エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第32話 フィオラ

エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第32話 フィオラ エレメンタルクロス ~精霊の剣~
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第32話 フィオラ
エレメンタルクロス ~精霊の剣~
創作実験TOP作品紹介人が扱える精霊に、意志はない。火や光の力として術者に従う、粒子のような存在――それが、この世界の常識だった。白と黒。二種類の精霊を剣の形に固定する少年セトは、忌避される二属性同時使用を隠しながら旅をしていた。ある日、巨…
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第32話 フィオラ エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第32話 フィオラ 人物相関図

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消えない風

 窓から入った風は、すぐには消えなかった。
 机へ戻った報告書の端を一度だけ持ち上げ、開いた窓の方へ向けて揃える。
 次に、ミレナの髪を揺らした。
 栗色の髪が頬へかかる。
 ミレナが手で押さえると、風はその指の間を抜け、セトたちの周囲を一度回った。

「呼んでいるのか」

 セトが窓の外を見る。

「おそらく」

 ネアは銀青色の線を風へ伸ばした。
 線は弾かれない。
 風に乗り、村の外へ続いていく。

「こちらの存在を確かめたうえで、来るように促しています」
「私たちを?」

 ミレナが尋ねる。

「特に、あなたを意識しています」

 風はもう一度ミレナの周囲を回った。
 以前なら、その中にある流れの一本一本まで分かった。
 今のミレナには、ただ少し強い風が吹いているようにしか感じられない。

「行きます」

 ミレナは迷わず言った。

出発する者

「俺たちも行く」

 セトが報告書をまとめる。

「森へ向かう前に、新しいアイオロスの状態を確認しておく必要がある」
「私も行く」

 シアが言う。

「わたしもです。生まれた直後の流れを確認できる機会は多くありません」

 ハルヴェンは地図と報告書を見比べた。

「俺たちは、予定どおりヴァレストへ戻ります」
「見なくていいのか」

 リグが尋ねる。

「見たい気持ちはあります。ただ、ほかの地域では、すでに人が避難を始めています。各国へ方針を伝える方が先です」
「分かった。俺も戻る」

 リグはセトを見る。

「新しい風が話を聞くなら、今の世界を教えてやれ」
「ああ」
「話を聞かなければ?」

 シアが尋ねる。

「その時は、まず被害を止める」
「つまり戦う」
「話をするために止めるんだ」
「分かっている」

 兵たちは報告書を持ち、ハルヴェンたちと村を出た。
 セトたち四人は、残った風を追った。

風の道

 風は、道を外れても途切れなかった。
 草を大きく倒すことも、枝を折ることもない。
 セトたちが進む方角だけ、葉の裏側を見せる。

「ずいぶん加減ができている」

 シアが言った。

「生まれた直後の精霊王とは思えません」

 ネアも周囲の流れを調べ続けていた。

「ほかの次代とは違うのか」
「少なくとも、役割のまま無制限に風を広げようとはしていません」

 ミレナは黙って歩いていた。
 風が曲がる前に、次に進む方向が分かる気がする。
 しかし、実際に分かっているわけではない。
 以前の感覚を覚えているため、風の動きから先を予想しているだけだった。

「知っている道ですか」

 ネアが尋ねる。

「いいえ。でも、知らない気がしません」
「役割の知識は戻っていませんね」
「戻っていません。ただ、前の私は、この風ならこちらへ行くと思った。その考え方だけは覚えています」

 力はない。
 それでも、力を持っていた自分の記憶は残っている。
 その記憶の先から、別の風が呼んでいた。

風が確かめるもの

 途中で、風が何度か止まった。
 セトたちが追いつくと、再び先へ進む。

「急がせてはいない」

 セトが言う。

「来ているか確かめています」

 ネアの線も、風が止まるたびに同じ場所で揺れた。

「私たちが途中で戻らないように?」

 ミレナが尋ねる。

「それもあるでしょう。ただ、別の意図も感じます」
「別の意図?」
「自分の風が、人間を傷つけずに届いているか確認しています」

 風は道の脇を歩いていた小さな獣を避けた。
 干してあった布の近くでは弱まり、誰もいない岩場では少し強くなる。

「生まれたばかりなのに、周りを見ている」

 シアが言った。

「そう見えます。ただ、何を基準に避けているのかまでは分かりません」
「会えば分かる」
「ええ」

 自分たちを呼びながら、その途中にあるものは壊さない。
 少なくとも、その風が無差別に広がっているわけではなかった。

風の精霊殿

 山の斜面を回り込んだ先に、石造りの建物が見えた。
 壁には大きな開口部がいくつもあり、どの方角から吹いた風も、中を通り抜けるように作られている。

「風の精霊殿です」

 ネアが言った。

「知っているのか」
「役割の知識にあります。わたしが来たことはありません」
「私も、来た記憶はありません」

 ミレナが建物を見上げる。
 それでも、入口の向こうに何があるのかを知っているような感覚があった。
 記憶ではない。
 かつて自分の中にあったものが、そこを知っていた痕跡だった。

 風は精霊殿へ入る。
 セトたちも後を追った。
 中央には、天井まで抜けた広い空間があった。
 床には砂や枯れ葉がほとんどない。
 長く使われていなかったはずの場所を、風が少しずつ外へ運んだらしい。

 その奥に、一人の女性が立っている。
 淡い緑色の髪。
 白と淡緑色の軽い衣装。
 背を向けた姿を見て、セトは隣を歩いていたミレナを確認した。

「ミレナが二人いる」

 シアが言った。

同じ顔

 女性が振り返る。
 顔立ちはミレナとほとんど同じだった。
 瞳は銀緑色だった。
 髪の色と服が違う。
 それだけを見れば、風の精霊王となったミレナが、先回りして立っているようにも見える。

 しかし、流れる原光は完全に別のものだった。
 ミレナの中には、もう風の役割はない。
 目の前の女性は、全身が風の役割と結び付いている。

「お待ちしていました」

 声も似ていた。
 同じではない。
 ミレナの声から、迷いや疲れを少しだけ取り除いたような、静かな声だった。

「セトさん。シアさん。ネアさん」

 女性は順に名前を呼ぶ。
 最後に、ミレナを見た。

「ミレナさん」

 わずかな間があった。

「はい」

 ミレナも答える。

「初めまして、でいいんでしょうか」
「はい。わたしは、そう考えています」

 女性はミレナと同じ仕草で、胸元へ手を置いた。

「初めまして、ミレナさん」

生まれた場所

「ここで生まれたのか」

 セトが尋ねる。

「はい」

 女性は中央の床を見る。

「最初に分かったのは、ここが風の精霊殿だということでした」
「来たことを覚えていた?」
「いいえ。これは役割の知識です」

 風がどこから入り、どこへ抜けるか。
 世界の流れを集めず、滞らせず、遠くへ返すための場所であること。
 誰かが説明しなくても、女性は知っていた。

「その次に、村の家を思い出しました」
「ミレナの家か」
「はい。こちらは記憶です」

 知っているのに、今の身体では一度も入ったことがない。
 歩いた道を覚えているのに、今の足では歩いていない。

「それで、自分がミレナさんではないと分かりました。役割の知識と、人間の記憶と、生まれてから見たものが、最初から別々にありましたから」
「それから風を送った?」
「皆さんが近くにいることは分かりました。でも、直接村へ行くのは違うと思ったので、ここへ来てもらいました」

覚えていること

「俺たちを知っているのか」

 セトが尋ねる。

「知っています」

 女性はすぐに答えた。

「セトさんと初めて会った時のことも、シアさんとネアさんと旅をしたことも、眠りの王と戦ったことも覚えています」
「創界の中も?」
「覚えています。風を束ねたことも、役割が身体から離れたことも」

 女性は自分の手を見る。

「その後、わたしはここで生まれました」
「そこまで覚えていて、ミレナではないと分かるのか」

 シアが尋ねた。

「分かります」
「どうして?」
「覚えている身体と、今の身体が違うからです」

 女性はミレナを見る。

「家族の顔も、村の家も、そこで過ごした時間も覚えています。でも、その記憶の中で生きていた身体は、今もミレナさんが持っています」

 自分は、その続きとして目を覚ましたのではない。
 風の役割が世界へ返り、次代の身体を作った後で生まれた。
 記憶は続いている。
 身体も役割も、同じ場所からは続いていなかった。

覚えていない時間

「この一か月のことは?」

 ミレナが尋ねた。

「一か月?」

 女性は初めて、はっきりと戸惑った顔をした。

「眠りの王を倒してから、今日まで一か月あります」
「覚えていません」

 答えた後、女性は目を閉じた。
 記憶を探している。

「創界の中で風の役割が離れたところまでです。その後は、何もありません」
「私は、その後も村で暮らしていました」

 ミレナが言う。

「身体が動くようになるまで休んで、家の仕事へ戻って、今日も布を運んでいました」
「知りません」

 女性はミレナが持っていた籠を見る。
 見覚えのある籠だった。
 しかし、今日そこへ布を入れたことは知らない。

「同じ記憶を持っていても、もう続きは分かれています」

 女性は小さく息を吐いた。

「それが分かって、少し安心しました」

人間の記憶

 ネアは女性の周囲へ銀青色の線を伸ばした。

「身体は、次代の精霊王です。シアやわたしと同じく、原光から新しく構成されています」
「記憶まで戻った理由は?」

 セトが尋ねる。

「断定できません」

 ネアは線の流れを追う。

「風の役割は長い間、人間の血統の中で受け継がれてきました。ミレナの身体では、人間としての存在と役割が重なっていました」
「創界で分けたはずだ」
「分けました。ですから、ミレナは人間へ戻り、この方は自分がミレナではないと理解できています」

 ネアは女性を見る。

「ただ、役割が人間の記憶を参照しながら働いていた期間が長すぎたのでしょう。分けた後も、役割側に記憶を受け継ぐ形が残った可能性があります」
「つまり、私たちとも違う」

 シアが言う。

「ええ。わたしたちは、創界が消滅前の境界を保った結果、記憶と人格を持つ次代になりました。この方は、風の役割がミレナの記憶を持ったまま次代になっています」
「知識だけを受け継ぐより、少し厄介です」

 女性が静かに言った。

分かれた証拠

「記憶が途中で切れているなら、別人だという証明になる?」

 シアが尋ねる。

「それだけではなりません」

 ネアはすぐに答えた。

「同じ人物でも、記憶を失うことはあります。逆に、記憶をすべて持っているから同じ人物だとも言い切れません」
「また証明できない」
「個人を外から完全に証明する方法はありません」

 ネアは女性へ線を巻き、原光の流れを確かめる。

「ただし、この方の身体が新しく、風の役割がミレナから離れた後に作られたことは確認できます」
「私は、それで十分です」

 女性が言った。

「記憶の中では、自分をミレナだと思っています。でも、今こうしてミレナさんを見れば、あの記憶を経験した方が別にいると分かります」
「私がいなかったら?」

 ミレナが尋ねる。

「もっと混乱したと思います。自分がミレナの次なのか、ミレナの続きなのか、決められなかったかもしれません」

 目の前にミレナがいる。
 それ自体が、女性にとって一つの境界になっていた。

誰の思い出か

「厄介なんですか」

 ミレナが尋ねる。

「はい」

 女性は少し困ったように笑った。
 その表情までミレナによく似ている。

「家族に会いたいと思います。村へ帰れば落ち着く気もします。でも、それはわたしが生まれてから得た気持ちなのか、ミレナさんの記憶がそのまま動いているだけなのか、まだ分かりません」
「会ってはいけないとは思いません」

 ミレナは答えた。

「でも、私として家へ帰られると、たぶん皆が困ります」
「わたしも困ります」

 二人は同じように少し笑った。

「覚えていることを、捨ててほしいとは思いません」

 ミレナは続ける。

「私が過ごした時間です。でも、今はあなたの中にもある。それを持っていることは、あなたのせいではありません」
「ありがとうございます」

「ただ、家族は私の家族です」
「はい。そこは、間違えません」

 女性の答えは早かった。

「会うとしても、ミレナとしてではなく、別の者として会います」

逆の恐れ

「以前の私は、反対のことで怖くなりました」

 ミレナが言った。

「人間の記憶と、風の精霊王の知識が混ざって、自分がミレナなのか分からなくなりました」
「覚えています」
「今は、あなたが私の記憶を持っている」

 ミレナは目の前の同じ顔を見る。

「でも、あなたは自分が私ではないと分かっている」
「ミレナさんが、ミレナさんとして残っているからです」

 女性は答えた。

「風の役割が離れた後も生きて、今日まで新しい時間を過ごしている。だから、わたしがその場所へ入る必要はありません」
「私は、風の役割がなくても私でした」
「はい。わたしも、ミレナさんの記憶だけではミレナさんになりません」

 ミレナはうなずいた。
 風を失った自分と、風として生まれた別の自分。
 同じ記憶を境に、二人は反対の側へ立っていた。

役割の名前

「では、今は何と呼べばいい」

 セトが尋ねる。

「役割名なら、アイオロスです」
「それでいいのか」
「よくありません」

 女性ははっきり答えた。

「アイオロスは、風の精霊王の役割名です。わたしが消滅し、次が生まれても、同じ名前で呼ばれます」
「ヴァルナは、役割名だけで個を保っている」

 シアが言う。

「村の人たちが、毎日同じ存在として見ているからです」

 ネアが答えた。

「名前がなければ個になれないわけではありません」
「でも、私は欲しいです」

 女性はミレナを見る。

「ミレナという名前は、この方のものです」

 次に、自分の手を見る。

「少なくとも名前だけは、ミレナさんと混ざらないものが欲しいです」
「自分で付けないのか」

 シアが尋ねた。

「自分で考えると、ミレナさんが選びそうな名前を選んでしまいそうなので」
「それもミレナの記憶に引っ張られた選択になる」
「はい」

名前を付ける者

 女性はセトを見た。

「セトさんに、お願いできますか」
「俺が?」
「ミレナさんの記憶の中で、セトさんは、風の精霊王ではなくミレナさんを見つけました」

 ミレナが逃げた時の記憶。
 風の力だけを追わず、人間として残した痕跡から本人を見つけた。

「役割と人を分けて見ることができる方だと思っています」
「その評価も、ミレナの記憶から来ているんじゃないのか」
「そうです」

 女性は否定しなかった。

「今のわたしは、受け継いだ記憶を使わずに誰かを選ぶほど、何も経験していません」
「なら、今は決めなくてもいい」
「いいえ。名前がないままでは、何を経験しても、誰の経験なのか言いにくいです」

 セトは女性とミレナを見比べた。
 似ている。
 しかし、同じではない。
 目の前の女性は、ミレナの記憶を持ちながら、ミレナの名前を使わないことを自分で選んでいる。

「フィオラ」

 セトが言った。

フィオラ

「フィオラ」

 女性は自分の名前を確かめるように繰り返した。
 精霊殿を抜けていた風が、一度だけ中央へ集まる。
 衣装の端と淡い緑色の髪が、静かに持ち上がった。

「なんか響きは似てますね」
「どうしても似てしまう」

 セトが答える。

「嫌か」
「いいえ」

 女性は首を振った。

「全く関係のない名前にすると、記憶まで否定するような気がします。似ていますが、同じではありません」
「ミレナとフィオラ」

 シアが交互に二人を見る。

「これなら呼び分けられる」
「髪の色でも分かるだろう」
「暗いところだと間違えそう」
「シアは明るくても間違えそうです」

 ネアが言う。

「間違えない」
「先ほど、ミレナが二人いると言いました」
「あれは最初だけ」

 フィオラは二人のやり取りを見て、また少し笑った。
 それはミレナの記憶にもある光景だった。
 しかし、フィオラとして見たのは初めてだった。

名前で変わるもの

「名前を付けたことで、何か変わりましたか」

 ミレナが尋ねる。
 フィオラは自分の内側を確かめる。

「力は変わっていません」
「記憶も?」
「同じです。わたしがミレナさんではないという考えも、名前をもらう前からありました」
「名前だけで個人が作られたわけではありません」

 ネアが言う。

「ですが、自分と他者が、同じ存在を同じ名で呼べるようになります」
「境界の目印?」

 シアが尋ねる。

「近いです」

 フィオラはもう一度、自分の名を心の中で繰り返した。
 記憶を探す時には、ミレナという名前がある。
 今考え、今選んでいる者には、フィオラという名前がある。

「わたしには、とても大事なものになりそうです」

残っているつながり

「フィオラは、剣にもなれるのか」

 シアが尋ねた。
 ミレナの表情がわずかに固くなる。
 ネアはフィオラとセトの間へ線を伸ばした。

「つながりの形はあります」
「では、なれる?」
「可能性は高いです。ただし、同じ形があることと、成立することは別です」

 フィオラはセトを見る。

「わたしは、セトさんへ身を預け、翔嵐になったことを覚えています」
「それは、私が選んだことです」

 ミレナが言った。

「はい」

 フィオラはうなずく。

「その時の信頼も、安心したことも覚えています。でも、それを理由に、今のわたしもすでにセトさんを選んでいることにはしたくありません」
「分かった」

 セトはすぐに答えた。

「なら、今は試さない」
「いいんですか」
「決めていない相手に、自分を預けろとは言えない」
「ありがとうございます」

「剣にならないと困るわけでもない」
「今は、ですね」

 フィオラは少しだけ笑った。

選び直すこと

「同じ相手を選ばなくてもいいんですよ」

 ミレナが言った。
 フィオラは意外そうにミレナを見る。

「私の記憶があるから、同じように考えなければならないわけではありません」
「でも、ミレナさんはセトさんを信頼しています」
「はい。それは今も変わりません」

 ミレナはセトを見る。

「でも、私が信頼していることと、フィオラさんが信頼することは別です」
「さんはいらないと思います」
「では、フィオラ」
「はい」
「同じ選択でも、違う選択でも、自分で決めてください」

 フィオラはしばらく答えなかった。
 受け継いだ記憶の中では、すでに答えが出ている。
 その答えを使えば、迷う必要はない。
 しかし、それではフィオラが選んだことにはならなかった。

「自分で確かめます」

 フィオラは言った。

「セトさんが、記憶の中と同じ方なのか。わたしが同じように自分を預けたいと思うのか」
「ああ」
「急がなくていい」

 セトの答えも短かった。

今の世界を知る王

 ネアは机代わりの石台へ、持ってきた報告書を広げた。

「ほかの次代について、何か分かりますか」

 フィオラは四枚の紙へ目を通す。

「氷、樹、土、晶。役割としては知っています」
「本人たちのことは?」
「知りません。前代がどのような者だったかも、記憶としては残っていません」
「人間の町や畑については」
「分かります」

 フィオラは森が広がった地域の報告を指で追う。

「街道が塞がれれば、人が移動できなくなります。畑が森になれば、次の季節の食料が減ります。森が増えること自体が悪いのではなく、増やしてよい場所と、残さなければならない場所があります」
「今の世界を知っている」

 シアが言う。

「ミレナさんの記憶を通して、ですが」
「それでも、ほかの次代にはないものです」

 ネアは報告書を重ねた。

「創世期の役割と、現在の人間の生活。その両方を最初から理解できる精霊王は、今のところフィオラだけです」

風が見る現在

 フィオラは手を上げた。
 精霊殿を通り抜けていた風が、掌の上へ集まる。
 強い風ではない。
 外にある木々の間を抜け、道を進み、遠くの人の声や火の熱を避けて戻ってきた細い流れだった。

「村があります」

 フィオラが言う。

「ここから遠くありません。畑があり、家畜もいます。風を強く動かせば、土が乾き、屋根が傷みます」
「役割の知識では、そこまで分からない?」
「風を動かせば何が起きるかは分かります。でも、人が屋根を直すのにどれだけ手間がかかるか、畑が一度駄目になれば次まで待たなければならないことは、人間の記憶から分かります」

 フィオラは掌を閉じた。
 集まった風は、元の流れへ戻る。

「ほかの次代にも、役割を弱めろとは言いません。役割の先に何があるかを、知ってもらいます」
「それで止まると思うか」

 セトが尋ねる。

「分かりません。わたしも生まれたばかりですから」

 それでも、自分と同じ次代だからこそ届く言葉があるかもしれない。

間に立つ者

「私が、ほかの精霊王へ説明します」

 フィオラが言った。

「すぐに四か所を回るつもりか」

 セトが尋ねる。

「いいえ。今のわたしは、自分の力をどの程度扱えるかも分かっていません」
「それが分かっているなら安心した」
「シアさんとは違いますから」
「私も分かっている」
「分かっていて試します」

 ネアが訂正する。
 フィオラは少し考え、精霊殿の外へ目を向けた。

「ここを拠点にします」
「風の精霊殿を?」
「はい。人間の村へ行けば、ミレナさんと混同されます。それに、人間としての家へ戻るのは違います」

 風の役割を捨てるつもりもない。
 役割だけになり、人間の生活を無視するつもりもない。

「ここで今の世界を学びます。各地の報告も集めます。ほかの次代と会える時には、役割を捨てろではなく、今の世界で役割を果たす方法を一緒に考えます」
「人間と精霊王の間に立つのか」
「どちらかの側に立つのではなく、両方が残る場所を探します」

精霊殿を拠点に

「ここで一人で待つのか」

 セトが尋ねる。

「最初は、そうします」
「危険がないとは限らない」
「分かっています。近くの村へも、自分が新しい風の精霊王だと伝えます」
「いきなり行って信じてもらえるか?」

 シアが尋ねる。

「人へ説明することは、シアさんやネアさんより慣れています」
「生まれたばかりなのに?」
「ミレナさんの記憶がありますから」
「そこは使うんだ」
「持っているものを使わない理由はありません。ただし、それを自分の経験と間違えないようにします」

 ネアは少し考え、うなずいた。

「各国からの報告を、ここにも送ってもらいましょう。フィオラが状況を整理し、次代の精霊王へ伝える内容を考える」
「俺たちは、実際に被害を止めながら状態を確かめる」

 セトが続ける。

「役割分担ですね」
「そうだ」
「分かりました。ここを、戻ってこられる場所にします」

 風の精霊殿は、役割のために残っていた場所だった。
 その日から、フィオラ自身の拠点にもなった。

それぞれの続き

 ミレナは精霊殿の入口に立った。
 外から入る風が、二人の髪を同じ方向へ揺らす。
 色は違う。
 揺れ方も違った。

 ミレナの髪は風が止まれば下りる。
 フィオラの毛先は、風が弱まった後もわずかに揺れていた。

「また来てもいいですか」

 ミレナが尋ねる。

「もちろんです」
「私の記憶について、聞きたいこともありますよね」
「あります。でも、それだけではありません」

 フィオラはミレナを見る。

「わたしが持っているのは、風の役割が離れるまでの記憶です。その後のミレナさんを、わたしは知りません」
「まだ一か月です」
「それでも、わたしにはない時間です」
「では、次に来た時に話します」
「はい。わたしも、フィオラとして過ごしたことを話します」

 同じ記憶から始まっても、二人は別の続きを持つ。
 ミレナは人間として村へ戻る。
 フィオラは風の精霊王として、精霊殿に残る。

最初の記憶

 翌朝、セトたちは精霊殿を出た。
 最初に向かうのは、森が広がっている地域だ。
 ミレナは村へ戻り、ハルヴェンとリグは各国へ方針を伝える。
 フィオラは、精霊殿の入口で三人を見送った。

「無理に一人で動くな」

 セトが言う。

「はい。まずは、この身体と風の流れを確かめます」
「何かあったら、シアかネアへ念話を送れ」
「今なら、わたしからも届くと思います」
「細かい話は難しいですけど、危険があることと、おおよその方角くらいなら伝えられます」
「それで十分だ」

 フィオラが笑う。
 セトたちが見えなくなった後も、風はしばらく同じ方角へ流れていた。
 フィオラは、自分の名前をもう一度口にする。

「フィオラ」

 その名前を呼んだ記憶は、ミレナから受け継いだ思い出のどこにもない。
 精霊殿で出会った者たち。
 ミレナと交わした言葉。
 自分でここに残ると決めたこと。
 それはすべて、生まれてからフィオラが得たものだった。


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