

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。
(一)一か月後
魔物除け札の件から、一か月が過ぎていた。
山科理人の現地語は、かなりましになっている。
倉庫で袋を数え、ギルドで依頼票を読み、荷運びの男たちと道の状態について話す。
分からない言葉があれば聞き返し、聞いた言葉を木片へ残し、翌日に同じ言葉を使ってみる。
リナやセリアに直されながら毎日繰り返した結果、日常会話で大きく詰まることは少なくなった。
食べ物を頼む。
道を聞く。
作業の順番を確認する。
数や場所を説明する。
ギルドで簡単な報告を読む。
荷運びの記録や依頼票の決まった欄を追う。
その程度なら、もうリナに一つずつ訳してもらわなくても分かる。
もちろん、完全ではない。
言い回しを間違えることはある。
冗談を聞き落とすこともある。
早口の言い争いになると、今でも途中から置いていかれる。
それでも、最初の頃のように、知っている単語だけを拾って状況を推測する段階ではなくなっていた。
だからこそ、理人は分かり始めていた。
この世界の言葉がまったく分からなかった頃の苦しさと、今なお分からない言葉の難しさは、別のものだ。
神殿の言葉は、日常語とは違う。
古い。
言い回しが回りくどい。
主語が落ちる。
一つの言葉に、祈りと慣習と土地の記憶が混ざる。
神官が読み上げれば、厳かで重みのある言葉に聞こえる。
だが、理人から見ると、どこまでが条件で、どこからが結果なのか分かりにくい文でもあった。
それは、理人だけの問題ではない。
リナも神殿の古い言い回しを聞く時には眉を寄せる。
荷運びの男たちは、聞き終えたあとで互いに意味を確かめ合う。
セリアでさえ、神殿から届いた写しには、実務用の言い換えを添えて保管していた。
神殿の言葉は、この世界の人間にとっても簡単ではない。
理人は、そこに少し安心した。
分からないのは、自分がよそ者だからだけではない。
難しいものは、誰にとっても難しい。
ただ、その難しいものが神託と呼ばれると、人は分からないまま受け入れてしまう。
理解できないのは、自分の信心や知識が足りないせいだと思ってしまう。
理人には、その方が気になった。
(二)何者なのか
言葉が通じるようになると、当然、聞かれることも増えた。
どこから来たのか。
なぜ文字が読めなかったのに、数には細かいのか。
なぜ魔法を使えないのに、魔法陣の線を気にするのか。
なぜ神殿の言葉を知らないのに、古い文の並び方に首を傾げるのか。
理人は、何度か真面目に答えた。
別の世界から来た。
元の世界では、倉庫や工場の記録を見て、数のずれや手順の問題を探す仕事をしていた。
おそらく一度死んでいる。
気づいた時には、この世界にいた。
神から力をもらった覚えはない。
魔法も使えない。
たいていは、冗談だと思われた。
荷運びの男などは、腹を抱えて笑った。
「別の世界から来たにしては、ずいぶん地味なことをしてるな」
理人は否定しなかった。
地味なのは事実だった。
伝説の武器を持っているわけではない。
魔物を一撃で倒したこともない。
やったことといえば、袋を数え、紙を並べ、戻らなかった者を調べ、札の線を見比べたくらいだ。
セリアは笑わなかったが、信じたとも言わなかった。
「冗談としては、ずいぶん手が込んでいますね」
「本当のつもりです」
「でしょうね。あなたは、そういう冗談を言う人には見えません」
「では、信じますか」
セリアは少し考えた。
「確認できないことを、信じるとは言いません」
理人はうなずいた。
その答えは嫌いではない。
セリアは続ける。
「ただ、嘘にしては得がありません」
「俺もそう思います」
「別の世界から来たと言っても、依頼の報酬は増えませんからね」
「むしろ面倒な人間だと思われます」
「すでに思われています」
セリアは平然と言った。
理人は少し黙った。
否定できない。
リナは、二人の会話を聞きながら困ったような顔をしていた。
「全部は分からない。でも、理人がふざけて言ってないのは分かる」
「それで十分だ」
「本当だったら、すごく変な話だよ」
「俺もそう思う」
「嘘だったら?」
「それも、かなり変な嘘だな」
リナは少し笑った。
それで、この話はだいたい終わった。
本当でも嘘でも、今日やることは変わらない。
倉庫の数は数える。
札の記録は残す。
依頼票は読む。
雨期が近づけば、川と道の状態を確認する。
理人が何者なのかは、まだ分からない。
だが、理人が何をしてきたのかは残っている。
倉庫の木片。
撤退条件の紙。
戻らなかった者を並べた記録。
魔物除け札の暫定記録。
正体は確認できない。
行動は確認できる。
理人の信用は、本人の説明ではなく、その積み重ねによって少しずつ作られていた。
(三)リナの普通の言葉
リナの話し方も、以前とは少し変わった。
いや、変わったように聞こえるだけかもしれない。
最初の頃、リナは理人に向かって、できるだけ短い言葉を選んでいた。
袋。
馬。
こっち。
違う。
たぶん。
後で見る。
理人が聞き取れるように、言葉を削ってくれていたのだ。
当時の理人は、それがリナの普段の話し方だと思っていた。
だが、荷役獣に話しかける時や、セリアに自分の観察を伝える時、リナはもっと長く、もっと細かく話していた。
どの荷役獣が。
いつから。
何を嫌がり。
どの方向を見て。
その前に何があったのか。
リナは、最初から細かな違いを言葉にできていた。
理人が、それを受け取れなかっただけだ。
この一か月で、理人は少しずつ長い文を追えるようになった。
リナも、それに合わせて普通の速さと表現で話すようになっている。
もちろん、神殿の古い言葉や、細かな祈りの言い回しになると、リナも首を傾げる。
それでも日常の会話なら、もう理人に合わせて言葉を削る必要はなかった。
理人は、そのことに少し遅れて気づいた。
リナの言葉が急に増えたのではない。
自分が、ようやくリナの普通の言葉に追いつき始めただけだった。
「理人、聞いてる?」
理人は顔を上げた。
リナが呆れた顔をしている。
「聞いてる」
「聞いてなかった顔だった」
「考えていた」
「前も、聞いてない時にそう言った」
「今回は本当に考えていた」
リナは疑わしそうな顔をした。
その日、カランタ神殿分院の鐘が鳴った。
いつもの時刻ではない。
長く、間を置いて三度。
リナが窓の外を見る。
「水祓いの神託だ」
雨期の始まりを前に、古い言葉が町へ告げられる日だった。
(四)雨の前
雨の匂いが、町の石畳に残るようになっていた。
朝方は晴れている。
だが、昼を過ぎると雲が厚くなる。
夕方には、遠くの森の上で鈍い雷が鳴った。
まだ本格的な雨期ではない。
それでも、空も、川も、町の人々も、すでに雨を待つ形へ変わり始めていた。
倉庫では麻袋を高い棚へ移す。
厩舎では濡れた飼料を避ける場所を空ける。
屋根職人は、晴れているうちにと呼び止められる。
荷運びの男たちは、川沿いの道を使うか、遠回りして丘側へ回るかで言い合っていた。
「東の道は早い」
「雨が来たら車輪が埋まる」
「まだ降ってないだろ」
「降ってから変えたら遅いんだ」
その横で、ギルドには川沿いの護衛依頼が増えていた。
雨期の前に物を運びたい者が多い。
同時に、雨期の前だからこそ道の状態を気にする者も多い。
そんな日の昼前、神殿分院の鐘が鳴った。
町の広場に、神殿の者が立つ。
白い布を肩にかけた神官が、古い巻物を手にしていた。
その後ろには、若い神殿の者が数人いる。
町の者へ意味を伝える役目なのだろう。
セリアがギルドの入口から広場を見た。
「水祓いの神託ですね」
理人は聞き返す。
「毎年あるんですか」
「雨期の前には。川沿いの村へ祈祷に行く前に、町にも告げます」
「神託を、町全体に?」
「秘めるものではありません。水や雨に関わることですから、荷運びや農家にも知らせます」
「内容は毎年同じですか」
「古い神託は同じです。説明の仕方は、その年の神官によって少し変わりますけど」
リナが横から続ける。
「年寄りの人たちは、毎年聞きに行くよ。荷運びの人たちも一応聞く。川の話だから」
「リナは意味が分かる?」
「全部は分からない。古い言葉が多いから」
セリアも苦笑した。
「私も、写しを読んだだけでは困ることがあります。ギルドでは、荷運び向けの注意だけ別に書いています」
理人は広場の方を見た。
神託。
その言葉には、まだ慣れない。
だが、町の前で読み上げられ、道や荷運びの判断に使われるなら、それは情報でもある。
理人は、リナとともに広場へ向かった。
(五)水祓い神託
神官は、集まった人々を見渡した。
巻物を開く。
周囲のざわめきが少しずつ小さくなった。
神官の声は低く、ゆっくりしている。
日常では使わない古い言い回しが混ざっていた。
理人は、すべてを追うことはできなかった。
だが、一か月前なら音として流れていた言葉の一部が、今は意味を持って耳に残る。
神官は読み上げた。
「遠き水、白き倉に触れ」
遠き水。
白き倉。
「川の子ら、数えられぬまま眠る」
川の子ら。
数えられぬまま。
眠る。
「後なる濁りは、雨とともに来たり」
後なる濁り。
雨とともに来たり。
「呼ばれし村、呼ばれぬまま残る」
呼ばれし村。
呼ばれぬまま残る。
理人は眉を寄せた。
神官の隣に立っていた若い者が、町人にも分かる言葉へ言い換える。
「いずれ川沿いに水の災いが訪れる。水祓いを怠らず、神の守りを求めよ」
町人たちは深くうなずいた。
何人かは胸の前で祈りの形に手を組む。
荷運びの男は、面倒そうに頭をかいた。
「結局、川沿いは気をつけろってことか」
隣の男が答える。
「雨の前は毎年そうだ」
「白い倉って何だ」
「知らん。昔の倉じゃないか」
「川の子って魚か?」
「村の子どもかもしれん」
「眠るって死ぬってことか?」
「縁起でもないこと言うな」
人々は意味を確かめ合う。
誰も、原文を完全に理解しているわけではない。
理人は隣にいるリナを見た。
リナも首を傾げていた。
「分からない?」
「全部は。遠い水は分かる。でも、何が遠いのかは分からない」
「後なる濁りは?」
リナは少し考えた。
「あと。向こう。まだ来てない。そういう感じ」
一つに決まらない。
理人は、もう一度神官の言葉を頭の中で並べ直した。
神殿側の説明は分かりやすい。
いずれ水害が来る。
だから、水祓いをする。
だが、原文にあった言葉は、本当にそれだけだっただろうか。
(六)毎年のこと
神託の読み上げが終わると、人々は少しずつ散っていった。
「今年も水祓いか」
「川沿いは大変だな」
「雨が増える前に荷を動かすか」
「白い倉って、どこのことだ」
「毎年似たようなことを言ってるだろ」
誰も大きく騒がない。
恐れていないわけではない。
ただ、慣れている。
雨期の前に神殿が神託を読み、水祓いを行う。
川沿いの村へ神官が向かう。
荷運びは道を変える。
農家は水路を見る。
それは、町にとって季節の流れの一部だった。
神殿側も、ただ古い言葉を読み上げて終わるわけではない。
祈祷の準備をする。
村へ向かう者を決める。
水路の掃除を呼びかける。
川沿いの者へ注意を促す。
悪意があるわけではない。
神託を利用して人を怖がらせたいわけでもない。
毎年行ってきた務めを、今年も果たそうとしている。
だからこそ、読み方は固定されていた。
古くから未来の水害を警告する神託。
そう読まれてきた。
今年だけ別の意味を考える理由は、神殿側にはない。
セリアが理人の横へ来た。
「気になりますか」
「分かりません。ただ、いくつかの言葉が引っかかります」
「神託の言葉ですか」
「神殿の説明の方もです」
セリアは少し考えた。
「写しなら、分院からギルドにも来ます。荷運びや護衛依頼に関係する部分だけですが」
「見せてもらえますか」
「確認してみます」
理人はうなずいた。
聞いただけでは足りない。
似た言葉なのか。
同じ言葉なのか。
どこにかかっているのか。
文字で見なければ追えない。
理人は広場の端へ移動し、木片を取り出した。
(七)未来なのか
理人は、聞き取れた言葉を木片へ書いた。
遠き水。
白き倉。
川の子ら。
数えられぬまま。
眠る。
後なる濁り。
雨とともに来たり。
呼ばれし村。
呼ばれぬまま残る。
そして、神殿の若い者が使った言葉。
いずれ。
後に。
来たる。
理人は、その三つへ線を引いた。
未来を示す言葉。
そう聞こえる。
いずれ災いが来る。
後に水が濁る。
来たる雨に備える。
それなら、神殿の説明は自然だった。
だが、本当に未来だけなのか。
理人は、言葉を覚え始めた頃のことを思い出した。
同じ過去でも、言い方が違った。
近い過去。
遠い過去。
自分が見た過去。
誰かから聞いた過去。
触れたくない過去。
時間だけではなく、話している者からの距離が混ざっていた。
なら、未来も同じではないのか。
近い未来。
遠い未来。
予定されている未来。
起こるか分からない未来。
自分から見えていないもの。
人がまだ確認していないもの。
情報が届いていない場所。
それらが、一つの「これから」にまとめられている可能性がある。
理人は、木片の端に書いた。
未来?
その横に、もう一つ書く。
遠い?
さらに、その横へ小さく足した。
未到達?
リナが横からのぞき込んだ。
「未到達って?」
「まだ届いていないこと」
「何が?」
「それを考えている」
「分かってないんだ」
「分かっていたら、疑問の印はつけない」
リナは納得したようにうなずいた。
「じゃあ、後で確認だね」
「そうだ」
理人は、木片に丸い印を置いた。
(八)三つの文
夕方、セリアがギルドの奥から薄い紙を持ってきた。
「分院から届いた写しです。荷運びと護衛依頼に関係する部分だけですが」
理人は受け取った。
紙には、三つの文が並んでいる。
古い神託文。
神殿側の言い換え。
ギルドで使う実務上の注意。
古い神託文は、理人にはまだ難しい。
だが、神殿側の言い換えなら読める。
そこには、次のような意味が書かれていた。
後に水は濁る。
いずれ川沿いの村に災いが訪れる。
来たる雨に備え、白き倉を守れ。
呼ばれし村にも祈りを忘れるな。
さらに実務上の注意として、川沿いの道、荷物の防水、増水時の迂回について書かれている。
理人はしばらく黙って紙を見た。
原文。
神殿の解釈。
実務への置き換え。
伝わる間に、意味が少しずつ絞られている。
古い文の「遠き水」は、「いずれ来る水の災い」になった。
「後なる濁り」は、「後に水は濁る」になった。
「雨とともに来たり」は、「来たる雨に備えよ」になった。
分かりやすい。
だが、分かりやすくした分だけ、別の読み方が消えている。
理人は「後に」「いずれ」「来たる」へ印をつけた。
セリアが見て尋ねる。
「そこですか」
「はい。未来の警告として読めるのは分かります。でも、この三つが本当に同じ種類の未来なのか気になります」
「同じではない?」
「原文では、かかっているものが違います」
理人は順番に指した。
水。
濁り。
雨。
村。
「全部を未来の災いにまとめていいのか、まだ判断できません」
セリアは神託文を見た。
「古い神殿語の細かな違いは、私にも分かりません」
「リナはどう思う?」
理人が聞くと、リナは古い文をじっと見た。
読める部分を、口の中で小さく繰り返している。
(九)遠い感じ
リナは、神託文の一語を指した。
「この言葉、明日とか次の雨とか、そういう意味だけじゃないと思う」
理人は顔を上げる。
「未来だけではない?」
「うん。未来も入ると思う。でも、それだけじゃない」
リナは少し考えた。
言葉を探す時の顔だった。
「遠い、に近い気がする」
「場所が遠い?」
セリアが尋ねる。
「場所も。まだ来てないものも遠い。見えてないところも遠い。聞いてない話も遠い」
「聞いていない話?」
「誰かは知ってる。でも、こっちまで来てない。そういう時も、この感じに近い」
理人は、木片の「遠い?」の横に線を引いた。
まだ聞いていない話も遠い。
情報が届いていない。
確認する者の手が届いていない。
話している場所から見えない。
それは、時間の未来とも、空間の遠方ともつながっている。
「神殿では未来の言葉として使うことが多いんですか」
セリアは写しを見ながら答えた。
「少なくとも、この神託ではそう教わります」
「日常では?」
リナが答える。
「ずっと先の予定にも使う。でも、遠い村の話にも使うことがある。あと、まだ誰も見ていない場所とか」
「同じ言葉で?」
「まったく同じじゃないよ。後ろの言葉で少し変わる。でも、似てる」
理人は神殿側の「いずれ」へ印を重ねた。
「未来と訳すと、少し狭いのかもしれない」
「狭い?」
「未来と読めば、来るのを待つことになる」
理人は次に、木片の「遠い」を指した。
「遠いと読めば、場所を探すことになる」
さらに「未到達」を指す。
「まだ届いていないと読めば、情報を確認することになる」
リナがうなずいた。
「うん。その方が近い気がする」
セリアは難しい顔で紙を見た。
「同じ言葉でも、読み方によって行動が変わりますね」
理人はうなずいた。
そこが問題だった。
(十)かもしれない
理人は、神殿側の訳に並ぶ言葉を見ていた。
いずれ。
後に。
来たる。
どれも未来に見える。
だが、未来だけとは限らない。
理人は、自分の言葉へ置き換えて考えた。
もしかしたら、明日、雨が降るかもしれない。
これは未来の話だ。
まだ起きていない。
だから確定していない。
もしかしたら、ここから見えない場所で、もう何かが起きているかもしれない。
これは未来の話ではない。
すでに起きている可能性がある。
ただ、ここからは見えていない。
だから確定していない。
もしかしたら、どこかからの知らせが、まだ町に届いていないだけかもしれない。
これも未来の話ではない。
知らせるべき何かは、すでに存在している可能性がある。
ただ、まだ届いていない。
だから確定していない。
時間は違う。
一つ目は未来。
二つ目は、今すでに起きているかもしれない遠方の出来事。
三つ目は、今すでに存在しているかもしれない情報の未到達。
だが、日本語ならすべて「かもしれない」で表せる。
話している本人から見れば、同じ位置にあるからだ。
まだ確定していない。
まだ手が届いていない。
まだ自分の中に入ってきていない。
理人は神託文の語をもう一度見た。
神殿は未来として訳している。
それは間違いではないのかもしれない。
未来は、話している者にまだ届いていない。
だが、その言葉が示すものは、未来そのものではなく、話者から見てまだ届いていない領域なのではないか。
時間的に遠い。
空間的に遠い。
確認から遠い。
情報の到達から遠い。
そのすべてが、似た言葉の中に押し込まれている。
理人は木片に書いた。
未来、ではなく。
遠い。
さらに、その横へ書き足す。
未到達。
セリアがそれを見て首を傾げる。
「未来ではなく、未到達?」
「そうかもしれません。未来だから届いていないこともある。場所が遠いから届いていないこともある。まだ誰も見ていないから届いていないこともある」
リナが神託文を見ながら言った。
「全部、まだ手の中にない、って感じかな」
理人はリナを見た。
「その言い方が近いと思う」
未来の出来事は、まだ手の中にない。
見えない場所の出来事も、まだ手の中にない。
今すでに存在している情報でさえ、届いていなければ手の中にはない。
神託が言っているのは、未来を待てということではないのかもしれない。
まだ届いていないものを探せ。
そういう警告である可能性もある。
(十一)未来形ではなく
理人は、写しの横に三つの欄を作った。
神殿側の訳。
言葉から受ける感覚。
別の可能性。
最初の語。
神殿側の訳では、いずれ。
理人は、その横へ未来と書きかけた。
だが、手を止めた。
未来では、少し雑だ。
リナが言った遠いを書く。
その横へ、さらに小さく足す。
未確認。
未到達。
次の語。
後に。
理人はまた止まった。
後。
時間の後ろ。
だが、古い文の中では、その語は濁りにかかっている。
後なる濁り。
濁りが、後にある。
それは、未来に発生する濁りなのか。
遠い上流から遅れて届く濁りなのか。
雨の後に観測される濁りなのか。
すでに存在するが、今いる場所では確認されていない濁りなのか。
次の語。
来たり。
神殿側では、これから訪れるものとして訳されている。
だが、どこかからこちらへ到達するという意味なら、時間だけの話ではない。
水が流れて来る。
濁りが川を下って来る。
知らせが町へ来る。
人が村から来る。
来るという言葉には、移動と到達が含まれる。
理人は木片へ書いた。
未来形ではなく、遠いということ。
セリアが、その文字を声に出して読んだ。
「遠い、ですか」
「まだ仮説です。未来の話として読めるのは分かります。でも、未来だけとは限りません」
「遠い場所や、届いていない情報も含んでいるかもしれない」
「はい」
理人は神託の写しを指した。
「そう読めば、来るのを待つだけではなく、確認するという行動に変わります」
セリアは紙を見た。
「水祓いを否定する話ではないんですね」
「否定する理由はありません。祈祷にも、水路の確認にも意味があるかもしれない」
「ただ、待つだけでは足りないかもしれない」
「そうです」
神託が未来の水害を警告しているなら、備える。
遠い場所の異常を示しているなら、見に行く。
情報の未到達を示しているなら、記録を集める。
どれも水祓いをやめる理由にはならない。
むしろ、何を確認すべきかが増える。
(十二)過去なのに残る
理人は、神託の最後の一節へ目を戻した。
呼ばれし村、呼ばれぬまま残る。
そこだけ、別の引っかかり方をしている。
呼ばれし。
これは、過去側の言い方に見える。
昔、呼ばれた。
昔、名を持っていた。
昔、何かの対象として扱われた。
そう聞こえる。
だが、その後に続く言葉は違う。
残る。
残っている。
今もある。
消えた村の話ではない。
完全に過去の中へ置かれたものでもない。
理人は三つの部分へ線を引いた。
呼ばれし。
呼ばれぬまま。
残る。
過去と現在が、一つの短い文の中に並んでいる。
「ここは、未来ではありませんね」
理人が言うと、セリアがのぞき込んだ。
「古くからある村にも、祈りを忘れるなという意味では?」
「そう読めます」
「違うんですか」
「分かりません」
理人は首を横に振った。
「ただ、過去側の言い方なのに、今も残っていると言っているのが気になります」
リナが古い文を見た。
「昔のものなのに、今もあるってこと?」
「おそらく、そこが変なんだ」
呼ばれし村。
一度は呼ばれた村。
だが、呼ばれぬまま残る。
呼ばれていたのか。
呼ばれなくなったのか。
誰から呼ばれたのか。
何の対象として呼ばれたのか。
理人は、そこから先を考えるのを止めた。
今ある情報だけで意味を決めるには早すぎる。
理人は、その表現を対応表へはまだ入れなかった。
代わりに、木片の端へ小さく書く。
過去?
その下へ、もう一つ。
残存?
書いてから首を傾げた。
まだ、言葉が合っていない。
それでも、次に見るべき箇所ではある。
過去側の言い方。
今も残っているもの。
その不一致だけを残した。
(十三)神託を書き換える
写しを届けに来ていた神殿の若い者が、理人の木片を見て顔をしかめた。
「神託を勝手に書き換えているのですか」
理人は首を横に振った。
「書き換えてはいません。言葉の意味を分けています」
「神託は、古くから未来の警告として読まれています」
「それを否定しているわけではありません」
「では、なぜ未来ではないなどと書くのです」
理人は木片を指した。
「未来だけではない可能性があるからです」
若い神殿の者の表情が硬くなる。
「神託には、正しい読み方があります」
「その読み方で備えることを否定していません」
「なら、余計な読み方を増やす必要はないでしょう」
理人は少し考えた。
相手の言い分にも理由がある。
一つの神託にいくつもの解釈を出せば、町の者は混乱する。
水祓いをしなくてよいと受け取る者が出るかもしれない。
都合のよい意味だけを選ぶ者も出る。
だから、神殿は読み方を固定しているのかもしれない。
それでも、理人は写しを指した。
「未来の予言として読めば、来るのを待ちます」
若い者は眉を寄せた。
「備えるのです」
「はい。備えて待ちます」
理人は、木片の遠いという文字を指した。
「遠い場所の異常なら、探しに行きます」
次に、未到達という文字を指す。
「まだ届いていない情報なら、確認します」
「それが神託の意味だという証拠はありません」
「ありません」
理人はうなずいた。
「だから、まだ町には言いません」
若い神殿の者は少しだけ言葉に詰まった。
理人は続ける。
「どれが正しいかは分かりません。でも、読み方によって行動が変わります」
神殿の若い者は、困ったように黙った。
その場で否定しきれるほど、理人の言葉は強くない。
だが、受け入れるには神託に近すぎる。
「分院へ余計な混乱を持ち込まないでください」
彼はそう言って、写しの控えをまとめた。
理人はうなずいた。
「まだ持ち込みません」
まだ。
今は、分からない箇所を分けるだけだ。
(十四)何をしろという文なのか
神殿の若い者が去ったあと、セリアが小さく息を吐いた。
「危ないですよ。神託の解釈に口を出すのは」
「分かっています」
理人は答えた。
「神託が間違っていると言いたいわけではありません」
「では、何がしたいんですか」
「何をしろと言っている文なのか、分けたいんです」
理人は木片を指した。
「未来の災いなら、備える」
次に遠いという文字を指す。
「遠い場所の危険なら、探す」
未到達という文字。
「まだ確認されていない異常なら、確認する」
リナが言った。
「届いていないものを、取りに行くんだね」
「そうだ」
理人はうなずいた。
「神託を否定するんじゃない。神託を、行動につながる形で読む」
セリアは少し考えた。
「神殿からすれば、祈ることも行動です」
「はい。それも外しません」
「祈祷が無駄だと言うつもりはない?」
「ありません」
理人には、祈祷の効果は分からない。
だが、祈祷のために村を訪れるなら、それは状況確認にもなる。
水路を見る。
川の濁りを見る。
村人の話を聞く。
訪問記録が残る。
祈りと確認は、必ずしも反対ではない。
問題は、神託を未来の話だけにしてしまい、まだ見えていない現在を探さなくなることだった。
セリアは紙を見た。
「これを報告書にするなら、かなり言い方を選ばないと駄目ですね」
「まだ報告書にはしません」
「では?」
「まず、対応表を作ります」
セリアは苦笑した。
「あなた、本当に何でも表にしますね」
「表にすると、どこが分からないか分かります」
それは理人にとって、ほとんど祈りに近い言葉だった。
(十五)仮対応表
理人は木片では足りないと判断し、セリアに紙を頼んだ。
セリアは渋い顔をする。
「紙は安くないんですけど」
「価値を出します」
「先に言うようになりましたね」
「この一か月で学びました」
「誰にですか」
「主にセリアに」
セリアはため息をつきながらも、紙を机へ置いた。
理人は神託の写しを横に並べ、上部へ題を書く。
神託文中の未来・距離表現に関する仮対応表。
その下へ、項目を作った。
神託文の語。神殿側の訳。現地で受ける感覚。理人の仮説。距離の種類。
時間的な遠さか。空間的な遠さか。情報の未到達か。次に見るもの。
一つ目の語。遠き水。
神殿側の訳は、いずれ来る水の災い。
リナの感覚は、遠い。まだ届いていない。
理人の仮説は、離れた場所、未確認の場所、またはまだ届いていない水の異常。
距離の種類。時間。空間。情報の未到達。どれかは未確定。
次に見るもの。川の濁りの記録。雨の後の荷運び報告。上流と下流の水の違い。
二つ目の語。後なる濁り。
神殿側の訳は、後に来る災い。
リナの感覚は、後ろから来る。遅れて届く。
理人の仮説は、雨の後に届く濁り、または今いる場所にはまだ届いていない異常。
距離の種類。時間。川の流れ。確認不足。
次に見るもの。川沿いの報告。雨後の道の状態。荷車の遅延記録。水を使う倉庫の記録。
三つ目の語。雨とともに来たり。
神殿側の訳は、来たる雨に備えよ。
リナの感覚は、向こうから近づく。ただし、時だけではない。
理人の仮説は、雨期そのもの、または雨によって運ばれてくる外部要因。
距離の種類。時間。外部からの移動。到達。
次に見るもの。雨期前後の川の変化。過去の水祓い記録。雨の前後で増えた依頼。
四つ目の語。呼ばれし村。
神殿側の訳は、古くからある村。
リナの感覚は、昔の言い方。ただし、今も残っている。
理人の仮説。過去側の表現と、現在の残存状態が一致していない。
距離の種類。分類保留。
次に見るもの。水祓い対象の台帳。神殿の訪問記録。村の名称と古い名称。
五つ目の語。呼ばれぬまま残る。
神殿側の訳は、祈りを忘れるな。
リナの感覚は、呼ばれていない。でも残っている。
理人の仮説。何らかの対象から外れたまま、存在している可能性。
ただし、何の対象かは不明。
距離の種類。分類保留。
次に見るもの。水祓いの巡回記録。神殿からの訪問頻度。ギルド依頼の発生頻度。荷運びの往来。近隣の村との交流。
セリアは、理人の書いた表を見ながら、だんだん真顔になっていった。
「これ、神託の解釈というより、調査票ですね」
「その方が使えます」
「神官が聞いたら怒りますよ」
「すでに一人怒らせました」
「胸を張るところではありません」
理人は表へ目を戻した。
「神託が当たるかどうかを決めたいわけではありません」
「では?」
「次に何を見るかを決めたいんです」
リナが表を見て、小さく言った。
「未来じゃなくて、遠いものを見る」
理人はうなずいた。
「そうだ」
リナは最後の二行を指した。
「こっちは、まだ分からないね」
「まだ分からない」
「過去なのに、残ってる」
「そう見える」
「誰に呼ばれてたのかも分からない」
理人は手を止めた。
そこも重要だった。
村の名前を呼ぶことなのか。
祈祷の対象として呼ぶことなのか。
助けを求めて呼ぶことなのか。
台帳に載せることなのか。
まだ、何も決められない。
理人は、その二行へ分類保留と書いた。
分からないものを、分かった形にしない。
そのための表でもあった。
(十六)次に見るもの
夜になっても、雨は降らなかった。
ただ、雲は低いままだった。
理人は完成した仮対応表を眺めている。
未来。
遠い。
未確認。
未到達。
見えていない場所。
雨の後。
呼ばれし村。
呼ばれぬまま残る。
同じ神託の中で、いくつもの距離が重なっていた。
未来は、まだ手が届かない時間。
遠方は、まだ手が届かない場所。
未確認は、まだ手が届かない情報。
では、過去側の言い方と、今も残っているという言葉が並ぶ時は、何を示しているのか。
それは、まだ分からない。
理人は表の最後に、次に見るものを書き足した。
川の濁りの記録。
雨後の荷運び報告。
水祓いの巡回記録。
神殿から村への訪問頻度。
ギルド依頼の発生頻度。
村との交流記録。
村の古い呼び名。
セリアがそれを見た。
「明日、台帳を見ますか」
「お願いします。神殿の記録が難しければ、ギルド側からで構いません」
「神殿の台帳を見せてもらえるかは分かりませんよ」
「まず、何があるか確認します」
「それを言い出すと、また項目が増えそうですね」
「増えると思います」
リナが神託の写しをもう一度見た。
「遠い水は、まだ届いていないもの」
「おそらく」
「後なる濁りは、遠くから遅れて来るかもしれない」
「その可能性がある」
「呼ばれし村は?」
理人は少し考えた。
「まだ分からない」
「だから、見るんだね」
理人はうなずいた。
「だから、見る」
未来は、まだ来ていないもの。
理人は、そう思っていた。
だが、この世界の言葉では、未来と遠さと未到達が、同じ顔をしていることがある。
理人は紙の端を押さえた。
神託は、本当に未来を告げる予言なのかもしれない。
だが、少なくとも一つだけ分かった。
予言として待つ前に、遠いものを探すことはできる。
まだ届いていないものを確認することもできる。
意味の分からない言葉を、分からないままありがたいものとして片づける前に、次に見るべき記録を決めることはできる。
理人は表の余白へ、小さく印を置いた。
後で確認。
それはもう、保留するためだけの印ではなかった。
次に進むための印になっていた。
(十七)ログ
ログ
距離表現:検出
未来解釈:未収束
過去参照:保留
注記:
到達範囲の再照合を要求。
非正規転生 ~転生したけど最弱スキルすらもらってない~ TOPへ

自サイト版では人物紹介・用語集・設定資料などをまとめていますが、
”カクヨム”、”小説家になろう”ではフォロー、応援、レビュー、コメントなどができます。
気に入っていただけた方は、”カクヨム”、”小説家になろう”でも応援していただけると嬉しいです。
カクヨム版はこちら:
https://kakuyomu.jp/works/11054822662040847112
小説家になろう版はこちら:
https://ncode.syosetu.com/n6829ms/


コメント