数に触れなかった。
気にならないわけではない。
気になる。
気になるからこそ、触れない。
今の理人がそれを言えば、問題は二つに増える。
一つは、袋の差分。
もう一つは、リナが変な男に影響されているという疑い。
それは駄目だ。
理人は箒を取った。
床を掃く。
隅の干し草を寄せる。
こぼれた飼料を集める。
濡れた床を避ける。
荷役獣の足元に落ちた木片を拾う。
小さな仕事。
誰でもできる仕事。
だが、誰かがやらないと、事故になる仕事。
理人は思った。
正しいことを言う前に、まずここにいても邪魔ではないと示す。
できれば、少しだけ役に立つと示す。
正論は、その後だ。
前世でも同じだったはずだ。
現場に入って最初にやるべきことは、改善提案ではない。
邪魔をしないこと。
現場を止めないこと。
困りごとを一つ減らすこと。
それを忘れた時、数字は現場を殴る。
理人は、箒を動かした。
「まず、信用」
小さく言った。
「信用は初期装備に含まれない」
(六)信用の棚卸し
理人は、倉庫の中を見た。
袋。
桶。
荷車。
荷役獣。
倉庫番。
見習いのリナ。
荷運びの男たち。
全員が、それぞれ違うものを見ている。
倉庫番は、倉庫が止まらないことを見ている。
袋が足りないかどうかより、今日の荷車が出るか。
帳簿が合うか。
上から責められないか。
リナは、荷役獣が困っていないかを見ている。
食べるか。
嫌がるか。
足を痛めていないか。
怖がっていないか。
荷運びの男たちは、荷が遅れないかを見ている。
出発時刻。
道の危険。
荷の重さ。
報酬。
理人は、自分が何を見ているのかを考えた。
差分。
履歴。
単位。
記録されない異常。
見ているものが違う。
だから、いきなり数字を出しても届かない。
相手が見ている困りごとに接続しなければならない。
倉庫番には、作業が止まらないこと。
リナには、荷役獣が困らないこと。
荷運びには、荷が崩れないこと。
そこから入る。
数字は、その後だ。
理人は、自分の手を見た。
今あるのは、帳簿に触る権限ではない。
箒。
桶。
荷紐。
干し草。
それだけだった。
なら、それで信用を作るしかない。
(七)勝手に変えない
理人は、勝手に変えないことにした。
前世なら、改善案を作る。
配置を変える。
作業動線を見直す。
ラベルを貼る。
棚番を振る。
だが、今はしない。
信用がない人間が配置を変えると、それは改善ではなく混乱になる。
だから、理人は許可を取ることから始めた。
水桶を指す。
荷役獣の後脚を指す。
桶を少し横へ動かすしぐさをする。
リナを見る。
リナは荷役獣を見た。
水桶を見た。
少し考えて、うなずく。
理人は桶を動かした。
ほんの少し。
荷役獣が後ろへ下がっても、桶に脚を引っかけにくい位置。
誰も褒めない。
だが、その日の午後、桶は倒れなかった。
次に、理人は濡れた床を指した。
干し草を少しだけ敷くしぐさをする。
今度は倉庫番を見る。
倉庫番は面倒そうに手を振った。
許可。
たぶん。
理人は薄く干し草を敷いた。
厚く敷くと掃除が増える。
薄く、足元だけ。
荷運びの男が一人、そこで滑りかけて止まった。
男は床を見て、理人を見た。
何も言わなかった。
だが、次からその場所を避けて歩いた。
十分だった。
信用は、称賛ではなく、次の行動に出る。
(八)石を一つ置く
夕方、リナが理人を呼んだ。
正確には、呼んだのかどうかも怪しい。
ただ、こちらを見て、手招きした。
理人は近づきすぎない距離で止まる。
リナは一頭の荷役獣を指した。
次に、飼料桶を指す。
それから、首を横に振る。
食べない。
理人は桶を見る。
飼料は入っている。
量も足りている。
見た目には、昨日の湿った袋ほど悪くない。
リナは荷役獣の耳を指した。
耳が後ろに倒れている。
次に、別の袋を指す。
理人はうなずいた。
「試す」
通じない。
理人は、少しだけ別の袋から飼料を取るしぐさをした。
全部替えない。
少しだけ。
リナは理解したらしい。
小さな木皿に少量だけ取る。
荷役獣の前に出す。
荷役獣は匂いを嗅ぎ、少し食べた。
リナの顔が明るくなる。
理人は、最初の桶を指した。
次に、棚の端を指す。
石を一つ置く。
リナはそれを見て、うなずいた。
湿っているかどうかは分からない。
悪くなっているかも分からない。
だが、少なくともその荷役獣は嫌がった。
なら、混ぜない。
今日のところは、それでいい。
リナは石を置いた袋を見た。
それから、小さく言った。
「ネア」
違う。
理人もうなずいた。
「ネア」
二人の間で、その言葉は少しだけ意味を増やしていた。
(九)先に仕事
作業が終わった後、リナは石の置かれた袋を見ていた。
それから、倉庫番の方を見る。
言うべきか。
そう迷っているように見えた。
理人は首を横に振った。
リナが理人を見る。
理人は自分を指した。
「リヒト」
次に、倉庫番を指す。
それから、自分の胸の前で手を横に振った。
ない。
リナは首を傾げる。
理人は少し考え、知っている単語を探した。
信用。
その言葉はまだ知らない。
代わりに、胸を指す。
相手を見る。
うなずく。
手を差し出す。
信じる。
任せる。
受け取る。
そのあたりをまとめたしぐさ。
リナは、完全には分かっていない。
理人は首を横に振った。
自分を指す。
倉庫番を指す。
手を差し出す。
しかし、倉庫番の方からは受け取られないしぐさをする。
「リヒト、ない」
言葉は足りない。
だが、リナは少しだけ分かったようだった。
「リヒト……ない?」
理人はうなずいた。
「信用、ない」
日本語だった。
通じない。
だが、理人は続けた。
「だから、先に仕事」
箒を指す。
桶を指す。
袋を指す。
荷役獣を指す。
「仕事。先」
リナは黙って見ていた。
理人は棚を指す。
「言う。後」
言うのは後。
今は、聞いてもらえるだけの理由を作る。
リナは、ゆっくりうなずいた。
完全な理解ではない。
それでも、彼女は石の置かれた袋を、勝手に倉庫番へ持っていかなかった。
それは、理人の意図を少しだけ汲んだということだった。
(十)同じものを見る
夜。
理人は倉庫の隅で、木片を手にしていた。
煤で書いた印は、もうかなり増えている。
ミア。
サル。
レナ。
エン。
ト。
ラ。
ソル。
ネア。
それから、石の印。
朝。
夕。
袋。
湿り。
食べない。
自分だけが分かる記録だった。
それでは足りない。
自分だけが分かる記録は、自分がいなくなれば消える。
理人はリナを呼んだ。
「リナ」
リナが近づく。
理人は木片を見せた。
リナは眉を寄せる。
読めない。
当然だ。
理人の書いているのは、日本語と自分だけの記号が混ざったものだ。
理人は、木片の端に簡単な絵を描いた。
袋。
次に、太陽の絵。
朝。
次に、沈む太陽。
夕。
それぞれの横に、石を置く場所を作る。
朝に袋を見る。
夕にもう一度見る。
違ったら、石を置く。
それだけ。
制度ではない。
帳簿でもない。
報告書でもない。
ただ、明日もう一度同じものを見るための印。
理人は袋を指す。
朝の太陽を指す。
数えるしぐさ。
夕の太陽を指す。
もう一度、数えるしぐさ。
リナはしばらく見ていた。
それから、袋を指した。
「サル」
朝の印を指す。
知らない言葉を言う。
夕の印を指す。
また別の言葉。
理人はうなずいた。
「そう。朝。夕」
リナは、もう一度木片を見る。
そして、小さくうなずいた。
約束というには弱い。
仕事というには曖昧すぎる。
だが、始まりとしては十分だった。
明日、同じものを、同じように見る。
理人は木片を伏せた。
正しさは、まだ届かない。
だから、まず信用を作る。
信用を作るには、同じものを一緒に見るところから始めるしかない。
(十一)信用は初期装備に含まれない
この世界に来て、理人が最初に学んだことは、ステータス画面が出ないことだった。
次に学んだことは、言葉が通じないこと。
そして今、三つ目を学んだ。
正しいことは、自動では届かない。
数は嘘をつかない。
だが、数字を出す人間が信用されていなければ、その数字はただの石になる。
理人は、倉庫の奥を見た。
積まれた袋。
並んだ桶。
眠る荷役獣。
入口の見張り。
そして、木片を見つめるリナ。
いきなり仕組みを変えることはできない。
帳簿を正せと言っても無理だ。
倉庫番を責めても無理だ。
リナに危ない橋を渡らせるのは、もっと駄目だ。
なら、やることは一つだった。
掃く。
運ぶ。
待つ。
見る。
同じものを、同じように見る。
信用は初期装備に含まれない。
なら、稼ぐしかない。
理人は目を閉じた。
明日も、まずは箒からだった。
(十二)ログ
ログ
局所反応:低下
反発値:微増
接続強度:維持
採用判定:未達
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