

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
(一)逃げる話
撤退条件。
その言葉を聞いた瞬間、若い冒険者の一人が笑った。
森に入る前から、逃げる話をするのか。
そう言いたいのだろう。
リナが訳すまでもなかった。
笑い方で分かる。
ミナは依頼票を握ったまま、少しだけ肩を縮めた。
セリアは笑わなかった。
カイルも笑わなかった。
山科理人は、笑った青年を見た。
若い。
怖いもの知らずというより、怖いと言えない顔だった。
理人は知っている。
怖くない人間より、怖くないふりをしている人間の方が危ない。
前の世界でもそうだった。
失敗時の対応を先に決めようとすると、決まって誰かが言う。
そんな後ろ向きな話をするな。
まずは前向きに進めよう。
やる前から失敗のことを考えるな。
だが、後ろ向きな話をしなかった現場ほど、失敗した時に前へ進めなくなる。
理人は、依頼票を指した。
「行く、いい」
次に、町へ戻るしぐさをした。
「戻る、決める」
リナが訳す。
青年はまた笑った。
「逃げる気なら、最初から受けるな」
そんな意味のことを言ったらしい。
理人は首を横に振った。
逃げるためではない。
帰って報告するためだ。
だが、その違いを説明するには、今の言葉はまだ足りない。
理人は、依頼票の端を指で押さえた。
ゴブリン討伐。初心者可。危険度低。
その文字と印は、若い冒険者たちの背中を押す。
なら、戻るための言葉も、同じ紙の上になければならない。
(二)先に決める
理人は、出張先の会議室を思い出した。
納期に間に合わない時、どの時点で計画を見直すか。
在庫が足りない時、どこで代替手配に切り替えるか。
不良率が上がった時、どこでラインを止めるか。
本当は、先に決めておくべきだった。
だが、そういう話は嫌われた。
止める条件。遅れる条件。失敗を認める条件。
それは、いつも後ろ向きだと言われた。
前向きに進めましょう。まずはやってみましょう。現場で柔軟に対応しましょう。
柔軟に対応できる現場には、余裕が必要だ。
余裕のない現場で、その場で判断しろと言うのは、判断を押しつけるのと同じだった。
森の中でも同じだ。
暗くなってから、戻るか進むかを話し合えば揉める。
怪我人が出てから、続けるか撤退するかを決めれば遅い。
怖くなってから戻ろうと言えば、臆病者扱いされる。
だから、怖くなる前に決める。
森に入る前に決める。
理人は、依頼票の端を指した。
「先に、決める」
リナがそれを現地語に直す。
セリアは、腕を組んだまま黙っていた。
ミナは、理人ではなく依頼票を見ていた。
青年たちは不満そうだ。
カイルだけが、少し目を細めている。
理人は、もう一度ゆっくり言った。
「怖い時、決める。遅い」
リナが訳す。
「怖くなる前に、決める」
今度は、少しだけ伝わった気がした。
(三)笑うほど変ではない
「笑うほど変な話じゃない」
カイルが言った。
青年たちの笑いが少し止まる。
カイルは壁にもたれたまま、依頼票を見ていた。
「ゴブリン一匹なら、そりゃ新人でもいける」
彼は指を一本立てる。
「だが、巣なら別だ。森の奥なら別だ。日が落ちるなら別だ。怪我人が出たなら、もっと別だ」
リナが理人に訳す。
理人はうなずいた。
カイルは続ける。
「現場で引くかどうかを決めようとすると、大体揉める。強がる奴がいる。稼ぎを気にする奴がいる。怖いって言えない奴がいる」
ミナが少しだけ目を伏せた。
カイルは、それを見ないふりをした。
「だから、先に決める。ここまで見たら戻る。これがあったら戻る。そういうのは、別に悪くない」
青年の一人が不満そうに言った。
カイルは鼻で笑った。
「撤退を笑う奴は、だいたい次の月にはいない」
リナが訳す前に、理人はその意味をだいたい理解した。
場の空気が少しだけ変わった。
カイルの言葉には、理人の言葉にない重さがあった。
理人は森を知らない。
ゴブリンも知らない。
冒険者の死に方も知らない。
だが、カイルは知っている。
紙を笑って進んだ者が、どうなるかを知っている。
だから、同じ言葉でも届き方が違う。
理人は、カイルを見た。
カイルは理人の味方ではない。
ただ、死にやすい考え方を嫌っている。
それだけで、今は十分だった。
(四)戻るための紙
理人は紙を欲しがった。
セリアは嫌そうな顔をした。
紙は安くない。
理人は少し考え、依頼票の裏を指した。
セリアはさらに嫌そうな顔をした。
だが、完全には拒まなかった。
リナが煤の棒を持つ。
理人は、短い言葉で一つずつ伝えた。
足跡。三つ以上。戻る。
リナが絵にする。
小さな足跡を三つ。その横に、町へ戻る矢印。
次。穴。寝床。食べ残し。戻る。
リナが森の印と、小さな穴を描く。
次。血。家畜。子ども。戻る。
リナの手が少し止まった。
理人はうなずいた。
それは怖い印だ。
だが、怖いものほど先に書く。
次。日が傾く。戻る。怪我。戻る。見張りが二体。戻る。予定より奥。戻る。
紙の裏は、ひどく不格好な絵で埋まっていった。
足跡。穴。夕日。怪我。二体。矢印。
帳簿ではない。
正式な依頼票でもない。
だが、森の中で読むには、文字だけより分かりやすい。
理人は最後に、町へ戻る矢印をもう一度指した。
「戻る。失敗、違う」
リナが訳す。
「この印で戻ったら、失敗じゃない。報告」
セリアが顔を上げた。
その言い方には、彼女も少し反応した。
理人は、もう一度言った。
「戻る。見たこと、持ってくる」
リナが訳す。
「倒せなくても、見たものを持って帰るなら、次の人が使える」
カイルが小さく笑った。
今度は、馬鹿にした笑いではなかった。
(五)報告として戻る
セリアは紙を見た。
ひどい紙だった。
依頼票の裏に、足跡や矢印や夕日の絵が描かれている。
ギルドの正式な書類には見えない。
むしろ、子どもの落書きに近い。
それでも、そこには一つずつ意味があった。
どこで戻るか。何を見たら戻るか。戻った時、何を報告するか。
セリアは長く息を吐いた。
そして、依頼票を若い冒険者たちへ渡さず、いったん自分の手元に置いた。
何かを言う。
リナが訳す。
「討伐じゃなくて、確認。奥まで行かない。これを見たら戻る。報酬は少し下がるけど、報告があれば払う」
青年の一人が文句を言った。
報酬が下がる。
それは大きい。
理人にも分かる。
仕事が欲しい者にとって、報酬が減るのは小さな問題ではない。
だが、ミナは紙を見ていた。
足跡。穴。夕日。戻る矢印。
怖いと思った時、自分の言葉で止めなくていい。
紙を指せばいい。
そのことに、彼女は気づいたようだった。
理人は、そこに意味があると思った。
撤退条件は、弱い人間を守るためだけのものではない。
強がる人間を止めるためのものだ。
その場で怖いと言えない者が、事前に決めた紙を指せるようにする。
それだけで、戻れる確率は少し上がる。
セリアは依頼票の裏をもう一度見た。
「報告」
彼女は短くそう言った。
リナがうなずく。
「失敗じゃなくて、報告」
セリアは、納得しきってはいない顔だった。
だが、紙を破りはしなかった。
(六)町の入口
翌朝、ミナたちは町を出た。
依頼は討伐ではなく、確認に変わった。
報酬は少し減った。
青年たちは不満そうだった。
ミナは、依頼票の裏に描かれた撤退条件の紙を持っていた。
足跡が三つ以上なら戻る。巣らしきものを見たら戻る。日が傾き始めたら戻る。怪我人が出たら戻る。
単純な絵ばかりだ。
だが、森に入る前の彼女にとっては、文字より分かりやすかった。
カイルは少し離れて歩いていた。
付き添いではない。
少なくとも、本人はそう言った。
「偶然、同じ方角に用があるだけだ」
リナがあとでそう訳してくれた。
理人は町の入口まで見送った。
自分は森へ入らない。
剣も使えない。
魔法も使えない。
足手まといになるだけだ。
できることは、紙を渡すところまで。
理人は、ミナが紙を握る手を見た。
その紙が、森の中でただの紙切れにならないことを願った。
ミナは一度だけ振り返った。
理人は、軽くうなずいた。
頑張れとは言わない。
倒してこいとも言わない。
言うなら、これだけだ。
見て、戻れ。
だが、その言葉を現地語でうまく言える気がしなかった。
だから、理人は町へ戻る矢印を指で描くしぐさだけをした。
ミナは小さくうなずいた。
(七)足跡
森の中で、最初に気づいたのはミナだった。
地面が柔らかい。
雨の名残がある。
そこに、小さな足跡が残っていた。
一つではない。
二つ。
三つ。
さらに奥に、もう一つ。
青年の一人は言った。
ゴブリンなら、足跡くらいある。
それはそうだ。
だが、ミナは紙を見た。
足跡が三つ以上。戻る。
彼女は紙の足跡の印を指した。
青年が顔をしかめる。
「これくらいで戻るのか」
そう言ったらしい。
もう一人も、奥を見ていた。
森の奥から、かすかな音がした。
枝が折れる音。
鳥が一斉に飛び立つ音。
ミナは喉を鳴らした。
怖い。
だが、怖いから戻ろうと言えば、また笑われる。
彼女は紙を握り直した。
怖いからではない。
条件だから。
その違いが、彼女を少しだけ支えた。
さらに少し進んだ場所で、古い茂みが潰れていた。
何かが何度も通った跡。
小さな骨。
食べ残しのようなもの。
ミナは紙を見る。
穴。寝床。食べ残し。戻る。
完全に同じではない。
だが、近い。
十分に近い。
青年たちはまだ進みたそうだった。
ミナは、町へ戻る矢印を指した。
(八)条件だから
青年の一人は、奥へ進もうとした。
「まだ見てもいない」
あとで聞いた話では、そう言ったらしい。
せっかく来たのに。報酬が減る。この程度で戻ったら笑われる。初心者可の依頼だろう。
森の中で、そういう言葉は強い。
町にいる時よりも強い。
戻る理由より、進む理由の方が大きく聞こえる。
ミナは紙を出した。
足跡の印。三つ以上。町へ戻る矢印。
「条件」
彼女はそう言った。
自分の弱さではない。
紙に書いてある。
森に入る前に、全員で聞いた。
セリアも見た。カイルも見た。
だから、これは逃げではない。
報告だ。
青年たちは不満そうだった。
だが、完全には反論できなかった。
その時、少し離れた場所からカイルの声がした。
「戻れ」
短い声だった。
命令ではない。
だが、十分だった。
ミナたちは戻った。
戻る途中で、誰も多くは話さなかった。
青年たちは納得していない。
ミナも、自分が正しかったと胸を張れるわけではない。
ただ、紙に書かれた条件に引っかかった。
それだけは確かだった。
森を出るころ、空は少し傾き始めていた。
もし奥まで進んでいたら、帰りはもっと遅くなっていただろう。
ミナは、町へ続く道を見て、紙を握り直した。
戻った。
それだけで、手が少し震えていた。
(九)倒さずに戻る
ミナたちは、何も倒さずに戻った。
ゴブリンの耳もない。討伐証明もない。武勇伝もない。
持ち帰ったのは、泥のついた靴と、紙に描かれた印と、いくつかの報告だけだった。
足跡は一つではなかった。
森の奥で枝が折れる音がした。
鳥が一斉に逃げた。
茂みが潰れていた。
小さな骨のようなものがあった。
予定の場所より奥へ進まなければ、姿は確認できなかった。
日が傾き始めていた。
青年たちは不満そうだった。
何もしていない。
そう思っている顔だった。
だが、ミナは紙を握っていた。
戻った。
生きて戻った。
そして、見たことを持って戻った。
理人は、その紙を見て、ゆっくりうなずいた。
それは失敗ではない。
次に誰かが行くための情報だった。
理人はミナを見た。
ミナは、まだ自信がなさそうだった。
依頼を達成していない。報酬も減る。青年たちにも不満が残っている。
それでも、彼女は紙を出した。
条件に従って戻った。
理人は、自分の胸に手を当ててから、紙を指した。
「いい」
それだけ言った。
ミナは、少しだけ目を見開いた。
リナがすぐに訳してくれた。
「戻って、報告した。だから、いい」
ミナは紙を握ったまま、小さくうなずいた。
(十)失敗ではない
セリアは、ミナたちの報告を聞いた。
最初は、いつもの帰還確認の顔だった。
依頼達成か。未達か。報酬はどうするか。次の依頼はどうするか。
だが、ミナが紙を出すと、少し表情が変わった。
足跡の印。三つ以上。戻る矢印。
ミナは、見たことを一つずつ話した。
足跡。音。鳥。茂み。骨。日暮れ。奥へ進む必要。
セリアはそれを聞きながら、別の紙に書き留めた。
依頼失敗ではない。追加情報。
そう扱うことにしたのだろう。
カイルが横から言った。
「巣かもしれないな」
セリアの手が止まる。
青年たちも黙った。
ゴブリン一匹の討伐依頼。初心者可。危険度低。
それが、巣の確認に変わりかけている。
理人は、依頼票の危険度印を見た。
紙は間違っていたのかもしれない。
あるいは、前は正しかったのかもしれない。
だが、今はもう、そのままでは危ない。
戻ったから、それが分かった。
倒していたら分かったのではない。
奥へ進み続けていたら、分かったのでもない。
途中で戻ったから、情報が残った。
理人は、セリアが書き留めている紙を見た。
足跡。複数。巣の疑い。確認必要。
その文字は読めない。
だが、筆の動きで分かる。
見たものが、残されている。
(十一)戻りやすい紙
セリアは、依頼票を掲示板へ戻さなかった。
代わりに、別の束へ移した。
確認待ち。
おそらく、そういう扱いだ。
理人には文字は読めない。
だが、置かれる場所が変わったことは分かった。
カイルは理人の横に立った。
「紙だけで森は歩けない」
リナが訳す。
理人はうなずいた。
それは正しい。
カイルは続けた。
「だが、紙があると戻りやすい」
リナが訳した。
理人は少しだけ目を細めた。
それは、かなり大きな評価だった。
セリアも、理人を見た。
まだ信用ではない。
だが、昨日までの怪しい異邦人を見る目とは少し違う。
彼女は依頼票の端を指した。
それから、理人が描いた戻る矢印を指す。
「これは、他にも使えるか」
リナが訳した。
理人は、すぐには答えなかった。
使える。
たぶん。
だが、使い方を間違えれば、ただの面倒な紙になる。
撤退条件は、人を臆病にするためのものではない。
帰って報告するためのものだ。
理人は、ゆっくりうなずいた。
「使える。でも、全部同じ、違う」
リナが訳す。
セリアは小さくため息をついた。
また面倒なことを言われた。
そういう顔だった。
だが、彼女は紙を捨てなかった。
カイルは、掲示板から外された依頼票を見た。
「次に行く奴は、少しはましな紙を持てるな」
リナが訳す。
理人は、何も言わなかった。
まし。
その程度でいい。
まずは、空白よりましならいい。
(十二)反発
撤退条件の紙は、すぐにギルドで噂になった。
新人を甘やかす紙。逃げる理由を作る紙。報酬を減らす紙。
そう言う者もいた。
一方で、別の者は言った。
戻ってくるなら、悪くない。
死体を拾いに行くよりはましだ。
カイルは何も言わなかった。
セリアは忙しそうに紙を整理していた。
ミナは、依頼票の裏に描かれた戻る矢印をじっと見ていた。
青年たちは、まだ納得していない。
理人は、その反応を見て思った。
一枚の紙で、文化は変わらない。
撤退を恥だと思う空気は、まだ残っている。
依頼を未達で戻ることへの不安もある。
報酬が減る問題もある。
面倒な確認を増やしたくない者もいる。
それでも、今日一つだけ変わった。
戻った者が、ただの臆病者として扱われなかった。
見たものを持ち帰った者として扱われた。
それは、小さな変化だった。
そして、たぶん大きな変化の入口だった。
理人はギルドの掲示板を見た。
依頼票はまだ多い。危険度の印も多い。初心者可の文字もある。戻る条件が書かれていない紙は、まだ何枚もある。
一つ直しても、終わりではない。
紙は増える。
反発も増える。
それでも、戻った者がいる。
それだけは、もう消えない。
(十三)戻らなかった者
その夜、理人はギルドの隅で、依頼票の写しを見ていた。
文字はまだ読めない。
だから、リナが読めるところを読み、理人が印をつける。
ゴブリン。薬草採取。荷運び護衛。行方不明者捜索。遺品回収。低危険度。初心者可。人数。報酬。
理人は、依頼票の端に小さな印を置いていく。
戻る条件が必要な依頼。
人数確認が必要な依頼。
時間制限が必要な依頼。
だが、途中で手が止まった。
依頼票だけでは足りない。
どの依頼で、誰が戻らなかったのか。
それを見なければならない。
理人はセリアを見た。
セリアは疲れた顔で、別の依頼票を整理している。
このギルドには、きっと記録がある。
帰還確認。未帰還。死亡報告。報酬未払い。遺品回収。
だが、それが一つにつながっているとは限らない。
理人は小さく言った。
「新人、何人死んだ?」
リナが息を呑んだ。
その問いは、ギルドの空気を少し冷たくした。
セリアの手も止まった。
理人は、言葉を探す。
「どの依頼で。何人。戻らない」
セリアは、しばらく黙っていた。
そして、奥の棚を見た。
そこには、古い依頼票の束が積まれていた。
誰も好んでは見ない紙の山。
戻らなかった者の記録が、そこに眠っていた。
(十四)ログ
ログ
分岐条件:追加
帰還率:未評価
局所判断:変化
反発係数:上昇
注記:
中断を失敗とする分類は継続。
非正規転生 ~転生したけど最弱スキルすらもらってない~ TOPへ

自サイト版では人物紹介・用語集・設定資料などをまとめていますが、
”カクヨム”、”小説家になろう”ではフォロー、応援、レビュー、コメントなどができます。
気に入っていただけた方は、”カクヨム”、”小説家になろう”でも応援していただけると嬉しいです。
カクヨム版はこちら:
https://kakuyomu.jp/works/11054822662040847112
小説家になろう版はこちら:
https://ncode.syosetu.com/n6829ms/


コメント