エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第61話 二翼のフィオラ

エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第61話 二翼のフィオラ エレメンタルクロス ~精霊の剣~
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第61話 二翼のフィオラ
エレメンタルクロス ~精霊の剣~
創作実験TOP作品紹介―― この剣はやがて、世界の向こう側にまで届く。 ―― 人が扱える精霊に、意志はない。火や光の力として術者に従う、粒子のような存在――それが、この世界の常識だった。白と黒。二種類の精霊を剣の形に固定する少年セトは、忌避…
エレメンタルクロス ~精霊の剣~ 第61話 二翼のフィオラ 人物相関図

※人物画像・相関図の転載、再配布、改変利用はご遠慮ください。

風の精霊殿

 黒い四翼が、風の精霊殿の前へ降りた。
 セトの足が地面へ着く。
 その直後、四枚の翼が縮まり、黒い精霊剣が人の姿へ戻った。
 ネアの長い黒髪と羽衣が、遅れて地面へ降りる。

 セトは、終焉の炎がいる方角を振り返った。
 山々に遮られ、ここから赤い巨体は見えない。
 それでも、空気中に漂う原光が、遠くの一点へ引かれているのは分かった。
 終焉の炎は、今も周囲から原光を取り込み続けている。

「セトさん。ネアさん」

 精霊殿の中から、フィオラが出てきた。
 白と淡い緑を基調とした衣装の裾が、風もないのにわずかに揺れている。
 二人を見た直後、銀緑色の瞳が周囲へ向いた。

「シアさんは?」
「捕まってる」

 セトが答えた。
 フィオラの視線が止まる。

「捕まっている?」
「終焉の炎という生体兵器の中だ」
「生体兵器……」
「シアを核にして動いてる」

 フィオラは口を挟まず、続く説明を待った。
 セトは、終焉の炎へたどり着いてから見たものを話した。

 山を崩して現れた赤い巨体。四枚の赤い翼。光の精霊王の残骸から作られた肉体。絶光で切断しても、すぐに塞がる傷。そして、その巨体の内側にシアがいること。

「一度、中へ入った」
「シアさんのいる場所まで届いたのですか?」
「届かなかった」

 セトはしゃがみ、地面へ指で一本の線を引いた。

「俺が前を切った。ネアが再生を抑えた。でも、進んだ後ろから閉じた」

 線の先を指でなぞり、その後ろを手のひらで消す。

「前へ進むだけなら、もう少し行けた」
「ですが、戻れなくなる」

 フィオラが言った。

「ああ」
「シアさんへ到達できたとしても、外へ連れ出せません」
「そうだ」

 ネアも地面へしゃがむ。

「切断した肉体だけではありません。原光の流れも、切った場所へ集まっていました」

 線の両側から、中央へ向かう複数の線を描く。

「絶光で一つの流れを断っても、別の経路が作られます。私がすべてを抑えようとすれば、セトが進むための攻撃へ力を回せません」
「原光を、切断した場所から遠ざける必要があるのですね」
「はい」
「切り離した肉体も、外へ流す」
「はい」
「ネアさんが再生を抑え、セトさんが進む。その間、私が道を閉じさせない」

 フィオラは、地面へ描かれた線を見つめた。

「そのために、私のところへ来たのですね」
「頼みたい」

 セトが言った。
 フィオラは、すぐには答えなかった。

「今の私で、足りますか?」

 セトとネアの間に、短い沈黙が生まれた。

足りない力

「分かりません」

 ネアが答えた。

「終焉の炎の再生速度は、通常の精霊王を相手にする場合とは比較になりません。流れをそらすだけでも、相当な出力が必要になります」
「試すことはできますか?」
「原光の流れを動かす試験はできます。ただ、終焉の炎の肉体と再生を、ここで再現することはできません」
「今の私で足りなかった場合は?」
「別の方法を探す」

 セトが答えた。

「どのような方法ですか?」
「まだ分からない」
「シアさんを助けるには、時間がありません」
「分かってる」

「終焉の炎が動き始めれば、周囲にも被害が出ます」
「ああ」
「それでも、別の方法を探すのですか?」

 セトは答えなかった。
 フィオラはネアへ顔を向ける。

「ネアさんは、私より強い」
「四翼がありますから」
「シアさんにも四翼があります」
「はい」
「以前のお二人には、翼がありませんでした」

 ネアの表情は変わらなかった。
 だが、返事が少し遅れた。

「そうですね」
「光の精霊王との戦いの途中で、二人とも四翼を得た」
「はい」

「分霊核を集めたことだけが理由ではありませんね」
「分霊核は、精霊翼を得るためのものではありません」
「では、何をしたのですか?」

 ネアは答えなかった。
 フィオラはセトを見る。

「セトさんも知っていますね」
「知ってる」
「私には話さない?」
「ああ」

 セトは否定しなかった。

「危険だからですか?」

 二人とも答えなかった。
 その沈黙だけで十分だった。
 フィオラは、わずかに目を伏せる。

「お二人が四翼を得た方法には、危険がある」
「フィオラ」

 ネアが名を呼ぶ。

「今は、私たちの話を聞いてください」
「聞いています」
「あなたに必要なのは、終焉の炎の中で流れを維持する力です。四翼と同じものが必要だと決まったわけではありません」
「ですが、今の私では足りない可能性がある」
「はい」

「強くなる方法はある。しかし、私には話せない」
「その方法で強くなれるとも限りません」
「できないとは言わないのですね」

 ネアの目が、ほんのわずかに細くなった。
 フィオラは、その変化を見ていた。

「精霊王には、代々受け継がれる知識があります」
「あります」
「私の中にもあります」
「はい」
「普段は、知ろうとすれば知ることができる。風の流し方も、精霊王としての役割も、最初から知っていました」

 フィオラは自分の胸元へ手を当てた。

「ですが、知っているはずなのに、触れられない場所があるのではありませんか?」

 セトが、わずかに息を止めた。
 ネアは動かなかった。
 フィオラは、二人の顔を順に見る。

「あるのですね」
「何も答えていません」
「答えないことが答えになっています」
「違う可能性もあります」
「それなら、違うと言えばよいはずです」

 ネアは黙った。
 フィオラは小さくうなずく。

「分かりました」
「何がですか」
「自分で確かめます」

逃げた風

 フィオラの足元から風が広がった。

「フィオラ!」

 セトが手を伸ばす。
 風はセトとネアへ向かわなかった。
 二人の間を抜け、地面を這い、フィオラ自身の身体を後方へ押す。
 フィオラは床を蹴た。
 一歩で大きく距離を取り、そのまま精霊殿の外へ駆け出す。

 自由に飛んでいるわけではない。
 風で身体を前へ押し、着地のたびに次の跳躍へつなげている。

 ネアの背後へ、黒い原光が集まった。
 四翼が開きかける。

「待ってくれ」

 セトが言った。

「追えば、すぐに捕まえられます」
「分かってる」
「知識の場所へ気づきました。放置すれば、本当に開こうとします」
「それも分かってる」
「では、なぜ止めるのですか」

 フィオラの姿は、すでに精霊殿の向こうへ消えていた。
 セトは、彼女が消えた方角を見た。

「今捕まえて、どうする」
「拘束します」
「いつまで?」

 ネアは答えなかった。

「シアを助けるまで閉じ込めるのか」
「必要であれば」
「その後は?」
「……見張ります」
「ずっとは無理だ」

 フィオラは、自分の中に何かがあると知った。
 それが強くなる方法へつながることも分かっている。
 シアを助けるために、自分の力が足りない可能性も知っている。

「ここで止めても、次は俺たちの見えないところでやる」
「必ずそうするとは限りません」
「やらないとも思えない」

 ネアも否定しなかった。

「だったら、俺たちが止められるところでやらせる」
「安全になるわけではありません」
「だから近くにいる」

「失敗すれば、フィオラがフィオラではなくなる可能性があります」
「ああ」
「シアと私が、そうなりました」
「ああ」

「それでも?」
「一人でやらせるよりはいい」

 ネアは、フィオラが消えた方角へ意識を向けた。

「止めないと伝えるのですか」
「一人ではやるな。戻れって伝えてくれ」
「詳しい理由までは念話で送れません」
「それでいい。戻ってから話す」

 ネアは目を閉じた。

戻ってください

『フィオラ』

 遠くを走っていたフィオラへ、ネアの念話が届いた。
 フィオラは足を止めなかった。

『止めるのでしたら、戻りません』
『止めません』

 足元の風が乱れた。
 フィオラの速度が落ちる。

『ただし、一人では開かないでください』
『なぜですか』
『危険だからです』
『それは、先ほどから分かっています』
『戻ってください』

 ネアの念話では、長い説明を送ることはできない。
 言葉と一緒に伝わるのは、短い意志だけだった。

 止めない。
 一人ではやらせない。
 異常が起きれば、自分たちが止める。

『セトさんの判断ですか』
『はい』
『ネアさんも同意していますか』

 ネアは一度、目を開いた。
 隣でセトが待っている。
 もう一度、目を閉じた。

『一人で行うよりは、まだ安全です』

 しばらく返事はなかった。

『戻ります』

 念話が切れた。

「戻るそうです」
「そうか」

「一度逃げた相手へ、ずいぶん簡単に判断を任せますね」
「戻ってくるなら、任せてもいい」
「戻らなければ?」
「追う」

 ネアは小さく息を吐いた。

「最初からそうしてください」

 間もなく、精霊殿の外から風が近づいた。
 フィオラは、来た時と同じように風で身体を押しながら戻ってきた。
 二人の前で速度を落とし、地面へ立つ。

「本当に止めないのですか?」
「止めない」

 セトが答えた。

「許可してくれる、ということですか?」
「違う」
「違うのですか?」
「危険だから、俺たちの前でやってくれ」

 フィオラは少し考えた。

「危険なことをしてよいとは言わない。しかし、私が隠れて行うよりは、ここで行う方がよい」
「そうだ」
「何か起きれば、止める」
「ああ」

「力を失う可能性があっても?」
「ああ」
「私自身が変わる可能性があっても?」

 セトは、すぐには答えなかった。

「変わり始めたら、戻す」
「戻せるのですか?」
「分からない」
「では、止める?」
「止める」

 フィオラはセトの目を見た。

「分かりました」

話さなかった危険

 三人は、風の精霊殿から少し離れた開けた場所へ移った。
 周囲に人はいない。
 何かが起きても、すぐに被害が広がらない場所だった。

「最初に、見てもらいます」

 ネアがフィオラの前へ立つ。
 黒い原光が、背後へ広がった。

 右上。左上。右下。左下。
 四枚の半透明な黒い面が、大きなX字を作る。

 羽毛ではない。
 光を通しているはずなのに、翼がある部分だけが欠けて見えるほど深い黒。
 翼の間を細い黒線が走る。
 周囲に満ちる原光が翼へ入り、ネアの身体を通り、再び外へ流れていく。
 フィオラは、黒い四翼から目を離さなかった。

「これが、ネアさんの四翼」
「はい」
「見たことはありません。ですが……」

 フィオラは言葉を止めた。
 知らないはずだった。
 それでも、四翼を流れるものが、何をしているのか少しだけ分かる。

 周囲から原光を取り込んでいる。身体の外側へ循環を作っている。精霊王という存在を、世界と直接つないでいる。

「知っています」

 フィオラが言った。

「見たことはないのに、知っている気がします」
「私たちも同じでした」

 ネアが答えた。

「光の精霊王が四翼を使っているのを見て、シアと私は、自分たちもあの翼を知っていると感じました」
「その時に、閉じられた知識を見つけたのですか?」
「存在に気づいただけです」

 ネアは黒い四翼を広げたまま続ける。

「知っているはずなのに、内容へ届かない。開こうとしても、別の知識へ押し戻される。意図的に閉じられているとしか思えませんでした」
「鍵を見つけたのは?」
「後です」

 ネアの声が少し低くなる。

「シアが先に開きました。身体を何度も貫かれ、治癒する力も尽きかけ、本当に消滅する直前でした」

 フィオラは黙って聞いている。

「その時、シアは消えたくないと願いました」
「消えたくない」
「はい。それが知識の鍵を外しました」
「では、ネアさんも?」
「私には、シアが鍵を開けた感覚と、開け方が伝わりました。ただし、私が開いた時も、開かなければ消滅する状況でした」
「同じ言葉を思えば開くのですか?」
「違います」

 ネアは即座に否定した。

「言葉が鍵ではありません。本当に自分が消える状況で、自分自身が消えたくないと望んだ。その欲望が鍵になったのだと思います」
「思います?」
「今でも、完全には分かっていません」

 黒い四翼がわずかに揺れる。

「少なくとも、言葉だけを真似ても開かないでしょう」
「同じ状況を作ることもできない」

 セトが言った。

「ああ」
「作らない」

 フィオラは二人を見る。

「だから、私には話さなかったのですね」
「そうです」

「四翼を得るには、消滅する直前まで追い込まれる必要があるかもしれない」
「私たちと同じ開け方なら」
「それは試せませんね」
「はい」
「ですが、知識は私の中にもある」

 フィオラは、もう一度ネアの四翼を見る。

「別の形で鍵を外せるかもしれない」
「その可能性はあります」
「なら、探してみます」

言葉では開かない

 フィオラは目を閉じた。
 黒い四翼を見た後では、先ほどまで何もないように感じていた場所が、はっきりと分かった。

 風の精霊王として受け継いだ知識。風の流し方。原光へ方向を与える方法。異なる流れを束ねる方法。世界の中で果たす役割。

 その奥に、一か所だけ触れられない場所がある。
 知識がないのではない。
 そこにあると分かっている。
 だが、触れようとすると、意識が横へ滑る。

「見つけました」
「すぐに開こうとしないでください」

 ネアが言った。

「まず、境界の状態を確認します」
「はい」

 フィオラは、閉じた場所の周囲へ意識を向けた。
 押す。反応はない。引く。動かない。

 風の流れを作るように、周囲から回り込む。
 境界へ近づく前に、流れそのものがほどけた。

「力では動きません」
「私たちの時も同じでした」
「四翼の流れを真似たらどうでしょう」
「試すだけなら」

 フィオラはネアの四翼を観察した。
 周囲から取り込む。身体の外へ流す。背後で四つへ分け、再び身体へ戻す。

 フィオラは、自分の原光を背後へ流した。
 淡緑色の線が二つへ分かれる。
 さらに二つへ分けようとする。
 流れは形を保てず、空気中へほどけた。

「もう一度」

 今度は量を減らす。
 四方向へ広げようとせず、ネアの四翼が作る循環の一部だけをなぞる。
 淡緑色の薄い膜が、一瞬だけ現れた。
 だが、すぐに消える。
 閉じた知識にも変化はなかった。

「形を真似るだけでは駄目ですね」
「知識が開いた結果として四翼が現れます。外側の形から開くものではないのでしょう」

 フィオラは原光を身体へ戻した。

「では、欲望です」
「フィオラ」
「危険なことはしません。思うだけです」

 閉じた知識へ触れながら、フィオラは考えた。
 消えたくない。
 何も起きなかった。

 もう一度、強く思う。
 消えたくない。
 境界は動かない。

「開きません」
「今のあなたは、消えようとしていません」
「分かっています」
「言葉だけでは意味がありません」
「では、シアさんを助けたい」

 フィオラは、終焉の炎の中にいるシアを思い浮かべた。
 縛られ、力を奪われ、巨大な兵器の核として使われている。

 助けたい。
 自分の力が必要なら、助けに行きたい。
 閉じた場所へ意識を押し当てる。
 何も変わらない。

「これも違います」
「目的だけでは、鍵にならなかったのでしょう」
「力が欲しい」

 フィオラは試した。
 今より強い力が欲しい。道を維持できる力が欲しい。四翼が欲しい。
 境界は閉じたままだった。

「違いますね」

 フィオラが目を開いた。

「無理に続ける必要はない」

 セトが言った。

「同じことを繰り返しても開かないと思います」
「だったら、一度やめる」
「いいえ」

 フィオラは首を横へ振った。

「試し方を間違えています」

消えない自分

「消えたくない」

 フィオラは、先ほど口にした言葉を繰り返した。

「これは、シアさんとネアさんが使った言葉です」
「はい」
「ですが、お二人が消えたくなかったこと自体は、本物です」
「そうです」
「私には、本当に消えるものがないのでしょうか」

 ネアは答えなかった。
 それは、ネアが外から決められることではなかった。
 フィオラは再び目を閉じる。

 風の精霊王アイオロスとして受け継いだ知識。人間として生きたミレナの記憶。
 どちらも、フィオラが生まれるより、はるか前から存在していた。
 アイオロスの知識が持つ時間から見れば、フィオラが過ごした数か月など、ほとんど何もない。
 ミレナの記憶と比べても同じだった。

 家族と暮らした時間。村で過ごした時間。セトたちと旅をした時間。人間として悩み、選び、風の精霊剣となった記憶。
 その長さに比べれば、フィオラ自身が生まれてから積み重ねたものは、あまりにも少ない。

 風の精霊殿で目を覚ました。
 自分がミレナではないと知った。
 新しい名前を望んだ。
 フィオラという名を受け入れた。
 風の精霊殿を、自分が戻る場所に決めた。

 ミレナがセトを選んだ記憶を、そのまま自分の選択にはしなかった。
 自分の目でセトを見た。
 自分で考えた。
 そして、フィオラ自身の意思で、セトを精霊剣の使い手として選び直した。

 どれも、アイオロスの知識にはない。
 ミレナの記憶にもない。
 フィオラが生まれてから、自分で行った選択だった。

 だが、まだ少ない。
 フィオラをアイオロスという役割としてだけ見れば、数千年続く知識の端へ生じた、わずかな揺らぎでしかない。
 ミレナの続きとして見れば、長い人生の記憶が途切れた後に付け加わった、短い数か月でしかない。
 役割だけが残れば、フィオラはいなくてもアイオロスは存在できる。
 ミレナの記憶だけを基準にすれば、フィオラが生まれてからの時間は、ほとんど存在していないのと同じだった。

 フィオラ自身まで、自分をミレナの続きだと思ってしまえば。
 自分をアイオロスという役割だけで捉えてしまえば。
 フィオラという個人は、最初から存在しなかったことになる。

「……消えます」

 フィオラが言った。

「何がですか」

 ネアが尋ねる。

「私です」

 閉じた知識へ触れる。

「私は今、身体を失うわけではありません」

 境界は、まだ動かない。

「ですが、私をアイオロスとしてだけ見れば、私はいません」

 知識の奥で、何かがわずかに揺れた。

「ミレナさんの続きとして見ても、私はいません」

 フィオラは、自分の名を意識する。
 役割名でも、受け継いだ名前でもない。自分のために与えられ、自分で受け入れた名前。

「私は生まれてから、まだ数か月しか経っていません」

 アイオロスの知識と比べれば、一瞬にも満たない。
 ミレナの人生と比べても、ほとんど存在していないのと同じだった。

「それでも、私はここにいます」

 境界が揺れる。

「ミレナさんの記憶を持っています。アイオロスの知識も持っています」

 そのどちらも否定しない。
 捨てようとも思わない。
 どちらも、現在のフィオラが持つものだった。
 だが、それらだけがフィオラなのではない。

「私は、ミレナさんではありません」

 閉じた知識の奥へ、細い亀裂が入った。

「役割としてのアイオロスだけでもありません」

 フィオラが生まれてから選んだものを思い出す。

「これからも、フィオラとして存在したい」

 それは、誰かを助けるという目的より前にある願いだった。
 役割を果たすためではない。
 強くなるためでもない。
 自分という個人を、この先も続けたい。

「私は消えたくありません」

 境界が大きく揺れた。

「ミレナさんとしてではなく、フィオラとして選び続けたい」

 フィオラは、閉じた知識へ触れる。

「これから先の私を、私自身で作りたい」

 鍵が外れた。

二翼

 何かが壊れる音はしなかった。
 閉じられていた知識が、静かに開く。
 古い風の流れが、フィオラの中へ入ってきた。

 精霊王が、世界と直接つながっていた頃の循環。
 身体の中だけでは終わらない原光の流れ。
 周囲から取り込み、身体を通し、再び世界へ返す。
 同時に、フィオラは自分の内側へ注意を向けた。

 自分だけが存在すればよいという欲望。ほかの精霊王を消したいという衝動。アイオロスという役割だけへ戻ろうとする流れ。ミレナの記憶へ、自分が飲み込まれる感覚。
 どれも現れなかった。

 フィオラの背後へ、淡緑色の光が広がる。
 一枚。
 もう一枚。
 二枚の半透明な翼が、左右へ斜めに伸びた。

 四方向へ分かれることはない。
 途中で止まったのでもない。
 二枚の翼だけで、周囲から原光を取り込み、身体を通して外へ返す循環が成立している。
 風が、精霊殿の周囲へ広がった。
 白と淡い緑色の衣装の縁が、翼と同じ色へ淡く発光する。

「フィオラ」

 ネアが呼ぶ。

「はい」
「自分の名前は?」
「フィオラです」
「あなたは誰ですか」
「ミレナさんの記憶と、アイオロスの知識を持つフィオラです」

 答えに迷いはなかった。

「ミレナですか」
「違います」
「アイオロスですか」
「それは私の役割です。私の名前はフィオラです」

「セトは誰ですか」
「セトさんです。ミレナさんが選んだ記憶を持っていますが、今の私も自分で選んだ人です」
「シアは?」
「終焉の炎の中にいるシアさんです。これから助けに行きます」

「自分以外のものを消したいと感じますか」
「いいえ」
「自分だけが存在すればよいとは?」
「思いません」

 フィオラは自分の内側を確かめた。
 原初の知識はある。
 外界とつながる循環もある。
 だが、自分だけを残そうとする欲望はなかった。

「原初の欲望はありません」

 ネアは、二枚の翼を流れる原光を観察した。

「知識は開いています」
「では、なぜ二枚だけなのですか」
「分かりません」

 ネアは、まずそう答えた。

「ただ、風の精霊王の役割は、長い間、人間の血統の中にありました」
「はい」
「ミレナさんは、人間として生きながら、風の精霊王の役割も持っていた」
「はい」

「一度、人間の血と、人間としての人生を経由したことで、原初との接続が弱くなった可能性があります」
「それで、四翼ではなく二翼になった」
「推測です」
「原初の欲望が現れなかったのも?」
「同じ理由かもしれません」

 フィオラは、自分の背後へ意識を向けた。

「知識が半分しか開かなかったわけではないのですね」
「はい。開いていない部分が残っているようには見えません」
「残りの二翼が、どこかに閉じているわけでもない」
「二翼だけで循環は閉じています」

「四翼になりかけて、途中で止まったのでもない」
「違います」

 フィオラは淡緑色の二翼を静かに広げた。

「それなら、これが私の翼です」

 ミレナが残した翼ではない。
 アイオロスという役割だけが生み出した翼でもない。
 これからもフィオラとして存在し、フィオラとして選び続けたいと願ったことで開いた翼だった。

初めての飛行

 フィオラは、二翼へ原光を流した。
 羽ばたく必要はなかった。
 周囲から取り込む流れの向きを、わずかに下へ変える。
 身体が、ゆっくりと地面から離れた。

「浮いています」
「精霊翼による飛行です」

 ネアが答えた。
 これまでも、フィオラは風で身体を押すことができた。
 跳躍した後に落下を緩める。空中で進む方向を変える。地面を蹴るたび、風で加速する。

 だが、それは自由な飛行ではなかった。
 今は、地面を蹴っていない。
 空気を強く押し下げてもいない。
 身体そのものが、外界との原光循環に支えられている。

 フィオラは少し上昇した。
 前へ進む。止まる。後方へ下がる。その場で身体の向きを変える。

 動きはシアやネアほど速くない。
 それでも、空中へ自由に留まり、任意の方向へ移動できた。

「四翼より弱いのですか?」
「出力も、循環量も低いです」
「そうですか」
「ですが、あなたはあなたのままです」

 フィオラは、ゆっくりと地面へ降りた。

「それなら、悪いことばかりではありません」
「体調に変化は?」
「ありません」
「知らない記憶が増えた感覚は?」
「原初の循環については分かります。ですが、私自身の記憶が混ざった感じはありません」

「アイオロスという役割へ引かれる感覚は?」
「ありません」
「翼を消せますか」

 フィオラは循環を身体の内側へ戻した。
 淡緑色の二翼が縮まり、消える。
 再び意識を向ける。
 二枚の翼が、同じ形で開いた。

「問題なさそうです」

 ネアは黒い四翼を消した。

「次は、シアの救出に使えるか確認します」

道を残す力

 フィオラが二翼を広げる。
 ネアも、再び黒い四翼を展開した。

「終焉の炎の再生は再現できません。まず、原光の流れをどこまで動かせるか確認します」

 ネアは四翼の一枚から、細く抑えた原光を前方へ流した。
 攻撃ではない。
 一定の太さと速度を保った、単純な流れだった。

「これを、中央へ通さないでください」
「分かりました」

 フィオラが両手を上げる。
 二翼から淡緑色の線が伸びた。
 ネアの原光へ、正面からぶつけるのではない。
 流れの周囲へ回り込み、進む方向へ横から触れる。

 ネアの原光が、少しずつ左右へ分かれた。
 中央へ、何も流れない細い隙間が生まれる。

「維持できますか」
「できます」

 ネアが流量を増やす。
 左右へ分かれた原光が、中央へ戻ろうとした。
 フィオラの二翼が淡く強く光る。
 左右の流れは無理に押し広げられない。
 戻ろうとする方向だけを変えられ、中央の隙間を避けて流れていく。

 セトが、その間へ足を踏み入れた。
 原光は左右を流れている。
 中央だけが空いている。

「前へ動かせるか?」
「やってみます」

 フィオラが一歩進む。
 原光の分かれ目も、同じだけ前へ移動した。
 セトは隙間の中を進む。
 後方の流れも、すぐには閉じない。

「これなら、俺が中へ入れる」
「終焉の炎では、肉体の再生も加わります」

 ネアが言った。

「その再生をネアが抑える」
「ああ」
「私は、ネアさんが切り離した組織と原光を外へ流す」
「そうだ」

「セトさんがシアさんまで進む」
「ああ」

 ネアはさらに流量を上げた。
 フィオラの二翼が大きく揺れる。
 中央の隙間が一度細くなった。
 だが、閉じない。

 フィオラは、原光へ力を正面からぶつけなかった。
 流れが戻ろうとする方向を読み、わずかな力で別の方向へ送り続ける。
 四翼ほどの出力はない。
 それでも、流れを動かす精度は高かった。

「もう十分です」

 ネアが原光を止める。
 フィオラは二翼を消さず、その場へ立っていた。

「負担は?」
「あります。ただ、まだ続けられます」
「四翼より循環量は低いですが、今回必要なのは最大出力の攻撃ではありません」

 ネアは、先ほど中央に残った道を見る。

「道を維持するだけなら、二翼でも足りる可能性があります」
「可能性ではなく、足りさせます」

 フィオラが言った。

「無理に出力を上げないでください」
「分かっています。力で押し返すのではなく、戻る流れを別の場所へ送ります」
「それならよいでしょう」
「六翼で行く」

 セトが言った。

「四翼と二翼です」

 ネアが言う。

「力だけなら、八翼には届きません」
「八翼を作るんじゃない」

 セトは、終焉の炎がいる方角へ向いた。

「シアまでの道を作る」

 フィオラが、その隣へ立つ。

「私が、道を残します」

 背後で、淡緑色の二翼が静かに広がった。
 それは、四翼に足りなかった二枚ではない。
 アイオロスという役割にも、ミレナの記憶にも埋もれず、これからもフィオラとして選び続けるための二翼だった。


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