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(一)使うための旅装
中央神殿へ向かう前日の夕方、セリアは理人を冒険者ギルドの奥へ呼んだ。
いつも書類を広げている机の上に、畳まれた服が並んでいる。
白い長衣。
濃い灰色の上衣。
茶色の外套。
濃紺のスカーフ。
腰へ下げる革の道具袋。
記録具を入れるための小さなポーチ。
そして、底の厚い丈夫な靴。
理人は机の前で足を止めた。
「これは?」
「旅装です」
セリアは簡潔に答えた。
「中央神殿へ行くなら、今の格好では困ります」
理人は自分の服を見下ろした。
灰境地帯を歩いた。
倉庫で荷を運んだ。
泥のついた札を並べた。
川沿いの道を歩き、白倉村では濁った水の近くに膝をついた。
繕った跡も増えている。
町の中で生活するには問題ない。
だが、王都の中央神殿へ入る者の服には見えないのだろう。
「借り物ですか」
「一部は」
「一部」
「全部を借り物にすると、返すために汚さないよう気をつけるでしょう」
「当然では?」
「あなたの場合は困ります」
セリアは真顔で言った。
「川を見れば屈む。床に線があれば膝をつく。埃を払う前に書き始める。壁の染みを見つければ袖で触る」
横にいたリナが小さく笑った。
「全部やってる」
「否定しにくいな」
理人は茶色の外套を手に取った。
布は厚い。
ただし、重すぎない。
肩を動かしても邪魔にならないように作られている。
裾も、長すぎて泥を引きずることはなさそうだった。
濃紺のスカーフは落ち着いた色で、神官の白い服とも、冒険者の装備とも違って見える。
「剣士には見えません」
セリアが言う。
「それは助かります」
「神官にも見えません」
「実際、神官ではありません」
「でも、記録帳を持って神官長に同行する人間には見えます」
理人は外套から顔を上げた。
「それは何という職業ですか」
「今から、そういう人間に見せるんです」
「職業ではないんですね」
「あなたに正式な肩書きがないのが悪いんです」
(二)肩書きのない同行者
それを言われると、返す言葉がない。
この世界へ来た時、理人には身分を示すものが何もなかった。
名前を証明するものもない。
どこで生まれたのかを示す記録もない。
仕事の履歴もない。
神殿の所属証も、ギルドの冒険者証もない。
今も、正式な立場ができたわけではなかった。
ただ、神官長が同行を求めた。
セリアが提出者となった報告書が中央まで届いた。
その積み重ねによって、中央神殿の門を通れる位置まで来ただけだ。
中身が同じでも、入口では見た目が判断材料になる。
理人はそれを理不尽だと思う。
同時に、現実的だとも思った。
「着てみてください」
セリアに促され、理人は白い長衣へ袖を通した。
その上に灰色の上衣を重ね、スカーフを巻く。
外套を羽織り、腰にポーチをつける。
リナが一歩下がり、全身を見る。
「知らない人みたい」
「そんなに変か」
「変じゃない。ちゃんとしてる」
「普段は、ちゃんとしていないのか」
リナは答えなかった。
セリアも目をそらした。
「そこで黙られると困るんですが」
「中央神殿の中で、身元の怪しいよそ者には見えなくなりました」
セリアは言った。
「そこは認めます」
「では、今は何に見えますか」
セリアは少し考えた。
「神官長に同行する記録係です」
「付き添いですね」
「外から来た調査役にも見えます」
「正式な役ではないですよね」
「見た目の話です」
リナが言う。
「理人は理人に見えるよ」
「それが一番助かる」
理人が外套を脱ごうとすると、セリアが止めた。
(三)防水のノート
「まだあります」
机の下から、細長い包みを取り出す。
服よりも慎重に扱っていた。
布を開くと、革で覆われた小さなノートが現れた。
表紙には簡素な留め具がついている。
理人が手に取る。
紙の端に、ごく細い線が走っていた。
模様にしては規則的だ。
触れると、わずかに冷たい。
「防水の魔法がかかっています」
セリアが言った。
理人はすぐに、ノートを机へ戻そうとした。
「高いでしょう」
「高いです」
答えは早かった。
「なら、受け取れません」
「受け取ってください」
「セリアさん」
「紙は貴重です」
セリアは理人の言葉を遮った。
「防水魔法がかかっていれば、さらに高くなります」
「なら、なおさらです」
「だから、あなたに渡します」
理人はノートとセリアを交互に見た。
話がつながっていないように聞こえる。
だが、セリアの表情は真剣だった。
「あなたは、価値にしてくれますから」
「価値に?」
「白倉村の報告書も、書き始めた時はただの紙でした」
セリアは言った。
「でも、神殿を動かしました。水位杭が立ちました。薬草が水に浸かる前に移されました」
「それは俺だけがしたことではありません」
「分かっています」
セリアはうなずいた。
「でも、あなたが記録しなければ、動き始めなかった可能性があります」
リナがノートをのぞき込む。
「水に濡れても平気なの?」
「多少の雨や湿気なら」
「川に落としたら?」
「拾うまでの時間によります」
セリアが答える。
「試さないでください」
「俺も試すつもりはない」
(四)価値にする紙
理人は紙の端にある細い魔法印を見た。
雨。
川辺。
地下の湿気。
古い記録の写し。
使い道はいくらでも思いつく。
使い道が多いからこそ、高価なものを消費することになる。
それが受け取りにくかった。
「私が保管しておいても、ただの高いノートです」
セリアは言った。
「あなたが使いたいように使った方が、結果的に一番いい気がするんです」
「使えば、なくなります」
「紙は使うためのものです」
「ギルドの受付としては、ずいぶん思い切った発言ですね」
「誰に使わせるかは選びます」
セリアはノートを取り、もう一度理人の手へ載せた。
「負担には思わないでください」
「無理があります」
「では、投資だと思ってください」
「投資」
「返済は、価値のある記録でお願いします」
理人は少し笑った。
「それが一番重いかもしれません」
「あなたなら大丈夫です」
セリアは、いつもの落ち着いた顔で言った。
少しだけ間を置く。
「たぶん」
リナが吹き出した。
「最後に不安を足さないでください」
「断定すると、あなたが嫌がるでしょう」
それは正しかった。
理人はノートを開いた。
まだ何も書かれていない白い紙。
雨に濡れる場所でも使える。
神託が降りる場所でも使えるかもしれない。
祈る者は手を合わせる。
自分は、たぶんノートを開く。
「分かりました」
理人は留め具を閉じた。
「使わせてもらいます」
「使ってください」
セリアは言った。
「きれいなまま残すより、役に立ててください」
(五)出発の朝
翌朝、カランタの門の前に馬車が並んだ。
中央神殿が使う馬車は、装飾こそ控えめだったが、作りは頑丈だった。
雨の多い季節を越えるため、車輪は太い。
幌にも厚い布が使われている。
荷台には、神官たちの荷と保存食が積まれていた。
理人は、セリアが用意した旅装を身につけていた。
白い長衣の上に濃い上衣。
茶色の外套。
濃紺のスカーフ。
腰には記録具を入れたポーチ。
胸元には、防水魔法のかかったノート。
リナは理人を上から下まで眺めた。
「やっぱり、いつもと違う」
「神官には見えないんだろう」
「見えない」
「冒険者にも」
「見えない」
「では、何に見える」
リナは真剣に考えた。
「本を持って、偉い人についていく人」
「だいたい合ってるな」
「職業の名前は?」
「ない」
セリアが横から言った。
「中央神殿へ同行する記録係で十分です」
「また見た目の話ですね」
「入口を通れば、中で何をするかはあなた次第です」
リナも旅支度をしていた。
動きやすい服。
小さな荷物。
道や動物の様子を書き留めるための記録板。
泥を払うための短い棒。
理人は、その荷物を見る。
「本当に行くのか」
リナは眉を寄せた。
「今さら?」
「安全とは言えないと、神官長も言っていた」
「だから行く」
答えは早かった。
「危ないから、残るとはならないのか」
「理人を一人で行かせる方が危ない」
「俺の心配か」
「理人は、見たいものがあると周りを見なくなるから」
セリアがうなずく。
「それはあります」
「二人で確認しないでください」
門の外では、エルネストが出発を待っていた。
中央から来た若い神官と、記録係の神官もいる。
分院長は見送りのために立っていた。
セリアは、理人の胸元にあるノートを指した。
「中央で何か見たら」
「書きます」
「聞いたことも」
「書きます」
「分からなかったことも」
「残します」
「決めつける前に」
「確認します」
セリアは満足したようにうなずいた。
「白倉村の対策は、こちらで追います。連絡係から報告が来たら、神殿分院にも回します」
「お願いします」
理人は頭を下げた。
カランタは、この世界で初めて長く暮らした町だった。
最初は言葉すら通じなかった。
何者かも分からないよそ者だった。
倉庫の隅で眠り、木片と煤で意思を伝えた。
その町で記録を残した。
疑われた。
役に立った。
誰かの名前を守った。
紙が神殿を動かした。
ここを故郷とは、まだ呼べない。
だが、戻る場所ではあった。
(六)書きながら聞く世界
「出発しましょう」
エルネストが言った。
理人とリナは馬車へ乗った。
車輪が動く。
門が遠ざかる。
理人は一度だけ振り返った。
朝の薄い霧の向こうに、カランタの屋根が並んでいる。
中央神殿へ。
神託が降りる場所へ。
馬車は南へ進んだ。
灰境地帯から離れるほど、道は広くなっていく。
荷車の数が増え、道沿いの祠も大きくなる。
村と村の間隔も短い。
理人は新しいノートを開いた。
最初のページに、日付を書く。
出発地。
カランタ。
目的地。
アルウェイン王国王都、中央神殿。
エルネストが向かいの席からそれを見た。
「本当に、まず書くのですね」
「忘れるので」
「多くの者は、旅の始めに祈ります」
「俺は、まだ祈り方を知りません」
エルネストは少しだけ笑った。
「では、書きながら聞いてください」
理人は筆を構えた。
「何をですか」
「あなたがこれから見るものを理解するために、最低限必要なことを」
エルネストは窓の外へ目を向けた。
「この世界を、私たちはアルトレイアと呼びます」
理人は書いた。
世界名。
アルトレイア。
「人間領の中心は、アルウェイン王国。王都は、その中心です」
人間領。
アルウェイン王国。
王都。
「北には北魔領があります。人間側はそう呼びますが、あちらにも暮らしがあります。ただ、人間領より魔力が濃く、魔物も多い」
北魔領。
魔力濃度、高。
魔物、多。
リナが尋ねる。
「魔王がいるところ?」
「ええ」
「魔王が魔物を作ってるの?」
「すべてではありません」
エルネストは答えた。
「魔物には、魔力の乱れから生じるものも多い。魔王は大きな脅威ですが、魔物そのものの原因とは限りません」
理人の筆が止まった。
「それは、神殿の公式な説明ですか」
エルネストはすぐには答えなかった。
「民へ告げる言葉は、もっと単純です」
「魔王が悪い、と」
「その方が、恐怖に名前を与えやすい」
理人はノートに書いた。
魔王。
脅威ではある。
魔物の単一原因ではない。
民向け説明は単純化。
(七)勇者のいない時代
リナが理人の字を見る。
「また難しく書いてる」
「あとで見ても間違えないようにしてる」
「私は、魔王が全部作ってるわけじゃない、でいい?」
「今はそれでいい」
エルネストは理人のノートを見た。
「単純な説明を嫌いますか」
「必要な時もあります」
理人は答えた。
「でも、単純な説明だけを残すと、対策まで単純になります」
魔王を倒せば、すべての魔物が消える。
そう信じれば、魔力の乱れも、土地の変化も、記録の欠落も見なくなる。
原因を一つにまとめると、動きやすい。
間違っていた時には、別の原因が残る。
理人はその横へ線を引いた。
エルネストは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「この世界には、勇者の伝承があります」
しばらくして、エルネストが言った。
「魔王を討ち、邪神を封じ、瘴気を払った者たちです」
「今は、勇者はいないんですか」
「少なくとも、中央神殿が認める勇者はいません」
リナが不安そうに尋ねる。
「魔王がいるのに?」
エルネストは窓の外を見た。
「それも、私が疑問に思っていることの一つです」
理人の筆が止まる。
「伝承どおりなら、魔王が現れれば勇者が必要になる」
「ええ」
「でも、勇者は現れていない」
「ええ」
「なら、今の魔王は勇者が必要な脅威ではないか、勇者が現れる条件が別にある」
エルネストは理人を見る。
「あなたは、すぐ条件に分けるのですね」
「分けないと確認できません」
理人は書いた。
勇者、現在なし。
魔王、存在。
勇者出現条件、不明。
魔王のみが条件ではない可能性。
まだ仮説だった。
線も薄く引く。
「中央神殿には、過去の勇者の名を刻んだ碑文があります」
エルネストが言った。
「あなたには、それも見てもらいます」
「神託が降りる場所の前に?」
「はい」
「なぜです」
「あなたなら、名前を見るかもしれないからです」
理人は意味を測りかねた。
名は読むものだ。
だが、エルネストは見ると言った。
その違いも、ノートの端に残した。
(八)表の神殿
数日後、馬車は王都へ近づいた。
道は石で固められている。
荷車の列が途切れない。
大きな橋の下では、荷を積んだ船が行き交っていた。
整った文字の看板が並び、店先には同じ形の札が掛けられている。
カランタでは一枚ずつ作られていたようなものが、ここでは決められた形で並んでいた。
リナは馬車の窓から身を乗り出すように外を見ている。
「人が多い」
「多いな」
「馬も多い」
「そこを見るのか」
「馬車が多いと、道が傷むでしょ」
理人は少し笑った。
建物より先に、道と動物を見る。
リナらしかった。
やがて、高い城壁が見えた。
さらに、その奥から白い塔が伸びている。
王城よりも高いわけではない。
だが、町のどこからでも見える場所に立っていた。
「あれが中央神殿です」
エルネストが言った。
理人はノートを開いた。
王城。
中央神殿。
政治と信仰の中心。
並立。
エルネストが文字を見て言う。
「よく見ていますね」
「違っていたら直します」
「大きくは違いません」
王都の門では、神官長の馬車だと分かると、ほとんど止められなかった。
理人は自分の服を意識した。
セリアが用意した旅装。
濃紺のスカーフ。
茶色の外套。
腰のポーチ。
以前の服のままなら、神官長の同行者ではなく、荷物に紛れ込んだ者に見えたかもしれない。
信用は、中身だけでは決まらない。
少なくとも入口では、見た目が先に判断される。
それは不愉快だった。
だが、無視できることでもなかった。
中央神殿は、近くで見るとさらに大きかった。
白い石の階段。
高い柱。
磨かれた床。
天井近くの窓から差し込む光。
大きな女神像。
その前には、多くの巡礼者が並んでいる。
病が治るように祈る者。
旅の安全を願う者。
水害除けの札を受け取る者。
亡くした者の名を告げる者。
家族の帰りを待つ者。
中央神殿には、人間領中の不安が集まっていた。
そして、その不安へ祈りという形を与えていた。
リナは小さく言った。
「静かだね」
「人は多いのに」
「みんな、小さい声で話してる」
足音はある。
祈りの声も聞こえる。
衣が擦れる音。
神官の案内。
それでも、全体としては静かだった。
静かであることを求められている場所。
エルネストは白い柱の間を進んだ。
「ここは、表の神殿です」
理人は、その言い方に引っかかった。
「表」
「はい」
エルネストは歩みを止めない。
「まず、勇者碑文を見ましょう」
(九)浮いている名前
勇者碑文は、女神像の脇にあった。
一枚の大きな白い石板。
上部には女神の紋章。
その下に、過去の危機と、世界を救ったとされる者たちの名が刻まれている。
勇者ガレス。
勇者レンシ。
聖女ミサキ。
勇者カスマ。
勇者ハルト。
勇者トーマ。
理人は、三つ目の名で目を止めた。
ミサキ。
意味を考えなくても読める。
現地語の名としてではない。
日本語の名前として、自然に受け取れた。
「……ミサキ」
理人は小さく口にした。
リナが碑文を見上げる。
「知ってる人?」
「違う」
「でも、知ってる名前?」
「俺のいた世界にある名前に近い」
リナも発音する。
「ミサキ」
現地の音で聞けば、少し違っている。
それでも、違いきってはいない。
理人は他の名を見る。
レンシ。
カスマ。
ハルト。
トーマ。
ガレスは、この世界の古い英雄名だと言われれば受け入れられる。
だが、いくつかは音が浮いていた。
アルトレイア。
アルウェイン。
カランタ。
オルメル。
ワルト。
これまで聞いた人名や地名と比べても、碑文の名には違うまとまりがある。
理人は防水ノートを開いた。
勇者碑文名。
ガレス。
レンシ。
ミサキ。
カスマ。
ハルト。
トーマ。
名前の音が浮いている。
現地名ではない可能性。
外来者?
疑問符をつける。
リナがのぞき込む。
「外から来た人?」
「まだ分からない」
理人は答えた。
「でも、ミサキは偶然だと決めるには近すぎる」
エルネストは黙っていた。
肯定しない。
否定もしない。
その沈黙も情報だった。
(十)勇者と言葉
理人は質問を変える。
「勇者とは、神殿ではどう定義されていますか」
エルネストは碑文を見上げた。
「女神の加護を受け、災厄へ立ち向かった者」
「加護とは?」
「聖剣を扱う力。瘴気を払う力。先を読むような戦場の勘。傷を癒やす力」
エルネストは一つずつ挙げる。
「時代によって異なります」
「全員が同じ力を持っていたわけではない」
「はい」
「勇者は、一つの能力の名前ではない」
「神殿の記録では、危機に応じて女神に選ばれ、必要な力を授かった者です」
理人は書いた。
勇者。
女神の加護。
能力、個別差あり。
危機に応じて選定。
神殿記録上の説明。
確認必要。
そこで筆を止める。
「勇者が現れた時、言葉は通じていたんですか」
リナが理人を見る。
「言葉?」
「もし勇者たちも外から来たなら、俺と同じ問題があったはずだ」
袋。
行く。
昨日。
一つの言葉を覚えるだけでも、時間がかかった。
語尾一つで意味が変わった。
同じ形に見える言葉が、状況によって違う意味になった。
外から来た者なら、言葉に苦労しているはずだ。
エルネストは、すぐには答えなかった。
「確かなことは言えません」
「記録がありませんか」
「古い記録は、勇者を称えるために作られたものが多い」
エルネストは答えた。
「苦労や失敗、不自由さは、後の写しで削られやすい」
理人はうなずいた。
現場の痛みは、正式な記録から落ちる。
英雄を称える文書なら、なおさらだ。
「ただ」
エルネストが続ける。
「私が読んだ範囲では、勇者が言葉に苦しんだと分かる記録はありません」
理人の筆が止まる。
言葉に苦しんだ記録がない。
それは、苦しまなかった証明ではない。
記録されなかっただけかもしれない。
後から削られた可能性もある。
それでも、引っかかる。
自分ほど苦労したなら、何か一つくらい残っていてもよい。
奇跡としてでも。
笑い話としてでも。
神殿の補助としてでも。
勇者来訪時、言語不自由の記録なし。
記録欠落の可能性あり。
言語支援の有無、要確認。
理人はそう書いた。
(十一)外から来た者
リナが小さく言う。
「理人とは、違ったのかな」
「まだ分からない」
理人は碑文を見る。
「でも、違った可能性はある」
勇者たちは、外から来たのか。
外から来たとして、なぜ言葉に困らなかったのか。
女神の加護に、言語も含まれていたのか。
ならば、自分にはなぜ与えられなかったのか。
理人は、そこまで考えて筆を止めた。
仮説が先へ進みすぎている。
確認できる材料がない。
ノートには書かず、頭の中にだけ残す。
「あなたには、この名がただの古い名には見えないのですね」
エルネストが尋ねた。
「はい」
理人は答えた。
「少なくとも、俺にはそう見えません」
世界を救った者たちの名。
その中へ、自分のいた世界の音が混ざっている。
自分だけが、外から来た例外とは限らない。
碑文は、英雄を称える石から、過去の来訪者を残した記録へ見え始めていた。
(十二)祈りの奥の記録
勇者碑文を離れると、エルネストは礼拝堂とは別の通路へ向かった。
巡礼者の声が遠ざかる。
白い石の廊下は続いている。
だが、奥へ進むほど装飾が減っていった。
女神を描いた壁画もない。
花を置く台もない。
代わりに、棚が並んでいる。
古い水害の記録。
魔物が増えた年の記録。
飢饉の祈祷記録。
勇者に関する写し。
神託公開文の控え。
各分院へ送った文書の保存束。
理人は歩きながら、一つ一つの背表紙へ目を向けた。
見たい。
止まって開きたい。
どこからでもよいから読みたい。
エルネストは振り返らずに言った。
「後で必要なものは見せます」
「顔に出ていましたか」
「非常に分かりやすい顔でした」
横でリナが笑う。
理人は咳払いをした。
奥へ進むほど、人の数が減った。
祈りの声も聞こえなくなる。
代わりに聞こえるのは、紙をめくる音。
鍵が触れ合う音。
硬い床を踏む靴音。
神殿の奥は、祈りの場所というより、記録を扱う場所だった。
(十三)神託の運用
「神託は、どのように降りるのですか」
理人が尋ねると、エルネストは少し歩みを緩めた。
「祈祷による問いに、古い言葉で応じられます」
「古い言葉」
「今の民が日常で使う言葉とは異なります。神託原文を読むため、神官は古い言葉を学びます」
理人はノートを開いた。
祈祷による問い。
古い言葉による回答。
「声で聞こえるのですか」
「声として聞こえることがあります。石の上へ文字として現れることもあります」
「同じ問いなら、同じ方法で返る?」
「いいえ」
エルネストは首を横に振った。
「声だけの時もあります。文字だけの時もあります。お姿を伴って応じられることもあります」
リナが顔を上げる。
「女神さまが見えるの?」
エルネストは迷わず答えた。
「ええ」
「神官長も見たことがある?」
「お姿を拝したことはあります」
その声には迷いがなかった。
女神が現れることを、エルネストは疑っていない。
その姿を見た。
その言葉を聞いた。
だからこそ信じている。
理人はノートへ書いた。
女神の姿を伴う応答あり。
声、文字、姿。
応答形式に差異。
「姿が現れた時も、古い言葉で話すのですか」
「はい」
「立ち会った神官が、それを記録する」
「原文を残します」
「複数人で意味を確認する」
「はい」
「その後、現在の言葉へ直す」
エルネストは少し間を置いた。
「正確には、神託として公開できる形へ整えます」
理人の筆が止まった。
「原文を、そのまま出すわけではない」
「古い言葉のままでは、多くの者には理解できません」
「意味を補うことも?」
エルネストは、すぐには答えなかった。
「必要だと判断された場合には」
理人はノートへ書いた。
神託原文。
古語。
立会神官が記録。
複数人で解釈を照合。
現在語へ変換。
公開文として整理。
「神託も、運用されるんですね」
理人が言う。
「ええ」
エルネストは静かに答えた。
「神託が正しくても、それを扱うのは人間です」
「読み替える時に、意味が狭くなる」
エルネストは少し間を置いた。
「そして、長く運用されるものは歪みます」
その言葉は、神殿だけを責めたものには聞こえなかった。
神官長自身も、その運用の中にいる。
女神の姿を見た。
古い言葉を聞いた。
それを現在の言葉へ直した。
分院へ送った。
人々が理解できるように、意味をまとめた。
その積み重ねのどこかで、警告が予言へ変わった可能性を疑っている。
(十四)降託の間へ
通路の突き当たりに、古い扉があった。
扉には女神の紋章が刻まれている。
だが、理人には紋章よりも、その周囲に走る細い線の方が気になった。
装飾ではない。
扉の縁を通り、壁へ伸びている。
線の太さが一定だ。
交差する場所には、小さな金属片が埋められている。
何かの接続線のように見える。
エルネストが鍵を取り出した。
石と金属を合わせたような鍵だった。
鍵穴へ差し込む。
回すというより、押し当てる。
扉の線が淡く光った。
リナが理人の袖をつかむ。
「今、光った」
「見えた」
若い神官が息を詰めていた。
中央神殿の者でも、ここから先へ入る機会は少ないらしい。
「ここから先は、中央神殿でも限られた者しか入りません」
エルネストが言った。
「入室記録を」
記録係の神官が紙を取り出した。
降託の間への入室記録。
神官長エルネスト・ワルト、立会い。
山科理人、入室。
リナ、同行。
目的、神託降下設備の確認。
記録係の筆が、そこで止まった。
「備考は」
エルネストが少し考える。
「外部者につき、記録扱い注意」
理人はその言葉を聞いた。
外部者。
今も、それは変わらない。
神官長に同行している。
中央神殿へ入るための旅装を着ている。
ここへ入る記録も作られた。
それでも、神殿の内側の者になったわけではない。
むしろ、外側だから呼ばれた。
記録係がリナを見る。
「リナ殿の所属は」
リナが困った顔をする。
「所属?」
「ギルド職員ではありませんね」
「違う」
「神殿でもない」
「違うよ」
理人が言った。
「照合協力者でお願いします」
記録係が理人を見る。
エルネストがうなずく。
「そのように」
リナ、照合協力。
それが記録された。
エルネストが扉を開ける。
冷たい空気が流れてきた。
地下へ続く階段がある。
地上の白い石ではない。
灰色の石。
ところどころに、細い金属の線が走っている。
灯りは少ない。
だが、完全な暗闇ではなかった。
壁の奥で、淡い光が脈を打つように揺れている。
リナが声を抑えた。
「ここ、神殿っぽくない」
「俺もそう思う」
理人は壁を見る。
魔法陣に似ている。
だが、魔物除け札の線とは違う。
祈りの模様には見えない。
何かを流すための経路。
一つの場所から別の場所へつなぐ線。
途中で分かれ、また合流している。
階段を下りるたび、礼拝堂の空気が遠ざかっていく。
祈りの場所から。
記録の場所へ。
さらに、その下にある場所へ。
(十五)降託の間
階段の先には、広い部屋があった。
天井は高くない。
壁に窓はない。
外の光も届かない。
それでも、部屋は薄く照らされていた。
壁や床を走る線が、ごく弱い光を持っている。
中央には、石の台があった。
祭壇と言われれば、祭壇に見える。
だが、理人はすぐに違和感を覚えた。
祈るための台にしては低い。
捧げ物を置くにしては、表面が細かく区切られすぎている。
石の上には、複数の浅いくぼみがある。
細い線が、そのくぼみから台の縁へ伸びている。
台から床へ。
床から壁へ。
壁から天井へ。
線の交点には、小さな銀色の点が埋められていた。
魔法陣にも似ている。
だが、円を描いて終わってはいない。
入口がある。
出口がある。
分岐がある。
戻る線がある。
閉じている場所と、閉じていない場所がある。
理人は無意識に、防水ノートを開いた。
降託の間。
中央台。
線路状構造。
複数の分岐。
接続点。
壁および床へ接続。
エルネストが言った。
「ここが、神託が降りる場所です」
リナは部屋を見回した。
「ここに、女神さまが現れるの?」
「ええ」
「どこに?」
エルネストは石の台の奥へ視線を向けた。
何も置かれていない空間だった。
壁までは数歩ある。
女神像もない。
絵もない。
「神託を賜る時は、あの場所にお姿を現されます」
リナは空間を見つめた。
「今は、いないね」
「祈祷を行っていませんから」
理人は石の台と、その奥の空間を交互に見た。
女神の姿が現れる。
声が返る。
文字が浮かぶこともある。
それを神官が記録する。
エルネストは、それらを見たことがある。
それでも、この場所の仕組みは分からない。
女神が存在することと、目の前の構造を理解していることは別だった。
理人は石の台へ近づいた。
「触っても?」
若い神官が止めようと一歩出る。
エルネストが手を上げた。
「まだ触れずに」
「分かりました」
「まず、見てください」
(十六)祭壇ではなく端末
理人は台の周囲を歩いた。
表面を上から見る。
側面を見る。
床へ伸びる線を見る。
台の前には、祈る者が膝をつくための場所がない。
供物を置いた跡もない。
香を焚いた焦げ跡もない。
代わりに、手を置くのにちょうどよい浅いくぼみがある。
人間の指へ合わせたような細い溝。
理人はノートへ書く。
手置き状構造。
接触入力の可能性。
魔力入力?
音声入力?
「入力って何?」
リナが尋ねる。
「何かを入れること」
「祈りを入れるの?」
「祈祷が問いなら、そうかもしれない」
理人は石の台を見る。
祈り。
願い。
問い。
要求。
神殿は、女神へ祈りを捧げる。
女神は、その問いへ古い言葉で答える。
それを別の言い方へ置き換えるなら、人間が情報を送る。
何かが受け取る。
答えを返す。
神官は返されたものを記録し、神託として扱う。
祈祷が入力。
神託が出力。
女神の姿も、応答の一部。
そう考えれば、目の前の構造は祭壇よりも理解しやすかった。
「何に見えますか」
エルネストが尋ねた。
理人は答えなかった。
女神を否定するつもりはない。
エルネストが見たものを、見間違いだと決めつける材料もない。
女神は現れる。
言葉を返す。
その前提を置いたままでも、目の前のものが祭壇にしか見えないとは限らない。
理人は、台の上にある線をもう一度追った。
一方向ではない。
返りがある。
受け取るだけの場所ではない。
送ることもできる。
何かを受け取り、何かを返す場所。
「祭壇というより」
理人は言葉を選んだ。
リナが理人を見る。
若い神官が息を詰める。
「端末に見えます」
部屋が静かになった。
エルネストは目を閉じた。
驚いた様子はない。
その言葉を待っていたようだった。
(十七)信じることと理解すること
「やはり、あなたはそう言うのですね」
「神官長は知っていたんですか」
「いいえ」
エルネストは首を横に振る。
「私は、そう疑っていただけです」
「女神の姿を見たのに?」
リナが尋ねた。
エルネストは、ゆっくりうなずいた。
「姿を拝したことと、この場所の仕組みを理解することは別です」
理人はエルネストを見る。
信仰が揺らいでいるのではない。
見たから信じている。
聞いたから、神託を偽物だとは考えていない。
だが、女神が現れる方法と、神託が返される仕組みについては分からない。
信じることと、理解することを分けている。
「何をするための端末かは」
理人が尋ねる。
「分かりません」
「何につながっているかも」
「分かりません」
「それでも、祈祷をすると女神が現れる」
「必ずではありません」
エルネストは答えた。
「応じられないこともあります。姿を現さず、言葉だけを賜ることもあります」
理人はノートへ書いた。
祈祷に対する応答率、不明。
応答形式、複数。
姿。
声。
文字。
複合あり。
神殿は、長い間これを聖域として守ってきた。
使い方を完全に理解していなくても、儀礼を残した。
原文を記録した。
触れてよい者を制限した。
それによって、壊さずに残してきた。
理解していないから無価値なのではない。
理解していないまま維持したことにも価値がある。
理人はノートへ書いた。
中央神殿地下。
降託の間。
祭壇として運用。
祈祷入力。
古語応答。
女神像出現あり。
実態、入出力装置の可能性。
接続先、不明。
起動条件、不明。
神官長が、理人の手元を見る。
「祈りますか」
理人は首を横に振った。
「まだ、何を問うべきか分かりません」
「多くの者は、それでも祈ります」
「俺は、何も分からないまま問いを送るのが怖いです」
「問い」
「願いも、受け取る側から見れば問いか要求かもしれません」
エルネストは、その言葉を考えるように黙った。
理人は石の台から半歩下がろうとした。
(十八)向こうが見つけた
その時だった。
台の縁にある細い線が、淡く光った。
リナが理人の袖をつかむ。
若い神官が息を呑む。
エルネストは動かなかった。
光は、台の端から中央へ走った。
一本。
次に、別の一本。
分かれていた線がつながっていく。
銀色の点が、一つずつ灯る。
床の線へ光が移る。
壁へ上がる。
どこか遠くで、古い水車が回り始めたような低い音が響いた。
理人は反射的にノートを開いた。
「何をしたのですか」
若い神官が震えた声で尋ねる。
「何も」
理人は答えた。
「まだ触っていません」
「祈祷も」
「していません」
エルネストが小さく呟く。
「向こうが、見つけたのです」
理人は台を見る。
何もしていない。
少なくとも、意識して問いを送ってはいない。
それでも、待機していたものが状態を変えた。
近づいたこと。
見たこと。
あるいは、外から来た自分がここにいること。
どれかを検出した。
台の中央に、細い光の線が浮かぶ。
文字のようにも見える。
神託原文に使われる古い文字と似ている。
だが、単語として並んでいるようには見えなかった。
文字の間に、細い線や小さな点が入っている。
エルネストも目を細めていた。
「読めますか」
理人が尋ねる。
「文字の一部は、古い言葉と同じです」
「意味は?」
「この並び方は見たことがありません」
神託の回答ではない。
少なくとも、これまで神官が受け取ってきた形とは違う。
意味が来る前に、理人には感覚だけがあった。
何かを告げているのではない。
答えを返しているのでもない。
こちらへ何かを求めている。
応答を待っている。
理人は新しいページを開いた。
見出しを書く。
降託の間、初期反応。
接触なし。
祈祷なし。
端末側から反応。
古語類似文字。
既存神託とは配列が異なる。
応答要求の可能性。
筆が止まる。
祈るべきか。
問うべきか。
人間の願いを送る場所なのか。
確認の言葉を送る場所なのか。
理人は台に浮かぶ光を見た。
神官たちは手を合わせていた。
リナは、理人の袖を握ったまま台を見ている。
理人だけが、ノートを開いていた。
ログ
降託端末:接触圏内
外部個体照合:開始
監査層応答:微弱
注記:
祈祷入力を伴わない接近を検出。
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