
匂いで見る散歩
シジミは散歩をしていた。
いつもの道である。
家を出て、角を二つ曲がり、低い塀の続く通りを歩く。
塀の向こうには、それぞれ違う庭がある。
花の多い庭。
木ばかりの庭。
人間が何に使っているのか分からない物を、いくつも積み上げている庭。
同じような家が並んでいても、庭の匂いは一つずつ違う。
どの人間が住んでいるのか。
犬がいるのか。
猫が通っているのか。
鳥が餌を探しに来ているのか。
鼻を使えば、見なくてもだいたい分かる。
うちの人間は、道を歩くとき、前しか見ていない。
たまに絵の光る板を見ながら歩いていることさえある。
その状態で、
「散歩すると、いろいろな発見があるね」
などと言う。
何を発見しているのだろう。
足元に落ちている食べ物にも気づかない。
塀の上から見ている猫にも気づかない。
昨日とは違う人間が通った匂いも分からない。
人間は目で見えるものしか見ていないのに、それで周囲を確認したつもりになっている。
シジミにとって、散歩は見回りでもある。
昨日までと変わったことはないか。
知らない猫が縄張りへ入っていないか。
危険な犬がつながれていないまま外へ出ていないか。
新しく食べ物をくれる人間が現れていないか。
確認すべきことは多い。
ただ歩いているわけではない。
その日も、シジミは塀の下に残された匂いを確かめながら歩いていた。
少し古い犬の匂いがする。
毎日のように、この庭の中を歩き回っているらしい。
それほど大きな犬ではない。
年も若い。
人間と暮らしている犬特有の匂いがする。
食べ物に困っておらず、雨にもあまり濡れず、定期的に体を洗われている犬の匂いである。
遊ぼ!
シジミはそのまま歩き続けた。
庭の中から、何かが駆けてくる音がした。
草を踏む音。
地面を蹴る音。
息を弾ませる音。
音は急速に近づいてくる。
次の瞬間、塀の切れ目から犬が飛び出してきた。
正確には、庭の中にある柵の前まで飛び出してきた。
「ワン! ワン!」
大きな声が辺りへ響く。
シジミは足を止めた。
犬は柵の向こうで前足を上げ、何度も跳びはねている。
「ワン! ワンワン!」
声だけを聞けば、ずいぶん興奮している。
人間なら、怒っていると思うかもしれない。
だが、犬が何を考えているかは、声の大きさだけでは分からない。
耳は立っている。
歯を見せてはいない。
背中の毛も逆立っていない。
重心は前へ出ているが、低く身構えているわけではない。
そして何より、尻尾が激しく左右へ振られている。
警戒している姿には見えない。
一応、シジミには犬の言葉もある程度分かる。
猫の言葉ほど細かくは聞き取れない。
犬の言葉は大きい。
単純である。
そして、一度に同じことを何度も繰り返す。
犬は、声だけではなく、全身で同じことを伝えようとする。
耳。
口。
前足。
背中。
尻尾。
そのすべてが、同時に動く。
猫の言葉が静かで細かいものだとすれば、犬の言葉は勢いがある。
分かりやすいが、近くで聞くと少しうるさい。
柵の向こうの犬は、シジミを見ながら叫んでいた。
「遊ぼ!」
「猫だ!」
「遊ぼ!」
「一緒に走ろ!」
「こっち来て!」
どうやら、威嚇ではない。
ただ遊びたいだけらしい。
シジミには、犬と遊ぶつもりはなかった。
まず、声が大きすぎる。
こちらは普通に道を歩いていただけである。
それなのに、突然庭から飛び出し、大声で誘ってくる。
人間であれば、道を歩いている者へ向かって、家の中から突然飛び出し、
「遊ぼう!」
と叫べば警戒されるはずだ。
犬は、それが普通だと思っている。
もう少し静かに近づくという考えはないらしい。
犬は柵へ前足をかけた。
「遊ぼ!」
「ねえ、遊ぼ!」
「走れる?」
「オレ、速いよ!」
聞いていないことまで説明し始めた。
犬は自分が走れることを伝えたくて仕方がないらしい。
シジミが答えずにいると、さらに声を大きくする。
「聞こえてる?」
「遊ぼ!」
「一回だけ!」
「いっぱい走ろ!」
一回なのか、いっぱいなのか。
話が合っていない。
おそらく犬自身も、そこまで考えていないのだろう。
遊べれば、何でもよいらしい。
シジミは犬を見上げた。
体格はシジミよりも大きい。
本気で走れば、かなり速いだろう。
ただし、動きに無駄が多い。
前足を上げる。
下ろす。
跳ぶ。
尻尾を振る。
左右へ動く。
また跳ぶ。
それだけ動けば、遊び始める前に疲れるのではないだろうか。
猫は必要なときに動く。
犬は必要がなくても動く。
シジミには、そう見えることがある。
犬がさらに声を上げた。
「こっち来て!」
「遊ぼ!」
「友達になろ!」
友達になるかどうかは、まず相手を知ってから決めるものである。
一度見ただけで友達になろうとするのは、少し早い。
名前も知らない。
どこに住んでいるのかも知らない。
食事の好みも知らない。
互いの距離の取り方も分からない。
それなのに、一緒に走れば友達になれると思っている。
犬は、人間に少し似ている。
人間も、同じ場所にいただけで、
「お友達だね」
と決めることがある。
子供同士を近くへ置き、
「ほら、お友達にこんにちはして」
などと言う。
相手が友達になりたいかどうかは確認しない。
人間にとって、近くにいる者は、すぐ友達になるらしい。
威嚇ではない
シジミがその場から離れようとしたとき、家の中から足音が聞こえた。
犬の声を聞きつけたのだろう。
戸が開き、一人の人間が庭へ出てきた。
「どうしたの?」
犬は人間のほうを一度だけ見た。
すぐにシジミへ向き直る。
「猫!」
「遊びたい!」
「友達!」
飼い主らしい人間は、シジミを見つけた。
犬とシジミを交互に見る。
そして、慌てた顔で犬へ駆け寄った。
「こら!」
犬が振り返る。
「なに?」
「こんな小さい猫に吠えて、威嚇するなんて!」
犬の動きが止まった。
耳が少し横へ向く。
尻尾はまだ動いているが、先ほどより遅い。
「威嚇?」
どうやら犬にも、言われた意味が分からないらしい。
人間は犬の首輪をつかんだ。
「駄目でしょ。怖がってるじゃない」
怖がってはいない。
うるさいとは思っている。
遊びたくもない。
だが、犬そのものを恐れているわけではない。
柵がある。
人間が首輪をつかんでいる。
犬の体にも、攻撃する気配はない。
それくらいは見れば分かる。
人間はシジミが足を止めているのを見て、怖くて動けなくなったと思ったらしい。
違う。
状況を確認していただけである。
相手が何を言っているのか聞いていた。
近づくつもりがあるのか。
柵を越えられるのか。
攻撃する気配があるのか。
それらを見ていただけだ。
危険かどうかを判断する前に走り出すほうが危険である。
猫は慎重なのだ。
人間は、動かない猫を見ると、すぐに怯えていると思う。
何かを考えている可能性を、なぜ考えないのだろう。
声が大きいだけ
犬は首輪を引かれながら、飼い主へ訴えている。
「違う!」
「遊ぶの!」
「猫と走る!」
「遊ぼって言った!」
だが、人間には伝わらない。
「吠えたら怖いでしょ」
「怖くない!」
「遊びたい!」
「声が大きいの!」
そこだけは正しい。
声が大きい。
ただし、自分で分かっているなら、少し小さくすればよい。
犬は自分の声が大きいことを認めながら、声を小さくするつもりはないらしい。
犬にとっては、大きな声で伝えるほど、気持ちが伝わるのだろう。
遊びたい。
とても遊びたい。
だから大きく言う。
実に単純である。
追いかけっこ!
人間は犬を庭の奥へ引き戻そうとした。
犬は前足を踏ん張る。
「まだ話してる!」
「猫、帰っちゃう!」
「遊ぶの!」
飼い主は犬がシジミへ近づこうとしているのを見て、さらに強く首輪を引いた。
「こら、追いかけないの!」
「追いかけっこ!」
「そういう遊び!」
言葉が通じていない。
飼い主は犬と長く暮らしているはずである。
毎日食事を出す。
散歩にも連れていく。
同じ家で眠る。
犬が鳴けば、何かを求めていると気づく。
それなのに、何を求めているのかは分からない。
人間は犬の声を毎日聞いているのに、声が大きいというだけで怒っていると決めつける。
尻尾がこれほど激しく振られている。
前足も遊びに誘うように動いている。
歯も見せていない。
うなり声も出していない。
体全体で遊びたいと伝えている。
それでも人間は、声だけを聞いて威嚇だと思った。
犬は声が大きい。
だが、見れば分かる。
人間は目で見ることを大切にすると言うくせに、こういうときには声しか聞かない。
怖かったねえ
飼い主は犬を自分の後ろへ移動させると、シジミへ向かって頭を下げた。
「ごめんねえ。うちの子が散歩の邪魔しちゃって」
シジミはその人間を見上げた。
散歩の邪魔をされたことは事実である。
突然、大声で呼び止められた。
道の途中で足を止めることになった。
その点については間違っていない。
ただし、犬がシジミを脅そうとしていたという部分は間違いである。
人間は犬を叱りながら、シジミへやさしい声を出す。
「怖かったねえ」
怖くはない。
うるさかっただけだ。
犬が人間の後ろから顔を出す。
尻尾は、まだ左右へ振られている。
「遊ぼ!」
飼い主が振り返る。
「まだ吠えるの?」
「遊ぶの!」
「駄目!」
「なんで?」
犬の耳が少し下がった。
飼い主に叱られている理由が、まだ分かっていないらしい。
遊ぼうと誘った。
声をかけた。
相手がこちらを見た。
もう少しで一緒に走れると思った。
ところが、突然人間に怒られ、引き離された。
犬の側からすれば、そういうことなのだろう。
それでも犬はすぐに立ち直った。
シジミへ向かって、もう一度叫ぶ。
「また来て!」
「今度遊ぼ!」
「明日でもいいよ!」
勝手に次の予定を決めている。
シジミは返事をしなかった。
明日来るとも言っていない。
遊ぶとも言っていない。
そもそも、シジミは一人で静かに歩くほうが好きである。
犬と一緒に走れば、道の匂いを確認する暇がない。
犬は目についたものへ次々と向かっていく。
猫を見つければ猫。
鳥を見つければ鳥。
人間を見つければ人間。
落ちている枝を見つければ枝。
あれでは散歩ではなく、移動しながら興奮しているだけである。
うちの人間は、犬が散歩を喜ぶ姿を見ると、
「楽しそうだね」
と言う。
楽しそうではある。
だが、犬は散歩へ出る前から楽しそうである。
紐を見ただけで走り回る。
戸が開く前から跳びはねる。
外へ出る前に体力を使っている。
もう少し落ち着けばよいと思う。
それでも、犬の感情は分かりやすい。
うれしければ全身で喜ぶ。
遊びたければ大声で誘う。
嫌なら後ろへ下がる。
怒れば歯を見せる。
人間は、それを長い時間見ている。
それなのに、まだ分からない。
犬の飼い主は、シジミがその場を離れないので、不安そうに声をかけた。
「大丈夫? おうち分かる?」
分かる。
この道は何度も歩いている。
自分の家へ帰れないように見えるのだろうか。
人間は、外を歩く猫を見ると、すぐ迷子かもしれないと考える。
自分たちが道を覚えるために、名前の書かれた板や絵の光る板を必要とするからだろう。
猫は匂いで道を覚える。
風の向き。
家の音。
地面の感触。
曲がり角の景色。
人間の作った名前がなくても帰ることはできる。
むしろ、絵の光る板を見ながら歩き、何度も同じ角を曲がる人間のほうが迷っている。
誰も理解していない
シジミは再び歩き出した。
飼い主が安心したように息を吐く。
「よかった。行ったみたい」
犬は人間の横から身を乗り出す。
「待って!」
「遊ばないの?」
「一緒に走ろ!」
シジミは振り返らなかった。
遊ばない。
走らない。
少なくとも今日は、そのつもりはない。
犬の声は、しばらく後ろから聞こえていた。
「またね!」
「次は遊ぼ!」
「絶対だよ!」
約束はしていない。
それでも犬の中では、次に会えば遊ぶことになっているらしい。
人間は犬を庭の奥へ連れていきながら、まだ言い聞かせている。
「猫ちゃんに吠えたら駄目でしょ」
犬は納得していない。
「遊ぼって言っただけ!」
人間には、どちらもワンワンとしか聞こえていないのだろう。
怒っている声。
遊びたい声。
寂しい声。
警戒している声。
食事が欲しい声。
同じように聞こえても、意味は違う。
人間同士なら、声の高さや速さが違うだけで、
「怒っている」
「喜んでいる」
「無理をしている」
と分かったようなことを言う。
犬のことになると、大きく吠えれば怒っている。
尻尾を振れば喜んでいる。
その程度で終わる。
実際には、体全体を見なければ分からない。
尻尾を振っていても、いつも喜んでいるとは限らない。
声が大きくても、怒っているとは限らない。
今回の犬は、ただ遊びたかった。
それだけである。
もっとも、相手が遊びたいからといって、こちらも遊ばなければならないわけではない。
犬はそこを理解していない。
飼い主は犬の気持ちを理解していない。
犬はシジミの気持ちを理解していない。
誰も相手を正しく理解していないのに、それぞれ自分の考えが正しいと思っている。
犬は、シジミも遊びたいと思っている。
飼い主は、犬がシジミを威嚇したと思っている。
そして、シジミは犬も人間も騒がしいと思っている。
少なくとも、シジミは相手の言葉を聞いてから判断している。
そこが違う。
シジミは次の角を曲がった。
犬の姿はもう見えない。
それでも、遠くから声が聞こえてくる。
「次は遊ぼー!」
声だけは、どこまでも大きい。
シジミは尻尾の先を揺らした。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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