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(一)低リスク作業
カランタの倉庫兼厩舎で働き始めて、二週間が過ぎた。
山科理人は、まだこの世界の言葉を話せるとは言えなかった。
水は分かる。
袋も、だいたい分かる。
一、二、三も分かる。
同じ。
違う。
待て。
危ない。
そのあたりまでは、どうにかなる。
だが、文章になると途端に崩れる。
「右の古い袋を、昼までに裏の飼料棚へ移しておけ」
たぶん、そういう意味のことを言われても、理人が理解できるのは、
右。
古い。
袋。
昼。
移す。
その程度だった。
それでも、仕事は少しずつ増えていた。
床を掃く。
桶を洗う。
飼料袋を運ぶ。
荷役獣の水桶を満たす。
空袋を畳む。
使い終わった薬草包みを集める。
信用されたわけではない。
単に、箒と桶と空袋なら、任せても大きな被害が出にくいというだけだった。
理人は、それを理解していた。
「信用ではなく、低リスク作業の割り当て」
日本語で言っても、誰にも通じない。
だが、自分には分かる。
今の自分は、雇用された人間ではない。
監視付きで、役に立つか試されている人間だった。
それでも、悪くはない。
掃けば、床はきれいになる。
桶を洗えば、荷役獣が水を飲む。
空袋を畳めば、倉庫番の舌打ちが一つ減る。
役に立つ行動は、言葉より少しだけ早く届く。
理人は、そう覚え始めていた。
(二)数える癖
理人は、数えていた。
意識して、というより癖だった。
朝、南の棚にある飼料袋は十二。
北の棚には七。
薬草包みは木箱に六。
水桶は四。
荷役獣は五頭。
そのうち一頭は、右後脚を少しかばっている。
そんなことを、勝手に頭が拾ってしまう。
前職の癖だった。
倉庫に入れば、棚を見る。
棚を見れば、数量を見る。
数量を見れば、昨日との差を見る。
見たからといって、何かできるわけではない。
言葉が足りない。
紙もない。
権限もない。
だが、見てしまう。
理人は、南の棚の飼料袋を見た。
十二。
朝、確かに十二あった。
昼に三つ運んだ。
なら、残りは九。
理人は夕方、同じ棚の前で足を止めた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
八。
理人は、もう一度数えた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
八。
「……一つ、足りない」
日本語だった。
誰にも通じない。
だが、数は変わらない。
朝、十二。
昼、三つ運んだ。
夕方、八。
十二から三を引けば、九。
そこにあるのは、八。
「差分、一」
理人は小さく息を吐いた。
胸の奥が、わずかに冷える。
事件だ、と決めるには早い。
だが、何もない、と流すには遅い。
(三)まだ断定しない
理人は、すぐには結論を出さなかった。
一袋消えた。
そう考えるのは簡単だ。
だが、まだ早い。
自分の記憶違いかもしれない。
朝に数えたのは十二ではなく、十一だったかもしれない。
昼に運んだのは三つではなく、四つだったかもしれない。
誰かが別の場所へ移したのかもしれない。
空袋を一つ数に入れていた可能性もある。
この世界では、袋の分類もまだ怪しい。
大袋。
小袋。
古い袋。
濡れた袋。
飼料袋。
薬草包み。
日本語で「袋」とまとめたものが、こちらでは別物として扱われる。
だから、いきなり「減った」と言ってはいけない。
だが、違和感は残る。
理人は棚を見た。
八。
どう数えても八。
「記録がないと、確定できない」
理人はつぶやいた。
記憶は弱い。
人は間違える。
自分も間違える。
だから記録が必要だ。
だが、この倉庫には、理人が読める記録がない。
正式な帳簿らしきものはある。
ただし、文字が読めない。
触る権限もない。
理人は、自分の手を見た。
紙がない。
ペンがない。
言葉もない。
それでも、差分はそこにある。
それが、ひどくもどかしかった。
見えている。
だが、まだ記録になっていない。
(四)言葉が足りない
理人は、近くにいた倉庫番を呼ぼうとした。
名前はまだ知らない。
肩幅の広い男。
いつも帳簿らしき板を持っている。
理人をあまり信用していない。
理人は棚を指した。
「サル」
袋。
倉庫番が面倒そうに振り向く。
理人は指を折った。
「エン、ト、ラ……」
一、二、三。
数え始める。
八まで数えたところで、倉庫番の顔がさらに険しくなった。
理人は、自分の頭を指す。
次に、朝を示すつもりで、太陽が昇るしぐさをした。
「朝。サル。十二」
もちろん、十二の言い方はまだ怪しい。
理人は指で十と二を示そうとする。
この世界の数え方と合っているかも分からない。
次に、昼に運んだしぐさをする。
三つ。
それから棚を指す。
八。
「違う。ネア。違う」
倉庫番は眉をひそめた。
「何を言っている」
理人には分からない。
だが、通じていないことは分かる。
理人はもう一度、棚を指す。
「サル、ネア」
袋、違う。
「朝、多い。今、少ない」
言葉が足りない。
圧倒的に足りない。
倉庫番は、理人を手で追い払うようなしぐさをした。
「仕事に戻れ」
たぶん、そういう意味だった。
理人は口を閉じた。
正しいかもしれないことを見つけた。
だが、伝えられない。
それは、思っていたよりも重かった。
正しさは、言葉にならなければ届かない。
そして、言葉になっても、たぶんまだ足りない。
(五)石の表
理人は倉庫の外に出た。
地面に小石が落ちている。
小石を拾う。
一つ。
二つ。
三つ。
十二個。
理人はそれを地面に並べた。
倉庫番が不審そうに見る。
理人は南の棚を指す。
朝。
そう言いたい。
言葉ではなく、太陽が昇るしぐさをした。
次に、小石を十二個指す。
朝。
袋。
十二。
それから、三個の石を別の場所に移す。
昼。
運ぶ。
三。
残った石は九。
理人はそれを数えた。
九。
次に、倉庫の棚を指す。
実際の袋を数える。
八。
理人は、石を一つ手に取った。
余った一個。
「ネア」
違う。
理人は石を見せる。
「一つ、ない」
日本語だった。
倉庫番は顔をしかめた。
伝わっていない。
いや、少しは伝わっているのかもしれない。
ただ、受け入れる気がない。
倉庫番は、石を足で崩した。
理人の胸の奥に、小さく熱が上がった。
だが、怒っても意味がない。
怒れば、怪しい異邦人が地面で妙なものを並べて騒いだ、という記録だけが残る。
ここで声を荒げれば、数字ではなく理人の態度が問題になる。
それは一番まずい。
理人は息を吐いた。
「怒るな。まだ早い」
そう自分に言い聞かせた。
崩れた石は、もう表ではない。
ただの石に戻っていた。
(六)リナだけが見ていた
崩れた石を、リナが見ていた。
リナは倉庫番ではなく、地面の石を見ていた。
次に、棚を見る。
理人を見る。
もう一度、石を見る。
彼女はしゃがんだ。
崩れた石を拾い、理人が置いていた形に近い形へ戻す。
完全ではない。
だが、近い。
理人はリナを見た。
リナは、小石を十二個並べようとして、途中で数が分からなくなったらしい。
少し困った顔をする。
理人はゆっくり、石を並べ直した。
十二。
三つを移す。
九。
棚を指す。
八。
余る石を一つ、リナの手のひらに置く。
リナはそれを見た。
「ネア?」
違う?
理人はうなずいた。
「ネア」
リナは棚を見る。
石を見る。
それから、少し不安そうに倉庫番を見た。
ここで大声を出すわけにはいかない。
理人にも、それは分かった。
リナはまだ見習いだ。
倉庫番に強く言える立場ではない。
それでも、リナは石を捨てなかった。
余った一個の石を、しばらく手の中に持っていた。
理人は思った。
今、全部は伝わっていない。
だが、一部は伝わった。
それだけで十分だった。
数字は、言葉を少しだけ越えた。
ただし、本当に少しだけだった。
(七)ただの石になる
倉庫番は、理人とリナをまとめて見た。
声が少し低くなる。
リナが肩を縮めた。
理人には言葉が分からない。
だが、内容は何となく分かった。
余計なことをするな。
帳簿はこっちで見ている。
お前たちは仕事をしろ。
そんなところだろう。
倉庫番は棚の袋を一つ叩いた。
何かを説明している。
古い袋。
小さい袋。
別の棚。
朝とは違う。
単語はいくつか聞き取れた。
だが、理人には十分ではない。
もしかすると、倉庫番が正しいのかもしれない。
袋の分類を間違えたのかもしれない。
理人が朝に見た十二は、飼料袋ではなく空袋を含んでいたのかもしれない。
あるいは、別の作業者が正当に移したのかもしれない。
だから、理人は断定しない。
ただ、ひとつだけ分かる。
この倉庫では、数が合わない時に、合わないまま流れていく。
誰も悪くない可能性はある。
だが、誰も確かめないなら、同じことはまた起きる。
倉庫番はリナに何かを言った。
リナは小さくうなずき、石を地面に戻した。
理人はその石を見た。
一つ。
余った一つ。
証拠ではない。
ただの石だ。
信用のない数字は、ただの石になる。
その事実だけが、理人の中に残った。
(八)食べない袋
その日の夕方、荷役獣に飼料を配った。
理人は桶を運ぶ。
リナは荷役獣の様子を見る。
五頭いる荷役獣のうち、三番目の一頭だけが、桶に鼻を近づけてすぐに顔をそむけた。
理人は最初、気づかなかった。
だが、リナはすぐに気づいた。
「――」
リナは短く何かを言い、桶を引いた。
荷役獣は鼻を鳴らす。
リナは飼料を指でつまみ、匂いを嗅いだ。
顔をしかめる。
理人も少し離れた位置から匂いを嗅いだ。
湿った匂い。
わずかに酸っぱい。
リナは別の袋から飼料を取った。
今度は、同じ荷役獣が食べた。
理人は、その動きを見ていた。
数ではない。
だが、差分だ。
同じ荷役獣。
同じ時間。
違う袋。
食べない。
食べる。
理人はリナを見た。
リナは飼料袋を見ている。
彼女は数字を見ているのではない。
荷役獣の反応を見ている。
理人は、昼間の石を思い出した。
一つ足りない飼料袋。
そして今、食べ残される飼料。
関係があるとは限らない。
だが、無関係と決めるにも早い。
異常は、一つではなく、二つになった。
(九)数としぐさ
理人は、地面に小石を並べた。
今度はリナだけが見ている。
朝の袋。
十二。
昼に運んだ袋。
三。
残るはずの袋。
九。
実際の棚。
八。
余った石。
一。
次に、理人は湿った匂いのする飼料袋を指した。
荷役獣を指す。
食べないしぐさをする。
別の袋を指す。
食べるしぐさをする。
リナは真剣に見ていた。
理人の説明は、説明とは呼べなかった。
石。
指差し。
しぐさ。
片言。
それだけだ。
だが、リナは石を一つ手に取り、湿った袋の横に置いた。
理人は目を細めた。
正確な意味は分からない。
だが、リナは何かをつなげた。
数が合わないこと。
袋が違うこと。
荷役獣が嫌がったこと。
リナは小さく言った。
「ネア」
違う。
理人はうなずいた。
「ネア」
それは、二人の間で初めて成立した、異常の共有だった。
理人は数を見る。
リナはしぐさを見る。
見ているものは違う。
だが、同じ場所を指していた。
(十)小さな実証
リナは湿った袋を、棚の端に寄せた。
理人を見る。
本当にそれでいいのか。
そう聞かれている気がした。
理人は、うなずいた。
根拠は弱い。
だが、少なくともその荷役獣は、湿った袋の飼料を嫌がった。
別の袋なら食べた。
なら、今日のところは避けるべきだ。
リナは別の袋から飼料を取る。
三番目の荷役獣に出す。
荷役獣は鼻を近づけ、今度は食べ始めた。
リナの表情が少し変わる。
驚きではない。
確認。
そういう顔だった。
理人は、その顔を見て思った。
この子は、ただ勘で動いているわけではない。
見ている。
比べている。
昨日と今日、この袋とあの袋、この荷役獣と別の荷役獣。
それを言葉にしていないだけだ。
理人は、湿った袋を指した。
「ネア」
リナはうなずいた。
「ネア」
違う。
合わない。
少なくとも、今の二人にはそういう意味だった。
(十一)まだ信用ではない
倉庫番は、湿った袋を見て顔をしかめた。
何かを言う。
リナが答える。
理人には細かい内容は分からない。
ただ、倉庫番の視線が一瞬だけ理人に向いた。
疑い。
面倒。
少しだけの評価。
それらが混ざった目だった。
倉庫番は理人に向かって短く何かを言った。
リナが小さく訳すように、箒を指した。
仕事に戻れ。
たぶん、そういうことだった。
理人はうなずいた。
「了解」
通じない。
理人は箒を取った。
結局、扱いは変わらない。
怪しい異邦人。
言葉の怪しい下働き。
時々、妙なことに気づく男。
その程度だ。
湿った袋を避けたことも、理人の指摘として処理されたわけではない。
リナが気づいた。
袋が悪かった。
だから端に寄せた。
周囲から見れば、たぶんそれだけだった。
だが、リナだけは違った。
彼女は、湿った袋の横に置かれた小石を見ていた。
捨てずに、しばらく見ていた。
理人はそれだけで十分だと思った。
全員に伝わらなくてもいい。
最初は一人でいい。
一人だけでも、異常を異常として見てくれるなら、そこから始められる。
(十二)信用がなければ届かない
夜。
理人は倉庫の隅で、煤のついた木片を見ていた。
ミア。
サル。
レナ。
エン。
ト。
ラ。
ソル。
ネア。
その下に、新しい印を足す。
袋。
朝、十二。
昼、三。
夕、八。
差分、一。
未確定。
そして、湿った袋。
荷役獣、食べない。
別袋、食べる。
理人は、その木片を見ながら考えた。
数は嘘をつかない。
十二から三を引けば九だ。
八にはならない。
同じ荷役獣が、片方の飼料を嫌がり、もう片方を食べた。
それも観測だ。
だが、数字が正しいことと、誰かがそれを聞くことは別だった。
信用がなければ、数字はただの石になる。
理人は、入口の見張りを見た。
まだ見張りはいる。
槍は下がりきっていない。
疑いも消えていない。
リナだけが、少しだけこちらを見ている。
理人は小さく息を吐いた。
「数は嘘をつかない」
そして、続ける。
「でも、信用がないと届かない」
この世界で必要なのは、数えることだけではなかった。
数えた結果を、聞いてもらえる関係。
それを作らなければならない。
理人は木片を伏せた。
明日も、掃く。
運ぶ。
待つ。
覚える。
正しいことを言う前に、ここにいていい理由を増やす。
それが、今の仕事だった。
(十三)ログ
ログ
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共有率:低
採用率:未満
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