本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第13話 細くなったわけではない

本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第13話 細くなったわけではない 創作実験
本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第13話 細くなったわけではない
本当に人間ってあさはかな生き物だよね
創作実験TOP日常系/猫視点コメディ/人間観察―― 猫には猫の常識がある。人間はそれを、何ひとつ分かっていない。 ――作品紹介黒猫のシジミは、人間に飼われている。少なくとも、うちの人間はそう思っている。だが、シジミからすれば話は逆だ。毎日決…

風呂の日

週に一回のお風呂の日である。

シジミは風呂が特に嫌いというわけではない。

好きかと聞かれれば、別に好きでもない。

体が濡れる。

足元が滑る。

普段とは違う匂いがつく。

そのあと長い時間、毛を乾かされる。

進んで入りたい場所ではないが、逃げ回るほど嫌な場所でもなかった。

うちの人間は、風呂の日になると朝から少し落ち着かなくなる。

何度もシジミを見る。

風呂場の扉を開ける。

布を用意する。

小さな容器を並べる。

そして、シジミと目が合うたびに、何でもないような顔をする。

隠しているつもりらしい。

人間は、猫が自分の行動しか見ていないと思っている。

だが、猫は匂いも聞いている。

風呂場から漂う湿った空気。

いつもとは違う場所へ置かれた大きな布。

棚から取り出された猫用の洗うもの。

朝から何度もこちらを確認する視線。

これだけそろえば、何をするつもりなのかは分かる。

それでも、うちの人間は明るい声で呼ぶ。

「シジミ、おいで」

妙に優しい。

食事のときよりも少し高い声である。

病院へ連れていくときにも、同じような声を出す。

人間は都合の悪いことを隠そうとすると、声だけ優しくなる。

普段どおりに呼んだほうが、まだ怪しまれない。

シジミは長椅子の上から、うちの人間を見た。

うちの人間は柔らかな部屋着の袖を肘までまくり、邪魔にならないよう栗色の髪を後ろでまとめていた。

風呂へ入れる気である。

間違いない。

「今日はお風呂の日だよ」

最初からそう言えばよい。

シジミは長椅子から降りた。

逃げても、いずれ捕まる。

寝台の下へ入れば、うちの人間は床へ這いつくばる。

棚の上へ逃げれば、椅子を持ってくる。

家の中を走り回れば、最後には二人とも疲れる。

そこまでしても、風呂がなくなるわけではない。

結果が変わらないなら、余計な体力を使う必要はない。

猫は合理的である。

うちの人間は、自分から近づいてきたシジミを見て、うれしそうに笑った。

「今日は素直だね」

今日も、である。

前回もそれほど逃げていない。

ただし、前々回は、うちの人間が何も説明せず抱き上げようとしたので避けただけだ。

急に体を持ち上げようとする者がいれば、距離を取るのは当然である。

それを人間は、風呂から逃げたと考えている。

自分の近づき方に問題があったとは思わないらしい。

うちの人間はシジミを抱き上げ、風呂場へ運んだ。

風呂場には、すでに浅く湯が張られていた。

熱すぎず、冷たすぎない。

そこは悪くない。

うちの人間も、毎回シジミの前足へ少し湯をかけ、温度を確かめている。

猫の返事は分からないくせに、顔色だけは熱心に見る。

シジミ! ほっそ!

シジミは湯の中へ下ろされた。

足の裏が濡れる。

続いて、脚。

腹。

背中。

黒い毛が少しずつ水を含んでいく。

乾いているときには、毛と毛の間に空気が入っている。

その空気が毛を押し広げ、体を実際よりも大きく見せている。

水に濡れれば、毛は体へ張りつく。

広がっていた分がなくなる。

ただそれだけである。

シジミの骨が縮んだわけではない。

肉が急になくなったわけでもない。

腹がへこんだわけでもない。

元から、この大きさである。

うちの人間は手ですくった湯を、シジミの背中へかけた。

毛がさらに体へ張りつく。

首の周り。

胸。

脇腹。

いつもは丸く見える部分が、次第に細くなっていく。

正確には、細くなっているように見えるだけである。

シジミは何も変わっていない。

だが、うちの人間は毎回、このあたりから目を見開き始める。

「シジミ……」

来る。

シジミには分かった。

うちの人間は、濡れたシジミを両手で支えながら、驚いた声を上げた。

「シジミ! ほっそ!」

細くなったわけではない。

元からこのサイズだ。

先週も説明した。

その前の週にも説明した。

さらにその前にも、同じことがあった。

濡らす。

毛が張りつく。

うちの人間が驚く。

毎回、同じ順番である。

人間は一週間たつと、猫の体の大きさを忘れるのだろうか。

シジミはうちの人間を見上げた。

そして猫語で言った。

毛が寝ただけである。

体は変わっていない。

乾けば元へ戻る。

うちの人間は、シジミの脇腹を両手で包んだ。

「いつも、もっと丸いのに」

それは毛である。

シジミ自身ではない。

人間は、目に見えている一番外側までを、その者の大きさだと思っているらしい。

猫の毛が広がっていれば、そこまでが猫。

濡れて張りつけば、急に細くなった猫。

ずいぶん単純な見方である。

うちの人間だって、着る服によって大きさが違って見える。

厚い上着を着れば、肩や腕が大きく見える。

柔らかな部屋着なら、体の形があまり分からない。

髪を下ろしていれば、顔の周りが広く見える。

後ろでまとめれば、首元が細く見える。

だからといって、髪をまとめるたびに、

「ほっそ!」

と驚いたりはしない。

服を脱いだからといって、体が縮んだとも思わない。

自分については、外側のものと中身を区別できる。

猫になると、毛と体の区別がつかなくなる。

毎日撫でている

うちの人間は、濡れたシジミの背中を洗い始めた。

指先で毛の間を丁寧になぞる。

「こんな細い体で、あんなに丸く見えるんだね」

こんな細い体ではない。

これが普通の体である。

普段は毛が広がっている。

それだけだ。

そもそも、うちの人間はいつもシジミを撫でている。

背中。

首。

脇腹。

腹。

何度も触っているのだから、毛の下にある体の形くらい分かりそうなものだ。

撫でているつもりで、毛の表面しか見ていないのだろうか。

人間は、よく触れていることと、よく理解していることを同じだと思っている。

毎日撫でている。

毎日名前を呼んでいる。

毎日一緒にいる。

だからシジミのことを分かっている。

そう考えているらしい。

実際には、毛の下の体の大きささえ、一週間ごとに驚いている。

毎週初めて知る

シジミはおとなしく洗われながら、うちの人間の手元を見た。

手つきは悪くない。

耳へ水が入らないようにしている。

目や鼻にもかけない。

強くこすりすぎることもない。

シジミが前足を動かせば、すぐに支え方を変える。

やっていることは丁寧である。

ただし、口から出てくる言葉だけが余計だった。

「脚も細いねえ」

元からである。

「首、こんなに細かったんだ」

元からである。

「顔、小さいね」

元からである。

うちの人間は、シジミの体を一つずつ発見しているような顔をしている。

毎週見ているはずなのに、毎週初めて知ったように驚く。

人間は新しいものを見つけるのが好きだ。

新しい店。

新しい服。

新しい食べ物。

新しい話。

だが、本当に新しいものがなくても、前に見たことを忘れれば、また新しく楽しめるらしい。

便利な頭である。

濡らしたのは人間

洗い終わると、うちの人間は湯を流した。

濡れた毛から泡がなくなる。

シジミは体を一度震わせた。

細かな水滴が周囲へ飛ぶ。

うちの人間が顔をそむける。

「わっ、ちょっと待って!」

待つ理由がない。

体についた水を飛ばしただけである。

人間は、自分で猫を濡らしておきながら、その猫が水を飛ばすと驚く。

濡れたまま何もしないと思っていたのだろうか。

シジミがもう一度体を震わせると、水滴がうちの人間の頬や髪へ飛んだ。

後ろでまとめていた髪の先にも、水がつく。

うちの人間は目を閉じ、口を少し尖らせた。

「もう、シジミ」

濡らしたのは、うちの人間である。

原因を作った者が、結果に文句を言っている。

人間はいつもそうだ。

猫を抱き上げて嫌がられる。

眠っている猫を撫でて離れられる。

狭い場所から出そうとして引っかかれる。

自分から何かをしておきながら、猫の反応だけを問題にする。

実に公平ではない。

やっぱり細い

うちの人間は大きな布でシジミを包んだ。

黒い頭だけが外へ出る。

布の上から、両手で体を押さえる。

水分を吸わせているらしい。

この時間は悪くない。

柔らかい。

暖かい。

体が囲まれている。

シジミが動かなければ、うちの人間もあまり余計なことをしない。

ただし、顔を見るたびに笑う。

「やっぱり細い」

まだ言っている。

布に包まれているため、体はほとんど見えていない。

それでも細いと言う。

先ほどの印象だけで話しているらしい。

人間は一度何かを決めると、そのあと見えていなくても同じことを言い続ける。

猫は丸い。

濡れた猫は細い。

猫は魚が好き。

猫は気まぐれ。

猫は高いところが好き。

一つの考えを覚えると、目の前の猫を見ず、その考えへ猫を当てはめる。

シジミは布の中から前足を出した。

うちの人間の腕へ触れる。

いつまで包んでいるつもりなのか。

うちの人間は、それを甘えているのだと思ったらしい。

「寒いよね。もう少し拭こうね」

違う。

早く出せと伝えたのである。

だが、暖かいので、少しくらいならこのままでもよい。

人間の誤解が、必ず悪い結果になるとは限らない。

大きな音

布で水気を取ったあと、今度は大きな音の出る道具が運ばれてきた。

温かい風で毛を乾かすものだ。

シジミはこの音が好きではない。

風そのものはよい。

暖かい。

濡れた毛が早く乾く。

だが、音が大きすぎる。

人間は耳が鈍いから平気なのだろう。

うちの人間は、シジミから少し離れたところで風を出した。

「熱くない?」

熱くはない。

うるさい。

シジミが耳を伏せると、うちの人間は温度を下げた。

違う。

熱いのではない。

音が大きいのである。

うちの人間はシジミの表情を見ているつもりだが、原因までは分かっていない。

耳を伏せた。

嫌がっている。

温度が高いのだろう。

そこまでは考えた。

だが、道具の音が原因かもしれないとは思わなかった。

自分が気にならない音だから、猫も平気だと思っている。

シジミが毎日聞き分けている小さな音を、うちの人間はほとんど聞けない。

壁の中を走る足音。

庭の葉に止まった虫。

遠くで開いた扉。

近所の猫が塀へ飛び乗る音。

人間にとって静かな場所でも、猫には多くの音がある。

大きな音は、そのすべてを隠してしまう。

それを説明しても、うちの人間には、

「ドライヤー苦手だね」

くらいにしか伝わらないだろう。

戻ってきた

乾かされるうちに、シジミの毛が少しずつ元へ戻っていった。

体へ張りついていた毛が起き上がる。

首の周りが広がる。

胸元がふくらむ。

脇腹も、いつもの形へ近づく。

実際の体が大きくなったわけではない。

毛の間へ空気が戻っただけである。

うちの人間は手で毛を整えながら、その変化を見ていた。

そして、驚いたように言う。

「あ、戻ってきた」

どこにも行っていない。

最初からずっとここにいる。

細くなってもいない。

戻ってもいない。

濡れた。

乾いた。

それだけである。

人間は、見た目が変わるたびに、中身まで変わったように言う。

髪を切れば、雰囲気が変わった。

服を替えれば、別人みたい。

顔へ色を塗れば、今日は大人っぽい。

猫の毛が濡れれば、細くなった。

乾けば、戻った。

外側が変わっただけで、同じ者である。

シジミは風を受けながら、うちの人間を見た。

うちの人間も、風呂から出たあとはずいぶん姿が変わる。

髪が濡れ、いつもより細くまとまる。

顔へ塗っていたものも落ちる。

柔らかな部屋着へ着替える。

それでもシジミは、

「うちの人間! 顔が違う!」

とは言わない。

濡れた髪を見て、

「頭が小さくなった!」

とも驚かない。

乾けば元へ戻ることを知っているからだ。

毎日のように見ている。

一度覚えれば、次の日も覚えている。

猫は学習する。

うちの人間は、週に一度見ているシジミの姿を、毎回初めて見たように驚く。

人間は猫より記憶力がよいと言う。

本当だろうか。

いつもの丸いシジミ

毛が完全に乾くと、うちの人間は大きな音の出る道具を止めた。

急に部屋が静かになる。

シジミは耳を立てた。

ようやく周囲の音が戻ってきた。

庭で鳥が鳴いている。

隣の部屋で小さな機械が動いている。

外を誰かが歩いている。

うちの人間の服がこすれる。

いつもの世界である。

うちの人間はシジミの体を両手で撫でた。

毛がふわりと広がる。

「ふわふわになったね」

それは認めてもよい。

洗う前より毛が整っている。

余計な匂いも落ちた。

少し違う匂いがついたことは気になるが、あとで自分で毛づくろいをすればよい。

うちの人間は満足そうにシジミを眺めた。

「いつもの丸いシジミに戻った」

だから、戻っていない。

丸いのは毛である。

シジミは元から、先ほど見た大きさだ。

それを毛が覆っている。

人間は、ふわふわしたものを見ると、中まで詰まっていると思うらしい。

布団。

大きな上着。

猫。

外側が広がっていれば、その分だけ中身も大きいと思う。

うちの人間はシジミを抱き上げ、鏡の前へ連れていった。

「ほら、きれいになったよ」

シジミは鏡の中の自分を見た。

黒い毛。

金色の目。

首輪。

いつものシジミである。

隣には、髪を後ろでまとめたうちの人間が映っている。

風呂場でシジミの水を浴びたせいで、頬の横に細い髪が何本か張りついていた。

袖も少し濡れている。

うちの人間は、それに気づくと眉を寄せた。

「私までびしょびしょ」

自分で風呂へ入れた結果である。

シジミのせいではない。

うちの人間は鏡の前で髪を直し、濡れた袖を見た。

その姿を見ても、シジミは驚かない。

普段と少し違っていても、うちの人間であることは変わらない。

見た目だけで中身まで別のものになったとは思わない。

別の猫みたい

うちの人間はシジミを床へ下ろした。

シジミはすぐに座り、前足を舐める。

風呂でついた匂いを、自分の匂いへ戻さなければならない。

うちの人間はその様子を見ながら、光る板を取り出した。

何かを確認している。

どうやら、風呂に入る前のシジミの写真らしい。

次に、先ほど濡れていたときの写真が表示される。

いつの間に撮ったのだろう。

うちの人間は二枚を交互に見て、笑った。

「別の猫みたい」

同じ猫である。

風呂へ入る前も。

濡れているときも。

乾いたあとも。

すべてシジミだ。

猫は毛が濡れたくらいで別の猫にならない。

人間は、外見が変わるとすぐ別のものに見えると言う。

だが、自分たちについては、

「見た目で判断しないで」

とも言う。

猫のことは毛の広がりだけで別の猫のようだと笑い、自分の中身は外見だけでは分からないと主張する。

ずいぶん自分たちに都合のよい決まりである。

うちの人間は、濡れたシジミの写真を大きく表示した。

「本当に細いなあ」

まだ言っている。

画像を見返すたびに、また初めから驚いている。

写真に残せば、来週は覚えているだろうか。

おそらく覚えていない。

来週も風呂へ入れる。

毛が濡れる。

うちの人間が目を丸くする。

そして、同じ言葉を言う。

「シジミ! ほっそ!」

シジミは前足の毛づくろいを終え、今度は胸元を舐め始めた。

毎週、同じ猫を洗う。

毎週、同じように毛が張りつく。

毎週、同じ大きさの体が現れる。

それでも毎回驚く。

変わっていない猫を見て、変わったと思う。

戻っていない猫を見て、戻ったと喜ぶ。

うちの人間はシジミの写真を眺めながら、楽しそうに笑っている。

来週も、同じ驚きを新しく味わうのだろう。

忘れることで、何度でも新鮮に楽しめる。

それは人間の長所なのかもしれない。

だが、シジミから見れば、単に何も覚えていないだけである。

シジミは毛づくろいを続けながら、猫語でつぶやいた。

「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」


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