勇者の条件 第32話 空の目を避けて

勇者の条件 第32話 空の目を避けて 創作実験
勇者の条件 第32話 空の目を避けて
勇者の条件
創作実験TOP異世界ファンタジー魔王勇者もの対勇者戦略にて勇者の誕生を阻止する作品紹介歴代魔王は、なぜ勇者に敗れたのか。城を固めても、国境を塞いでも、聖都を脅かしても、最後には勇者が玉座へ届く。ならば魔王軍が見るべきは、国ではない。勇者であ…
勇者の条件 第32話 空の目を避けて 人物相関図

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。

次は空か

火山拠点は落ちた。

黒い谷には、まだ泥と水が残っている。

火山の熱に触れて、白い湯気が上がっていた。

各国軍は勝った。

だが、勝った軍の姿は重かった。

深海で船を失った。

深森で兵を迷わせた。

火山では水と泥の中を進んだ。

負傷者は多い。

補給も薄い。

火山拠点を保持するだけでも、もう手一杯に近かった。

それでも、戦いは終わらない。

古い勇者文献を持つ神官が、次の記述を読み上げた。

「勇者は空の砦を落とし、魔王城への道を開いた」

兵士たちが空を見上げる。

遠く、高山の峰に黒い要塞が見えた。

雲よりも高い場所にあるように見える。

切り立った山の上に、黒い壁と塔が乗っていた。

それが、天空要塞だった。

ガルドが言う。

「空に浮いているわけじゃないんだな」

ミルカが答える。

「高すぎて、そう見えるだけ」

「では、天空ではなく高山要塞か」

「名前としては、天空要塞の方が強そう」

「確かに」

ロアンは山の稜線を見た。

天空要塞は、魔王城へ向かう北側山岳路を見下ろしている。

空からではなく、高みから。

だが、見られている感覚はあった。

エナも同じ方向を見て、小さく言う。

「見られている感じがします」

ミルカは火山拠点から押収した資料をめくった。

「実際、見ているんだと思う。火鏡塔、夜目の鴉、鳥型魔物、山岳斥候。監視用の記録が多い」

ガルドが眉をひそめる。

「鴉までいるのか」

「夜目の鴉。夜間巡回に使う魔物らしい」

「見つけたら斬ればいいか」

「斬ったら見つかったと知らせるようなもの」

「斬らない方がいい鳥か」

「今回は、だいたいそう」

ロアンは、遠くの要塞を見た。

「次は、あれを落とすのか」

指揮官は苦い顔をした。

「落とせるなら、そうしたい」

言葉に力はなかった。

各国軍には、もう天空要塞を攻略する余力がない。

ロアンにも、それは分かった。

深海、深森、火山。

どれも、灰の一団だけで勝ったわけではない。

海を知る人たち。

森の歌。

職人。

水番。

石工。

工兵。

軍。

土地の人たち。

いくつもの力をつないで、ようやく拠点を落としてきた。

ここでさらに、高山要塞を正面から攻略する。

それは、あまりに重い。

エナが空を見上げたまま言う。

「あそこへ行くの、嫌な感じがします」

ガルドが頷いた。

「高いところは、落ちる」

ミルカが言う。

「問題はそこだけじゃない」

ロアンは地図に目を落とした。

天空要塞。

魔王城。

北側山岳路。

大軍が進める道。

見下ろす黒い砦。

ロアンは、少し黙った。

それから言う。

「落とす必要があるのか、考えたいです」

天幕の中が静かになった。

天空要塞の意味

軍議が開かれた。

地図の上には、魔王城へ向かう山岳地帯が示されている。

南側は絶壁。

東西は深い谷と毒沼。

大軍が進める道は、北側の山岳路だけ。

その道を見下ろしているのが、天空要塞だった。

軍の参謀が言う。

「過去の勇者は、必ず天空要塞を攻略しています」

ロアンは聞いた。

「なぜですか」

参謀は地図の黒い印を指した。

「要塞を残したまま魔王城へ近づけば、進路が知られます。人数も、負傷者の有無も、補給の状態も知られる。背後から追撃される。魔王城へ警告が届く。軍が進むなら、無視できません」

ミルカが頷く。

「つまり、軍の道を開くためには落とす必要がある」

「そうです」

ガルドが腕を組む。

「背中に敵を残すことになるぞ」

ロアンも頷いた。

「見つかれば、そうなる」

神官が眉をひそめる。

「見つからずに魔王城へ向かうというのですか」

ロアンは地図を見た。

「大軍を通すなら、要塞を落とさないといけない。でも、少人数が魔王城へ向かうだけなら、落とさない道もあるんじゃないかと思って」

場が静かになった。

指揮官がロアンを見る。

「軍が進むなら、無視できない。だが、軍が進まないなら、か」

ミルカが補足する。

「今の軍は、天空要塞を落としてもすぐには魔王城へ進めません。兵も補給も足りない。要塞攻略でさらに消耗します」

神官は反論した。

「しかし、勇者の道筋では、天空要塞を攻略しています」

ロアンは少し困ったように言った。

「俺たちは、勇者じゃありません」

その言葉に、誰もすぐには返せなかった。

ロアンは続ける。

「勇者なら、天空要塞を落として、後ろの軍のために道を開くのかもしれない。後世の記録に残るような勝ち方をするのかもしれない。でも、俺たちはそういう役目で来たわけじゃない」

エナが静かに言う。

「落とさない方が、誰かが死なずに済むかもしれません」

ガルドは地図を見ている。

「要塞を落とさなければ、勝ちには見えないな」

ミルカが言った。

「勝ちに見えなくていい」

ガルドは少し考え、頷いた。

「なら、いいか」

ロアンは指揮官を見た。

「俺たちが行く。道を開くんじゃなくて、道を探す」

指揮官はしばらく黙った。

それから言う。

「成功しても、軍はすぐには続けんぞ」

「分かっています」

「失敗すれば、助けにも行けん」

「それも、分かっています」

「要塞に見つかれば、魔王城へ警告が飛ぶ」

「見つからないようにします」

ガルドが横から言った。

「簡単に言ったな」

ロアンは苦笑した。

「簡単ではないけど、言わないと始まらない」

ミルカが地図を畳みかける。

「要塞に勝つんじゃない。要塞に用がないふりをする」

ロアンは頷いた。

「そう。要塞を攻めない。要塞へ向かわない。軍の動きに見せない」

指揮官は深く息を吐いた。

「なら、これは軍の正規作戦ではない」

ロアンは黙って聞いた。

指揮官は続ける。

「灰の一団の遊撃行動として扱う。軍は火山拠点の保持と負傷者の処置を優先する」

神官が何か言いかけたが、指揮官は首を横に振った。

「今の軍には、天空要塞を落とす力はない。なら、選べる者に選ばせる」

エナは空を見た。

ミルカは地図を見た。

ガルドは剣を確かめた。

ロアンは静かに頷いた。

「行きます」

監視網を読む

ミルカは、火山拠点から押収した資料と、現地の山岳地図を広げた。

天空要塞は、ただの砦ではなかった。

監視網である。

主要街道を見る。

北尾根を見る。

東谷を見る。

西崖道を定期巡回する。

雪原の足跡を見る。

火鏡塔で魔王城へ信号を送る。

夜目の鴉で夜間を巡回する。

鳥型魔物で谷を確認する。

ミルカは資料に指を置く。

「要塞を壊せば、当然見つかる」

ガルドが言う。

「壊すために近づくからな」

「そう。だから、近づかない」

ロアンが地図を指す。

「魔王城へ向かうには、要塞の下を通る必要はある。でも、要塞そのものへ向かわなくてもいい」

ミルカは頷いた。

「監視は全方向を同じ密度で見ているわけじゃないはず。軍が通れる道、補給が通れる道、勇者が要塞を攻める道。そこが濃い」

エナが言う。

「じゃあ、危ないけれど、意味がない道を通るんですね」

ロアンは少し笑った。

「意味がないと思われている道、かな」

ガルドが地図を覗き込む。

「どれだ」

ミルカは西側の細い線を指した。

「西崖道」

ガルドは線を見た。

「線が細い」

「道も細い」

「嫌だな」

「珍しく感想が普通」

ロアンが説明を読む。

「荷馬は通れない。車輪も無理。負傷者を運ぶのも難しい。途中に崩落箇所。風が強い。足を滑らせれば戻れない」

エナが小さく言う。

「嫌な情報が多いです」

ガルドが腕を組む。

「軍が通れないなら、監視が薄いのか」

ミルカが頷く。

「完全に無視されているわけじゃない。定期巡回はある。でも、主要監視対象ではない」

ロアンは地図を見つめた。

「要塞を攻めるには遠回り。軍を通すには細すぎる。だから、優先度が低い」

「灰の一団なら通れるかもしれない」

ミルカが言う。

「通れるかもしれない、であって、通れるとは言ってない」

ガルドが真面目に言った。

「そこは大事だな」

「大事」

エナが空を見た。

「でも、見られている感じはします」

ロアンは頷いた。

「要塞は有能なんだと思う。だから、見えないんじゃなくて、見ても意味が分からないくらいにする」

ミルカが指を折る。

「軍の痕跡を消す。旗なし。馬なし。車輪なし。火なし。野営跡なし。大人数の足跡なし」

ガルドが言う。

「荷も減らすのか」

「当然」

「剣は置かんぞ」

「誰もそこまでは言ってない」

「先に言っておく」

ロアンは少し笑った。

「剣は持ってください。むしろガルドが剣を置いたら、俺たちが不安になる」

ガルドは満足げに頷いた。

「なら持つ」

ミルカが小さく言った。

「そこは交渉するところじゃない」

山羊と馬鹿の道

西崖道を知る者を探すと、山麓の猟師が一人見つかった。

日に焼けた顔で、足がやけに細く、岩の上を歩くような立ち方をしている。

猟師は地図を見て、嫌そうな顔をした。

「あそこは道じゃねぇ」

ロアンが聞く。

「でも、通れるんですよね」

「山羊と馬鹿が通る場所だ」

ガルドがすぐに聞いた。

「俺たちはどっちだ」

ミルカが即答する。

「少なくとも山羊ではないわね」

ガルドは少し考えた。

「では、馬鹿か」

エナが慌てて言う。

「まだ決まっていません」

ロアンも言う。

「馬鹿にならないように準備しよう」

猟師は呆れたようにロアンたちを見た。

「準備でどうにかなるなら、道って呼ばれてる」

ミルカが頷く。

「正しい」

「褒めてるのか?」

「事実を言っています」

猟師は西崖道の説明を始めた。

風が強い。

足場が細い。

雨の後は絶対に通るな。

雪があれば足跡が残る。

雲が低い日は視界が悪い。

雲が高い日は要塞から見られる。

鳥が回る時間には動くな。

古い吊り橋は信用するな。

途中から先は、猟師でも行かない。

ロアンは聞きながら、紙に書き留める。

ガルドが横から言った。

「嫌なことばかりだな」

猟師は頷いた。

「だから道じゃねぇ」

エナが小さく聞く。

「でも、通ったことはあるんですか」

「途中までならな。崖向こうに薬草が出る」

ロアンが反応する。

「薬草」

ミルカがロアンを見る。

「崖と薬草に反応しない」

「いや、ガルドの村を思い出して」

ガルドが頷いた。

「崖の薬草は、だいたい良い薬草だ」

猟師が真面目に言う。

「その分、だいたい落ちる」

「よく戻れますね」

「戻れないやつは、薬草の話をしない」

ロアンは静かに頷いた。

「重い話だった」

猟師は西崖道を指でなぞった。

「途中までは案内する。だが、そこから先は本当に道じゃねぇ。俺は戻る」

「それで十分です」

「見つかったら終わりだぞ」

ガルドが言う。

「見つからなければいい」

猟師は呆れる。

「簡単に言うな」

ミルカが小さく言う。

「本当にね」

ロアンは猟師に頭を下げた。

「お願いします」

猟師は空を見た。

「雲が低くなる夕方からだ。昼に行くやつは、山羊にも馬鹿にもなれねぇ。ただの死体だ」

ガルドが言った。

「山羊と馬鹿の上が死体か」

「下だと思う」

ミルカが冷静に直した。

荷を捨てる

ロアンたちは、荷を徹底的に減らした。

馬は使わない。

車輪も使わない。

旗も持たない。

焚火もしない。

鍋も減らす。

余分な武器も置く。

重い鎧は使わない。

食料は乾いたものだけ。

水は最低限。

夜に火を焚かないため、体温を保つ布を増やす。

ミルカは魔法道具を並べて、使うものと置いていくものを分けている。

「派手な魔法は使わない。光るものも駄目。煙が出るものも駄目。音が大きいものも駄目」

ガルドが剣を抱えた。

「剣は置かんぞ」

ミルカは顔を上げない。

「三回目」

「大事だからな」

「誰も置けと言っていない」

「ならいい」

エナは薬を小分けにしていた。

「怪我をしたら、長く止まれません」

ロアンは全員を見る。

「戻る道も考える。でも、負傷者を担いで戻る余裕はほとんどない」

少し沈黙した。

ガルドが言う。

「なら、怪我をしない」

ミルカがため息をつく。

「それで済むなら苦労しないのよ」

ガルドは首を傾げる。

「怪我をする前提で動くのか」

「怪我をしないつもりで、怪我をした時の準備もする」

「難しいな」

ロアンが頷く。

「だから、戦わない。見つからない。急がない」

エナが乾いた薬草を包みながら言う。

「急がないのに、時間は短いんですね」

ミルカが答える。

「そう。だから、急がずに間に合わせる」

ガルドが言った。

「一番難しいやつだ」

「分かってきた」

ロアンは自分の荷を見た。

減らしても、まだ重い。

水。

食料。

布。

縄。

小さな釘。

薬。

最低限の道具。

それでも、荷馬を使わない以上、人が担ぐしかない。

ミルカがロアンの荷を一つ抜いた。

「それ、置いて」

「予備の鍋」

「いらない」

「でも、鍋は便利だ」

「火を焚かない」

「水を入れられる」

「水袋がある」

「盾になる」

「ならない」

ガルドが言う。

「鍋で殴れる」

ミルカが即答する。

「殴らない」

ロアンは鍋を見つめた。

エナがやさしく言った。

「今回は、お留守番ですね」

ロアンは鍋を置いた。

「分かった。鍋は置く」

ミルカは少しだけ満足そうに頷いた。

「賢明」

ガルドが真面目に言う。

「鍋は戻れるのか」

ロアンは少し笑った。

「火山拠点に戻ったら回収する」

「ならよし」

旅は荷で決まる。

何を持つか。

何を置くか。

どこまで進めるか。

今回は、名誉も荷も置いていく。

持っていくのは、四人分の体と、最低限の道具だけだった。

空を見る

出発前、ロアンたちは火山拠点跡から天空要塞を観察した。

火鏡塔の光。

鳥型魔物の旋回。

山道を横切る影。

遠くからでも、要塞が生きていることは分かった。

ミルカは鳥の巡回間隔を数えている。

「同じ鳥が戻ってくるまで、だいたいこのくらい」

ロアンが聞く。

「抜けられる?」

「鳥だけなら。でも、空には雲がある。雲が切れる時間もある。風が変わると巡回の高度も変わる」

エナは空を見上げた。

「雲が厚い時の方が安全です。でも、風が強すぎる時は足元が危ない」

ガルドが崖を見る。

「見られるより落ちる方が先か」

ミルカがうなずく。

「そういう道」

ロアンは空と地図を交互に見る。

「要塞に近づく時間より、見られにくい時間を選ぶ」

エナが小さく言った。

「夕方から夜にかけて。でも、夜通し進むのは危ないです」

ロアンは頷く。

「進む時間と止まる時間を決めよう。無理に進んで落ちたら終わりだ」

ガルドが言う。

「夜に動かないのは、森でもあったな」

ミルカが答える。

「今回は星は見えるかもしれない。でも足元は見えない」

「結局、見えないものは斬れない」

「それはずっとそう」

火鏡塔が、一瞬だけ光った。

遠くの山肌に、薄い反射が走る。

ロアンは思わず身を低くした。

ミルカが言う。

「今のは定時信号。こっちを見たわけじゃない」

「分かっていても、嫌だな」

エナが頷いた。

「見られている感じがします」

ガルドは空を見た。

「見られているのに、見られていないふりをするのか」

ロアンは答える。

「見られても、意味を持たせない」

「難しいな」

「うん」

ミルカが言う。

「だから、軍の形を捨てる。勇者一行の形も捨てる。要塞へ向かう形も捨てる」

エナが聞く。

「私たちは何に見えるんでしょう」

ミルカは少し考えた。

「獣、猟師、はぐれた少人数。判断できない何か」

ガルドが頷く。

「何か」

「そう。何か」

ロアンは灰色の外套を見る。

「灰色でよかったな」

ミルカが答える。

「やっと外套が役に立った」

「前から役に立ってたと思う」

「今回は岩に似てる」

ガルドが自分の外套を見る。

「俺は岩か」

エナが微笑んだ。

「動く岩ですね」

ミルカが言う。

「動いたら駄目な時もある」

「では、止まる岩か」

ロアンは笑った。

「それで行こう」

出発

灰の一団は、火山拠点を離れた。

公式には、偵察に出たことになっている。

大軍は動かない。

旗は立たない。

角笛も鳴らない。

補給隊もつかない。

西崖道へ向かうのは、ロアン、ミルカ、エナ、ガルド。

それと、道を途中まで知る山岳猟師一人。

猟師は先を歩きながら、何度も振り返った。

「静かに歩け」

ガルドが小声で答える。

「静かに歩いている」

「岩を踏む音がでかい」

「岩が悪い」

「岩のせいにするな」

ミルカが言う。

「ガルド、足の置き方」

「こうか」

「まだ大きい」

エナが小声で言う。

「ガルドさん、強いから、地面も強く踏んでいるのかもしれません」

「地面に勝つ必要はないぞ」

猟師がぼそりと言った。

ガルドは少し考えた。

「地面とは戦わない」

「そうしてくれ」

ロアンは笑いをこらえた。

会話は小さい。

だが、あるだけで少し落ち着く。

無言で崖へ向かうよりは、ずっといい。

しばらく進むと、猟師が足を止めた。

そこから先は、崖に沿った細い岩の道だった。

道と呼ぶには細すぎる。

片側は岩壁。

もう片側は雲の流れる谷。

猟師は言った。

「ここから先は、本当に道じゃねぇ」

ロアンは頭を下げる。

「案内、ありがとうございました」

猟師は天空要塞の方を見る。

「見つかったら終わりだぞ」

ガルドが言う。

「見つからなければいい」

猟師は呆れる。

「簡単に言うな」

ミルカが小さく言う。

「本当にね」

猟師はロアンを見る。

「戻るなら今だ」

ロアンは崖道を見た。

細い。

危ない。

軍は通れない。

だから、通る。

「行きます」

猟師は少しだけ頷いた。

「なら、馬鹿になりきるな。山羊に少し寄せろ」

ガルドが聞く。

「どういう意味だ」

「足元を見ろってことだ」

「なるほど」

エナが小さく笑った。

ロアンたちは猟師と別れ、西崖道へ入った。

西崖道

西崖道は、細かった。

想像より細かった。

片側は岩壁。

もう片側は谷。

足元の石は崩れやすい。

風が強く、外套の裾を引っ張る。

ロアンは一歩ずつ足を置いた。

前をガルドが進む。

後ろにミルカ。

最後にエナ。

時折、天空要塞の火鏡塔の光が雲を照らした。

直接こちらを照らしているわけではない。

それでも、動くものは見えるかもしれない。

ミルカが小声で言う。

「光が来る。止まって」

四人は岩陰に体を寄せる。

灰色の外套を岩肌に近づける。

息を小さくする。

光が雲を撫でて通り過ぎた。

ロアンは合図を出す。

また進む。

鳥型魔物の影が谷を横切った。

エナがロアンの袖を引く。

「今は、出ない方がいいです」

全員が岩陰に伏せる。

鳥は遠くを旋回し、別の谷へ向かった。

ガルドが小声で言う。

「見えているのか、見えていないのか、分からんな」

ミルカが答える。

「分からないから止まる」

ロアンは頷いた。

前の森と同じだ。

分からない時に進まない。

急かされても待つ。

今回は、森ではなく空だ。

空の目がある。

見られているかもしれない。

でも、見られたと決まったわけではない。

動けば見つかる。

止まれば、岩かもしれない。

ロアンは手で合図する。

進む。

止まる。

伏せる。

待つ。

進む。

会話は少なくなった。

それでも、完全には消えない。

ガルドが小さく言った。

「岩になるのは難しい」

ミルカが返す。

「岩はしゃべらない」

「そうか」

ロアンは思わず口元を押さえた。

エナも肩を少し震わせている。

緊張は消えない。

だが、少しだけ息がしやすくなった。

火を焚かない夜

夜。

一行は、崖のくぼみで休んだ。

火は焚かない。

煙も出さない。

声も低くする。

水は少しだけ。

食事は乾いたもの。

寒さで指が動きにくい。

ガルドが布を被りながら言った。

「火がほしいな」

ミルカが答える。

「火を焚いたら、あっちに知らせる合図になる」

ガルドは黙って布をさらに被った。

「火は敵か」

「今は敵」

「水の時は味方ではなかった」

「状況による」

「火も水も難しい」

ロアンが乾いた食料を噛みながら言う。

「鍋があれば、少し気持ちは楽だった」

ミルカが冷たく答える。

「鍋は置いてきた」

「知ってる」

「未練があるの?」

「少し」

エナが小さく手を合わせる。

「鍋が無事に戻れますように」

ミルカが言う。

「祈る対象が鍋になった」

ガルドは真面目に頷いた。

「大事な鍋だった」

「あなたまで」

ロアンは少し笑った。

崖の上で笑うのは危ない。

それでも、笑わないと体が固まりすぎる気がした。

遠くで、天空要塞の風笛が鳴った。

低い音が、夜の山を渡っていく。

魔王城へ向けた定時信号かもしれない。

ミルカが呟く。

「要塞はちゃんと生きてる」

ロアンは答える。

「だから、攻めない」

エナが空を見る。

「見られませんように、じゃなくて……落ちませんように、ですね」

ロアンは頷いた。

「両方でお願いします」

ガルドが言う。

「それと鍋も」

ミルカがため息をついた。

「鍋はもういい」

「まだ戻ってない」

「今ここで鍋の心配をしても、鍋は何も変わらない」

「たしかに」

エナは少し笑って、布を引き寄せた。

夜は長かった。

火を焚かない夜は、体よりも心が冷える。

それでも、誰も火を求めて動かなかった。

見つからないこと。

それが今の戦いだった。

要塞を見上げる

翌日。

雲が薄くなった。

一行は岩陰から、天空要塞を見上げた。

高い。

黒い壁。

火鏡塔。

鳥型魔物。

風に揺れる監視旗。

過去の勇者は、あそこへ向かった。

塔を壊し、司令官を倒し、道を開いた。

文献に残る勝利とは、きっとそういうものだ。

ガルドが言う。

「行かないのか」

ロアンは答えた。

「行く理由がない」

ガルドが少し笑う。

「見つかったら?」

「逃げる」

ミルカが言う。

「雑」

ロアンは要塞を見上げたまま答える。

「でも、戦うよりまし」

エナが静かに言った。

「あそこへ行ったら、たぶん戻れません」

ロアンは頷く。

「だから行かない」

ガルドはしばらく要塞を見ていた。

「強そうだ」

「強いと思う」

「戦わないのか」

「戦わない」

「勝てないからか」

ロアンは少し考えた。

「勝てたとしても、ここで勝つ必要がないから」

ミルカが言う。

「勝ったら、魔王城に知らせることになる。要塞を攻める時点で、大きな痕跡になる」

エナが言う。

「誰かがたくさん怪我をします」

ガルドは頷いた。

「なら、行かない」

ロアンは要塞を見上げた。

勇者なら挑む。

灰の一団は挑まない。

そこに誇らしさはない。

でも、恥でもない。

必要なことをする。

必要のないことをしない。

それだけだ。

ロアンは言った。

「俺たちは魔王城へ行く。天空要塞を倒しに来たんじゃない」

ミルカが頷く。

「目的を間違えない」

ガルドが剣から手を離した。

「分かった。今回は見逃してやる」

ミルカが即座に返す。

「向こうは見逃されたと思ってない」

「それでいい」

ロアンは少し笑った。

たしかに、それでよかった。

痕跡を消す

灰の一団は、通った跡をできるだけ残さないように進んだ。

土を踏まない。

雪の上を長く歩かない。

岩場を選ぶ。

崩れた石は戻せないが、大きな落石は起こさない。

布切れを落とさない。

食べ残しを捨てない。

野営跡を残さない。

ミルカは低く言う。

「完全には消せない。けど、軍の痕跡にはしない」

ロアンが聞く。

「軍の痕跡?」

「足跡の列。荷物の跡。焚火の灰。車輪。馬の糞。折れた枝の数。そういうもの」

ガルドが自分の足元を見る。

「俺たちの跡は?」

「獣か、猟師か、はぐれ兵か、分からないくらいには薄くしたい」

エナが言う。

「分からないなら、報告されてもすぐには動かない?」

ミルカは頷く。

「たぶん。あの要塞が見るべきものは多すぎる」

ロアンは足元の小石を直した。

直したというより、目立ちにくい場所へ寄せた。

「これは意味ある?」

ミルカが見る。

「少しは」

「少し」

「少しの積み重ね」

ガルドが言う。

「俺も小石を戻すか」

「大きな石を動かすと、逆に目立つ」

「難しいな」

エナがガルドの外套の裾を直した。

「ここ、岩に引っかかって糸が出ています」

ミルカがすぐに切る。

「残すと目印になる」

ガルドは外套を見る。

「外套も怪我をするのか」

ロアンが答えた。

「してる」

「手当ては?」

エナが少し笑った。

「縫います。あとで」

ミルカが言う。

「今は切るだけ」

ガルドは頷いた。

「外套も戻れるといいな」

ロアンは思った。

ロアンたちはいつの間にか、物にも戻る場所を考えるようになっている。

鍋も外套も。

もちろん、人が先だ。

だが、そういう小さな会話が、今の自分たちを保っている気がした。

痕跡を消しながら、進む。

目立たないように。

意味を持たせないように。

空の目に、ただの小さな乱れとして処理されるように。

見つかりかける

昼過ぎ、雲が急に切れた。

谷が開ける。

天空要塞から見下ろされる位置に出てしまう。

ミルカが息を呑む。

「まずい」

鳥型魔物が一羽、こちらの谷へ向かってきていた。

岩陰は少し先にある。

走れば、足音と落石が出る。

止まれば、見つかるかもしれない。

エナが小さく言った。

「走らないで」

ロアンは全員に手で合図した。

その場で、岩と同じ姿勢になる。

灰色の外套を岩肌に寄せる。

剣の金具を隠す。

顔を伏せる。

息を小さくする。

鳥型魔物の影が、一瞬、四人の上を横切った。

ガルドの手が、剣に伸びかける。

ロアンは首を振った。

斬れば終わりだ。

勝っても終わりだ。

鳥の死骸は残る。

血も残る。

落ちる音も出る。

巡回が戻らなければ、要塞は異常を知る。

鳥はしばらく旋回した。

長い。

ロアンは息を止めすぎないよう、ゆっくり吐いた。

エナは目を閉じている。

ミルカは外套の端を押さえている。

ガルドは、動かない岩になっていた。

やがて鳥型魔物は谷の反対側へ流れていった。

全員が、しばらく動かなかった。

完全に遠ざかったのを待ってから、ロアンが小さく息を吐く。

ガルドが小声で言った。

「戦わないのは、難しいな」

ロアンは答える。

「戦ったら、勝っても負けだ」

ガルドは少し考えた。

「勝っても負け」

ミルカが言う。

「今回の戦いは、そういうもの」

「ややこしい」

「でも、あなたは今できた」

ガルドは少しだけ目を細めた。

「褒められたか」

「褒めた」

「なら、よし」

エナが静かに言った。

「岩になれていました」

ガルドは真面目に頷く。

「動かない岩は難しい」

ロアンは笑いそうになったが、音を出さないようにこらえた。

怖かった。

今もまだ怖い。

だが、見つからなかった。

それが今は、何より大きな勝ちだった。

巡回の隙

夕方。

ミルカは、火鏡塔の光と鳥の巡回、雲の流れを見て、短い隙を見つけた。

「次の雲が来た時に進む。時間は短い」

ロアンが聞く。

「どれくらい?」

「長くて、鐘半分もない」

ガルドが言う。

「短いな」

「でも、そこを過ぎれば要塞の真下から外れる」

エナは目を閉じる。

「急ぎすぎると落ちます。でも、止まりすぎると見られます」

ロアンは頷いた。

「一人ずつ行く。前の人が足場を確かめる。無理なら戻る」

ガルドが聞く。

「戻る場所は?」

ロアンは後ろの岩陰を指差した。

「あそこ。そこまで戻れなければ進まない」

ミルカが頷いた。

「先に戻る場所を決める。いつも通り」

「いつも通りだな」

ガルドは崖の先を見る。

「俺が先でいいか」

ロアンは少し考えた。

「足場を見るなら、ガルドが先。でも、見つかったら止まる」

「斬らない」

「斬らない」

「落とさない」

「落とさない」

「岩になる」

「必要なら」

ミルカが小声で言う。

「確認項目が変」

エナが微笑んだ。

「でも、大事です」

雲が動いた。

要塞の火鏡塔の光が薄れる。

谷が影に入る。

ミルカが言った。

「今」

ガルドが進む。

一歩。

止まる。

足場を確かめる。

次へ。

ロアンが続く。

その後ろにエナ。

最後にミルカ。

風が強い。

外套が引かれる。

岩が小さく崩れる。

ガルドが手で合図する。

「低く」

全員が姿勢を下げる。

鳥の影が遠くを過ぎる。

まだ気づかれていない。

雲が薄くなり始める。

ミルカが小声で言う。

「あと少し」

ロアンは焦りそうになる足を抑えた。

急ぐ。

でも走らない。

進む。

でも落ちない。

戦わない。

見つからない。

戻れる場所を残す。

短い隙を抜け、四人は次の岩陰へ滑り込んだ。

ミルカが空を見る。

「抜けた」

ロアンは息を吐いた。

「今のは、鍋より心臓に悪い」

ミルカが言う。

「鍋は関係ない」

ガルドが真面目に答える。

「鍋なら落ちていた」

「鍋を連れてこなくて正解だった」

エナが小さく笑った。

崩れた橋

西崖道の途中に、古い吊り橋の跡があった。

橋はほとんど落ちている。

残っているのは、片側の鎖と、腐った板が数枚。

下は雲で見えない。

ロアンは足を止めた。

「これは……」

ミルカが即座に言う。

「無理」

ガルドは鎖を見る。

「一人ずつなら渡れるかもしれん」

エナが首を振った。

「その鎖、嫌な感じがします」

ガルドはすぐに手を離した。

「なら駄目だ」

ミルカが少し驚く。

「早い」

「なんとなくは強い」

ロアンは周囲を見た。

橋を直す時間はない。

戻るか。

別の足場を探すか。

要塞の巡回は続いている。

長く止まれば見つかる可能性が上がる。

ガルドが崖の横を見る。

「岩の割れ目を伝えば、向こうへ回れる」

ミルカが顔をしかめた。

「道じゃないわよ」

ガルドが答える。

「橋よりはましだ」

ロアンは割れ目を見る。

細い。

危ない。

でも、橋よりはましに見える。

「橋は使わない。岩を行く」

ミルカは少しだけ息を吐く。

「分かった。落ちそうな石は踏まない。手を掛ける場所も確かめる」

エナが言う。

「私、最後に行きます。落ちそうなところ、見ます」

ロアンは頷いた。

「無理なら戻る」

ガルドが先に進んだ。

岩の割れ目に足を置き、手を掛ける場所を確かめる。

「ここは乗れる」

ロアンが続く。

風が強い。

下を見ない。

手を離さない。

ミルカが慎重に渡る。

足場を見て、低く悪態をついた。

「これを道と言ったら道に失礼」

ガルドが向こうから言う。

「だから道じゃない」

「猟師が正しかった」

最後にエナが渡る。

途中で、彼女は小さな石を避けた。

その石は少し遅れて崩れ、雲の中へ落ちていった。

全員が渡り切った直後、古い吊り橋の鎖が風で鳴った。

きい、と細い音。

次の瞬間、残っていた板の一枚が外れた。

雲の下へ消えていく。

ロアンは息を呑んだ。

もし渡っていれば、途中で切れていたかもしれない。

エナが小さく息を吐く。

「よかった」

ガルドは鎖を見た。

「嫌な感じは強いな」

ミルカが言う。

「採用実績が増えた」

ロアンは頷いた。

「次から、エナが嫌と言った橋は渡らない」

エナは困ったように笑った。

「橋以外も、できれば」

「もちろん」

空の目の外へ

夜明け前。

一行は、天空要塞の主要監視範囲から外れた。

遠くに要塞はまだ見える。

だが、見上げる位置が変わっている。

火鏡塔の光は背後にある。

鳥型魔物の巡回も、別の谷を見ている。

魔王城へ続く外縁山道が、薄い朝霧の中に見えた。

ロアンは立ち止まる。

「抜けた?」

ミルカはすぐには答えなかった。

空を見る。

岩肌を見る。

谷を見る。

要塞の位置を見る。

それから言う。

「まだ安全じゃない。でも、天空要塞を攻めずに越えたのは確か」

ガルドが要塞を振り返る。

「強かったな」

ミルカが言う。

「戦ってないのに?」

「戦ってたら死んでた」

エナが小さくうなずく。

「見つからないようにするだけで、こんなに怖いんですね」

ロアンも要塞を見た。

空の目は、ちゃんと見ていた。

鳥は飛び、火鏡塔は光り、斥候は巡っている。

それでも、四人は通った。

要塞を落としたわけではない。

要塞に勝ったわけでもない。

ただ、意味の外側を通った。

「空の目は、ちゃんと見ていた」

ロアンは言った。

「だから、見られないように通った」

ガルドが頷く。

「倒すより疲れた」

ミルカが答える。

「倒す方が疲れると思う」

「そうか」

「そう」

ガルドは少し考えた。

「では、倒さなくてよかった」

エナが微笑んだ。

「はい」

ロアンは前を見た。

魔王城へ続く外縁山道。

ここから先は、もう各国軍の支援はない。

火山拠点の軍も追いつけない。

天空要塞も背後にある。

前には魔王城。

ロアンは息を吸った。

「行こう」

要塞側の一瞬

天空要塞では、山岳斥候が西崖道の確認をしていた。

風で薄れた足跡。

小さな落石。

岩肌に残ったわずかな擦れ。

獣のものか、人のものか判別しづらい痕跡。

斥候はそれを見つけ、要塞へ戻った。

副官が問う。

「西崖道に異常か」

斥候は答えた。

「何か通った跡があります」

「軍か」

「違います。荷馬も車輪もありません。野営跡も火の跡もない。足跡も列になっていない。獣か、少数人員か……判別できません」

副官は記録板に印を付ける。

「勇者一行の可能性は?」

斥候は少し考えた。

「要塞へ向かった痕跡はありません。西崖道を越えたか、途中で戻ったか、獣が崩したか。魔王城方面へ向かった確証はありません」

「鳥は反応したか」

「一度、谷を旋回しています。しかし追跡行動には移っていません」

副官はしばらく考えた。

天空要塞は、広い範囲を監視している。

主要街道。

北尾根。

東谷。

西崖道。

火山側の移動。

魔王城方面の信号。

見るべきものは多い。

西崖道の小さな痕跡は、異常ではある。

だが、軍の動きではない。

勇者一行とも断定できない。

要塞攻撃の兆候でもない。

副官は言った。

「定期巡回を増やす。緊急信号は?」

斥候は首を振る。

「魔王城方面へ向かった確証はありません」

副官は頷いた。

「記録に残す」

斥候が下がる。

副官は火鏡塔の担当へ定時報告を命じた。

空は異常なし。

その報告は、嘘ではなかった。

少なくとも、空から見える範囲では。

魔王城外縁へ

灰の一団は、魔王城の外縁山道に入った。

ここから先は、もう別の問題だった。

天空要塞を越えたからといって、安全になるわけではない。

魔王城周辺には、外縁警戒がある。

魔物がいる。

見張りがいる。

結界がある。

岩場がある。

狭い道がある。

ロアンは地図を見る。

「ここから先は、別の問題だ」

ミルカが言う。

「転移ゲートはもう壊されている。魔王軍もすぐに大部隊を回せないはず」

「でも、いないわけじゃない」

「もちろん」

エナが前方を見た。

「ここから、嫌な感じが濃くなります」

ガルドが剣を確かめる。

「ようやく届く敵が出るか」

ロアンは静かに言う。

「まだ戦わない。魔王城へ着くまでは」

ガルドは剣から手を離した。

「分かった。届いても、まだ斬らない」

ミルカが言う。

「だいぶ成長した」

「褒められたか」

「褒めた」

「今日は多いな」

エナが小さく笑った。

ロアンは空を振り返った。

天空要塞は、まだ遠くに見える。

無傷だった。

火鏡塔も折れていない。

鳥も飛んでいる。

山岳斥候も動いている。

空の目は、生きている。

それでも、四人はここまで来た。

勇者ではないから。

軍ではないから。

旗も馬も火も持たなかったから。

要塞を倒しに行かなかったから。

ロアンは前を向いた。

魔王城へ。

そこへ行くために、これまで道をつないできた。

海。

森。

火山。

空。

全部を倒したわけではない。

全部を通った。

次は、魔王城だった。

空の目を避けて

天空要塞は落ちなかった。

火鏡塔は折れず、夜目の鴉は飛び、山岳斥候は谷を巡った。

空の目は生きていた。

それは、決して無能ではなかった。

軍が動けば見えた。

旗が立てば見えた。

馬が通れば見えた。

火を焚けば煙が上がった。

野営すれば灰が残った。

勇者一行が天空要塞へ向かえば、きっと見つかった。

過去の勇者は、だから天空要塞を攻略した。

けれど、灰の一団は勇者ではなかった。

軍を通す道を開くために来たのではなかった。

名を残すために砦を落とす必要もなかった。

彼らは、要塞へ向かわなかった。

旗を持たず、馬を使わず、火を焚かず、荷を捨てた。

道とは呼べない崖を進み、雲の下で止まり、鳥の影に息を潜めた。

空の目は、異常を完全に見逃したわけではない。

西崖道に、小さな痕跡は残った。

獣か。

猟師か。

はぐれ兵か。

少数人員か。

それは記録された。

だが、軍ではなかった。

勇者一行とも断定されなかった。

天空要塞は、無傷だった。

だから魔王城には、こう報告される。

空は異常なし。

その報告は、嘘ではなかった。

ただ、空から見えるものだけが、すべてではなかった。

灰の一団は、空の目を避けて進んだ。

そして、魔王城の外縁へ届いた。


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