本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第36話 犬?

本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第36話 犬? 創作実験
本当に人間ってあさはかな生き物だよね 第36話 犬?
本当に人間ってあさはかな生き物だよね
創作実験TOP日常系/猫視点コメディ/人間観察―― 猫には猫の常識がある。人間はそれを、何ひとつ分かっていない。 ――作品紹介黒猫のシジミは、人間に飼われている。少なくとも、うちの人間はそう思っている。だが、シジミからすれば話は逆だ。毎日決…

いつもの朝食

朝。
シジミは窓辺から庭を見ていた。
うちの人間は、まだ起きていない。

庭には、昨日まいた食事が少し残っている。
スズメ用の粟玉。
木の枝には、メジロが食べるかもしれないと置かれた果物。
どの鳥がどれだけ食べるのか、うちの人間は正確には把握していない。

とりあえず置く。何かが来る。何かが食べる。それを見て喜ぶ。
相変わらず、その程度である。

今朝もスズメたちは、食事が追加される時間を待っていた。
低い木の枝。塀の上。寝床に近い窓の前。
それぞれ、いつもの位置にいる。

まだ鳴き始めてはいない。
うちの人間が眠っていることは分かっている。
少し待つ。
動く気配がなければ騒ぐ。
スズメたちなりに、順序があるらしい。

犬ではない

そのとき、庭の奥で何かが動いた。
四本の脚。丸みのある体。尖った顔。
低い位置を、少し慎重に歩いている。

シジミは最初、犬かと思った。
犬にしては小さい。
毛は灰色と茶色が混ざっている。
顔の周りが黒い。尾は太い。

そして、犬のように人間の家へ向かって迷わず近づくのではなく、何度も周囲を確認している。

犬ではない。
これは――。

「タヌキだ」

シジミは小さくつぶやいた。

メジロ用の果物

タヌキは庭の中央まで来ると、鼻を動かした。
甘い匂い。穀物の匂い。鳥の匂い。猫の匂い。人間の匂い。
さまざまなものを確かめている。

窓辺にいるシジミにも気づいた。
一度、こちらを見た。

「猫」

シジミも見返した。
タヌキは少し迷ったあと、シジミが窓の内側にいると判断したらしい。
すぐには逃げなかった。

木の枝に置かれた果物へ近づく。
前脚を幹へかけ、鼻先を伸ばした。

「甘い」

メジロ用に置かれた果物である。
厳密には、うちの人間が勝手にメジロ用だと思っているだけだ。
果物に名前は書かれていない。
メジロだけが食べてよいとも決められていない。

タヌキは雑食である。
果物も食べる。虫も食べる。小さな生き物も食べる。人間が捨てたものも食べる。
食べられそうなら、とりあえず確認する。
それが鳥用かどうかなど、関係ない。

タヌキは果物へ口をつけた。
一口。もう一口。

「いいねぇ」

かなり気に入ったらしい。

名前は書かれていない

木の上では、メジロが一羽、その様子を見ていた。

「それ、オレたちの」

タヌキは顔を上げた。

「名前書いてある?」

書かれていない。

「人間が置いた」
「知ってる」
「鳥に置いた」
「人間に聞いた?」

メジロは黙った。
うちの人間は、

「何かの鳥が食べるかも」

と言って置いている。
メジロ専用とは言っていない。

タヌキのほうが正しい。

変な犬

果物を食べ終えると、今度は地面へ鼻を近づけた。
粟玉の匂いに気づいたらしい。
少し残っている。

一粒食べる。
さらに食べる。

スズメたちが一斉に騒いだ。

「朝飯!」
「横取りされた!」
「変な犬!」

犬ではない。
タヌキである。

だが、スズメたちには違いが分からないらしい。
四本脚。毛がある。口が尖っている。ならば犬。
うちの人間がメジロをウグイスと呼んだときと同じである。
自分の知っている一番近いものへ寄せる。

もっとも、スズメたちは鳥である。
犬とタヌキを細かく見分ける必要はない。

どちらも地面を歩く。
どちらも自分たちより大きい。
どちらも近づきすぎれば危険かもしれない。

その程度の区別で、生きるうえでは困らない。

人間は名前をつけたがる。
動物は、必要な危険だけ分かればよい。

朝飯泥棒

スズメの一羽が枝から鳴いた。

「それ、オレたちの朝飯!」

タヌキは地面の粟玉を食べながら答えた。

「まだたくさんあるよ」
「全部オレたちの!」
「人間がそう言った?」
「毎朝オレたちが食べてる!」
「今日は私が見つけた」
「先に来てた!」
「食べてなかった」
「人間が追加するのを待ってた!」
「待ってる間に食べられたねぇ」

スズメたちはさらに騒いだ。

「泥棒!」
「横取り!」
「変な犬!」
「犬じゃないよ」

タヌキは一応訂正した。

「じゃあ何!」
「タヌキ」
「犬の仲間?」
「近いけど違う」
「じゃあ変な犬!」

訂正する意味はなかった。

見慣れないもの

タヌキは気にせず食べ続けた。
スズメたちは木の上で大騒ぎしている。
だが、地面へは降りない。

タヌキが何を食べるか分からない。
少なくとも、自分たちと同じものを食べている。
ならば、スズメも食べられる可能性がある。
正面から確かめる必要はない。

危険かもしれない相手の近くへ、食事のために降りるほど無謀ではないらしい。
カラスの巣の近くには降りた。
猫が見ていても降りる。
しかし、見慣れない動物には慎重である。

慣れは、危険を小さく見せる。
見慣れないものは、実際より危険に見える。

人間にもよくある。
いつも使っている危険な道具は平気で扱う。
初めて見る安全な道具には警戒する。
危険そのものより、知っているかどうかで判断する。

今日からここ

タヌキは残っていた粟玉をほとんど食べ終えた。
鼻を地面へ近づけ、ほかに何かないか探している。

「ここ、いいねぇ」

スズメたちが警戒する。
タヌキは庭を見回した。

「果物もある」
「穀物もある」
「猫は窓の中」
「人間はまだ寝てる」

そして満足そうに言った。

「朝ごはんは、今日からここにしようかな」

スズメたちが一斉に鳴いた。

「駄目!」
「来るな!」
「ここはオレたちの!」

タヌキが答えた。

「お前たちは木にいるじゃない」
「朝飯がなくなる!」
「早く食べればいい」
「下にお前がいる!」
「私は気にしないよ」

こちらが気にするのである。
相手が危険だと思っていなくても、近づかれる側が安心するとは限らない。

犬たちも、よく同じことを言う。
遊ぶだけ。匂いを嗅ぐだけ。追いかけるだけ。
自分に悪意がないから、相手も困らないと思っている。

タヌキも、少し似ているらしい。
ただし犬ほど騒がしくはない。

人間を起こせ

タヌキは庭の隅に残っていた食べ物まで探し始めた。
スズメたちは寝床に近い窓へ移る。

「人間を起こせ!」
「追加の飯!」
「今のうちに出させろ!」
「変な犬を追い払わせろ!」

一斉に鳴く。

「飯!」
「起きろ!」
「庭に変なのいる!」

うちの人間には、最後の意味は通じない。
ただ、いつものように朝食を要求している声へ聞こえるだろう。

寝床の内側で、うちの人間が動いた。
タヌキも音に気づく。

「人間、起きた?」

少し身を低くした。
逃げるべきか考えているらしい。

だが、すぐに人間が出てくる気配はない。
うちの人間は布団の中で、しばらく粘る。

スズメが鳴く。
止まる。
また鳴く。

ようやく、寝床から足音がした。
うちの人間が窓の布を開ける。
庭を見る。

タヌキは、ちょうど木の陰へ移動していた。
うちの人間の位置からは見えにくい。

スズメたちは、窓の近くでさらに騒ぐ。

「下!」
「庭!」
「朝飯泥棒!」

うちの人間は眠そうな顔で笑った。

「今日も元気だねえ」

元気なのではない。
被害を訴えている。

朝ごはんだよ

うちの人間は柔らかな上着を羽織り、栗色の髪を片手でまとめた。
いつもの袋を持って、庭へ出る。
扉が開く音に、タヌキが身構えた。

うちの人間は庭の中央へ食事をまいた。
タヌキがいることには、まだ気づかない。

「ほら、朝ごはんだよ」

スズメたちは降りない。
うちの人間が首を傾げた。

「どうしたの?」

木の陰に、見慣れない動物がいる。
それが見えないのだろうか。

タヌキも動かない。
うちの人間がいる間は、隠れてやり過ごすつもりらしい。

スズメたちは木の上から鳴く。

「早く戻れ!」
「変な犬いる!」
「今降りたら食われる!」

うちの人間は、自分が近くにいるからスズメが降りてこないと思った。

「はいはい。すぐ戻るからね」

違う。
原因は人間ではない。

だが、少なくとも今は人間がいることで、タヌキも動けない。
うちの人間が家へ戻る。

増えた

扉が閉まる。
しばらくして、タヌキが木の陰から出てきた。
新しくまかれた粟玉を見る。

「増えた」

スズメたちが騒ぐ。

「来るな!」
「それは今出たばかり!」
「オレたちの!」

タヌキは地面へ鼻を近づけた。

「やっぱり、ここ良いねぇ」
「良くない!」
「毎朝出るの?」

スズメたちは答えなかった。
毎朝出ると教えれば、本当に通ってくる。

だが、黙っていても、目の前で食事が追加された。
すでに知られている。

タヌキはうれしそうに食べ始めた。

猫が追い払え

スズメたちは、少し離れた枝で会議を始めた。

「どうする?」
「追い払う」
「どうやって?」
「みんなで鳴く」
「今やってる」
「もっと鳴く」
「人間には通じてない」
「カラス呼ぶ?」
「朝飯まで取られる」
「猫は?」

スズメたちが窓辺のシジミを見る。
シジミは見返した。

タヌキを追い払う理由はない。
粟玉はシジミの食事ではない。
果物もいらない。

タヌキが庭へ来ることで、シジミの生活へ大きな影響があるなら考える。
今のところ、食事を横取りされているのはスズメたちである。
自分たちで対処すべきだ。

一羽がシジミへ鳴いた。

「猫!」

何だ。

「追い払え!」

なぜだ。

「庭に変な犬!」

タヌキである。

「どっちでもいい!」

よくない。
自分たちが名前を間違えているだけである。

「朝飯取られる!」

それはスズメの問題だ。

「猫も住んでるだろ!」

家の中に住んでいる。
庭の食事を守る係ではない。

スズメたちは不満そうだった。
人間は猫を飼えば、家を守ると思う。
スズメも似たような考えを持つらしい。

猫がいる。
ならば、庭へ来る動物を追い払う。
勝手に役割を決めないでほしい。

また明日

タヌキは、ゆっくり食事を続けた。
急いで飲み込むわけではない。
周囲を何度も確認する。

人間が出てこないか。犬が来ないか。シジミが外へ出ないか。
警戒はしている。
野生で暮らす者としては当然である。

食べ終えると、タヌキは庭の端へ移った。

「また明日」

スズメたちが一斉に鳴く。

「来るな!」
「二度と来るな!」
「変な犬!」
「タヌキだよ」

最後まで訂正していた。

タヌキは塀の隙間を通り、庭から出ていった。
それを見届けてから、スズメたちは一斉に地面へ降りた。

残りを探す。
ほとんどない。

「ない!」
「全部食われた!」
「少し残ってる!」
「それオレの!」
「先に見つけた!」

すぐにスズメ同士の争いが始まった。
タヌキがいなくなっても平和にはならない。
食事が少なければ、今度は仲間同士で取り合う。

結局、問題は食欲である。

うちの人間は窓の内側から、ようやく降りてきたスズメたちを見ていた。

「今日は慎重だったなあ」

何も分かっていない。

何度か庭へ来た

それから数日。
タヌキは、何度か庭へ来た。
毎日ではない。
別の場所でも食事を探しているのだろう。

だが、朝に来れば何かがあると覚えたらしい。
果物。粟玉。ときには、うちの人間が置いた別のもの。
タヌキは選ばない。
食べられるか確認する。食べられれば食べる。

スズメたちは、タヌキが来るたびに騒いだ。

「また来た!」
「朝飯泥棒!」
「変な犬!」

タヌキが訂正する。

「タヌキ」
「どっちでもいい!」

メジロも、果物がなくなっていると不満を言った。

「甘いのない」
「昨日はあった」
「変な犬が食べた」
「タヌキだって」

鳥たちの間でも、少しずつ名前が広がった。

それでも一部のスズメは、

「変な犬」

と呼び続けた。
一度つけた呼び名を変えるのが面倒らしい。

人間と同じである。

食事を増やした

うちの人間は、庭の食事がいつもより早くなくなることに気づいた。

「最近、スズメたちよく食べるなあ」

スズメだけではない。
むしろ、スズメたちは食べられていない。

だが、うちの人間は鳥の食事が減っている。
ならば鳥が食べた。
そう決めた。

夜に何かが来ている可能性。別の動物が食べている可能性。風で飛んだ可能性。
いくつも考えられる。
それでも、一番分かりやすい理由へ寄せる。

うちの人間は、食事の量を増やした。
タヌキにとっては、さらに都合がよくなった。

スズメたちは怒った。

「人間!」
「増やしても全部食われる!」
「変な犬をどうにかしろ!」

うちの人間には、

「もっと飯!」

と聞こえたらしい。

「最近、本当に食欲あるねえ」

さらに増やそうとしている。

人間は、原因を間違えたまま対策すると、問題を大きくする。

タヌキが来る。
食事が減る。
スズメが騒ぐ。
うちの人間が食事を増やす。
タヌキにとって魅力的な庭になる。
翌日も来る。

実に分かりやすい。

ある朝

ある朝。
うちの人間は、いつもより慌ただしかった。
寝床から出るのが遅かったらしい。

栗色の髪を急いで整える。
着替える。
細い鞄へ物を入れる。

一度玄関まで行き、何かを忘れて戻る。
また玄関へ行く。

間に合わない

今度は絵の光る板を忘れている。
戻る。
ようやく靴を履く。

「間に合わない」

毎朝、少し早く起きればよい。

だが、人間は夜になると、
明日は起きられる。
と思う。

朝になると、
なぜ昨日もっと早く寝なかった。
と思う。

その繰り返しである。

今日は少ないねぇ

庭には、今日もタヌキが来ていた。
うちの人間が果物を置く木の近く。
地面へ残った粟玉を探している。

スズメたちは、少し離れた場所から見張っていた。
今日はまだ、うちの人間が食事を追加していない。
タヌキは残りだけを食べている。

「今日は少ないねぇ」

スズメが鳴く。

「人間が寝坊した!」
「もうすぐ出てくる!」
「早く帰れ!」

タヌキは家の扉を見た。

「人間、怖い?」
「急に出てくる!」
「いつも庭に来る人間?」
「そう!」
「食事出す人?」
「そう!」
「なら平気かも」

スズメたちが騒ぐ。

「分からない!」
「近づいたことないだろ!」
「人間は急に動く!」
「大きい!」
「騒ぐ!」

スズメたちは、うちの人間をかなり正しく見ている。

タヌキは少し考えた。
だが、あと一粒見つけた。
そちらへ向かう。

食欲が警戒を少し上回ったらしい。

犬?

家の中で、うちの人間が大きな声を出した。

「本当に遅れる!」

玄関の扉が勢いよく開いた。
うちの人間が飛び出す。
タヌキが振り返る。
うちの人間もタヌキを見る。

距離は近い。
互いに、相手がそこにいると思っていなかった。
一瞬、両方が止まった。

うちの人間が言う。

「犬?」

やはり、最初は犬に見えるらしい。

タヌキの目が大きくなった。

「人間!」

うちの人間も、顔の模様と太い尾へ気づいた。

「えっ、タヌキ!?」

次の瞬間。

タヌキは、その場へ倒れた。
横向きになる。
脚を縮める。
動かない。

うちの人間も動かなかった。
シジミは窓の内側から、その様子を見ていた。

死んだのだろうか。
いや、あまりにも急である。

うちの人間と目が合った。
驚いた。
倒れた。

それだけだ。

体には傷も見えない。
何かにぶつかったわけでもない。
呼吸も、わずかにしている。

気絶したのか。
あるいは、死んだふりか。

いわゆる、タヌキ寝入りというものだろうか。
人間は、眠っていないのに眠ったふりをすることを、タヌキ寝入りと呼ぶ。
本当にタヌキが同じことをするのか、シジミは知らない。

少なくとも、目の前のタヌキは動かない。

死んじゃった?

うちの人間は、顔色を変えた。

「えっ」

一歩近づく。
タヌキは動かない。

「嘘」

さらに近づこうとする。
シジミは窓の内側から鳴いた。

近づかないほうがよい。
驚いて動けないだけかもしれない。
急に起き上がる可能性もある。

野生の動物である。
追いつめれば、何をするか分からない。

だが、うちの人間には意味が通じない。

「シジミ、どうしよう!」

どうもしなくてよい。
まず離れるべきである。

うちの人間は玄関の前へ鞄を置いた。
遅刻しそうだったことを、完全に忘れたらしい。
タヌキを見下ろす。

「死んじゃった?」

まだ決めるのは早い。

「私が驚かせたから?」

その可能性はある。
ただし、驚かせようとしたわけではない。

急いで飛び出した。
そこにタヌキがいた。
互いに驚いた。

事故のようなものである。

狸寝入り

うちの人間は絵の光る板を取り出した。
写真を撮るのかと思ったが、さすがに違った。
どこかへ電話をかけ始める。

「すみません。家の前にタヌキがいて……」

役所らしい。

「急に倒れて、動かないんです」

相手から何か聞かれる。
うちの人間はタヌキを見た。

「血は出てないです」
「車にひかれた感じでもないです」
「私が家から出たら、急に……」
「はい。呼吸は……たぶん、してると思います」

ならば死んでいない。

うちの人間は少し安心した顔をした。
電話の相手が、何か説明している。

「狸寝入り?」

やはり、その可能性があるらしい。

うちの人間は、もう一度タヌキを見た。

「本当にするんですか?」

相手の声は聞こえない。
だが、うちの人間は何度かうなずいた。

「分かりました。近づかないようにします」

ようやくである。

被害が出たら

「もし、起きたあと暴れたりしたら?」

相手が答える。
うちの人間は、その言葉を繰り返した。

「凶暴だったり、庭を荒らされたり、被害が出た場合は早めに連絡……」

自然な行動と被害

被害が出る前は、動いてくれないのか。
シジミは少し考えた。

だが、仕方がないのだろう。
タヌキは自然にいる動物である。

庭へ入った。食事を食べた。人間に驚いて倒れた。
今のところ、家を壊したわけではない。
人間へ襲いかかったわけでもない。
畑を大きく荒らしたわけでもない。

それだけで役所が毎回捕まえに来れば、いくら人間がいても足りない。

どこまでが自然な行動で、どこからが被害なのか。
役所も扱いに困るのだろう。

電話の相手は、

「たぶん狸寝入りですね。変に近づかないようにしてください。もし凶暴とか、庭を荒らされたなどの被害がありましたら、早めにご連絡ください」

そのようなことを言ったらしい。

遅刻の心配

うちの人間は電話を切った。

「狸寝入り……」

名前どおりの状況を、初めて見た顔をしている。
タヌキはまだ動かない。

うちの人間は距離を取った。
だが、仕事へ行くには、タヌキの近くを通らなければならない。
玄関の前に倒れている。
道を変えることはできない。

うちの人間は腕に巻いた時計を見る。

「どうしよう。本当に遅れる」

先ほどまでタヌキが死んだと思い、大慌てしていた。
狸寝入りかもしれないと分かった途端、遅刻の心配へ戻った。

人間の心配は切り替わりが早い。

別の出口

うちの人間は少し考えたあと、家の中へ戻った。
別の出口から出るつもりらしい。

庭側の窓を開ける。
そこから出ようとする。
タヌキを驚かせないよう、できるだけ離れた位置を通る。

シジミは窓辺から見ていた。
うちの人間は庭を横切る。
塀の近くから外へ出る。

慌てているため、鞄を玄関前に置いたままである。
途中で気づく。

「鞄!」

戻る。
タヌキの近くにある。

うちの人間は遠くから鞄を見る。
タヌキを見る。
また鞄を見る。

仕事には必要。
だが、近づくなと言われた。

かなり困っている。

長い傘

シジミには分かる。
長い棒か何かで、鞄だけ引き寄せればよい。

だが、うちの人間はそこまで考えつかない。
しばらく悩んだあと、家の中から長い傘を持ってきた。

ようやくである。

傘の先で鞄の持ち手を引っかける。
少しずつ引く。
途中で鞄が倒れる。
中から小さな容器が転がった。

うちの人間が息を止める。
タヌキは動かない。

容器は、タヌキの少し近くで止まった。
うちの人間は容器を諦めた。

「あとで取ろう」

必要ではないらしい。

鞄だけ引き寄せる。
それを持って、庭から外へ出た。

食べ物じゃない

仕事へ向かう前に、シジミへ言う。

「シジミ、タヌキに近づいちゃ駄目だよ」

近づかない。
むしろ、うちの人間が最初に近づこうとしていた。

「食べ物じゃないからね」

またそれである。

タヌキは、ひなより大きい。
ハムスターより、はるかに大きい。
シジミが優先的に食べようとする理由はない。

それ以前に、食べられる相手かどうかも怪しい。
野生のタヌキへ近づけば、噛まれるかもしれない。
病気や虫を持っている可能性もある。

効率が悪すぎる。

うちの人間は、シジミが何でも食べようとすると考えているらしい。

庭へ鳥が来る。食べ物ではない。
ハムスターを預かる。食べ物ではない。
ひなを見つける。食べ物ではない。
タヌキが倒れる。食べ物ではない。

そのたびに言う。

シジミには、決まった食事がある。
何でも口へ入れるのは、むしろタヌキのほうである。

うちの人間は急いで去っていった。

人間、いない?

家が静かになる。

しばらくして、タヌキの耳が動いた。
片目が少し開く。
周囲を見る。

誰も近くにいない。
シジミは窓の内側にいる。
スズメは木の上。

タヌキは、ゆっくりと頭を上げた。

「人間、いない?」

いない。

体を起こす。
四本の脚で立つ。
どこにも怪我はないようだ。

やはり、死んだふりだったらしい。

「怖かったぁ」

タヌキは玄関の扉を見た。

「急に出てきた」

スズメたちが木の上から騒ぐ。

「だから言った!」
「人間は急に動く!」
「もう来るな!」

タヌキは返事をしなかった。

ここ、危ないねぇ

先ほどまで気に入っていた庭を見回す。
果物。粟玉。
食事が出る場所。

だが、あの扉から人間が急に飛び出してくる。
タヌキの中で、庭の評価が大きく下がったらしい。

「ここ、危ないねぇ」

最初から言ってる

スズメの一羽が言う。

「最初から言ってる!」

タヌキが答えた。

「お前たちは毎日来てる」
「人間が出る時間を知ってる!」
「私は知らなかった」
「だから来るな!」

今日は帰る

タヌキは、少し離れた場所に転がっている小さな容器へ気づいた。
うちの人間の鞄から落ちたものだ。

匂いを嗅ぐ。
食べ物ではない。
すぐに離れる。

「今日は帰る」
「今日だけじゃなくて、ずっと来るな!」

タヌキは塀の隙間へ向かった。
途中で一度、玄関の扉を振り返る。
そして、急いで庭から出ていった。

それ以降、タヌキはこの家へ近づかなくなった。

果物がある。粟玉もある。毎朝、食事が追加される。
それでも、急に人間が飛び出してくる危険のほうが大きいと判断したらしい。

食事より安全。
正しい判断である。

スズメたちは再び庭の食事を独占できるようになった。

「変な犬、来なくなった!」
「朝飯が戻った!」
「オレたちの庭!」

タヌキである。
最後まで覚えなかった。

いなくなってる

夕方、うちの人間が仕事から戻った。
玄関の前を見る。

タヌキはいない。
ほっとした顔をする。

「いなくなってる」

当然である。
何時間も死んだふりを続ける理由はない。

うちの人間は、庭へ回った。
落とした容器を拾う。
荒らされた場所がないか確認する。

果物はなくなっている。
粟玉も減っている。

「タヌキ、これ食べてたのかな」

ようやく気づいた。
それまでスズメの食欲が増えたと思っていた。

うちの人間は絵の光る板で調べ始めた。

「タヌキって雑食なんだ」

今さらである。

「果物も穀物も食べるんだ」

目の前で食べていた。

餌付けしないほうがいい

「餌を置くと通うようになることがある……」

すでに何度か来ていた。

「野生動物への餌付けはしないほうがいい」

うちの人間は、庭の食事を見た。
スズメたちも見た。
少し悩んでいる。

鳥へ食事を置く。
鳥以外の動物も来る。
当たり前のことである。

食べ物は、置いた者の意図を読まない。

これはスズメ用。
これはメジロ用。
人間がそう思っていても、匂いにつられて別のものが来る。

タヌキ。ネズミ。虫。ほかの鳥。
食べられる者が食べる。

人間が自然へ食事を置けば、自然が人間の想定どおりに受け取るとは限らない。

うちの人間は、翌朝から置く量を少し減らした。
食べ残しも長く放置しないようになった。

珍しく、経験から学んだらしい。

朝飯が少ない

ただし、スズメたちは不満だった。

「朝飯が少ない!」
「変な犬、もういない!」
「もっと出せ!」

タヌキが来なくなっても、食事の量は戻らない。
スズメたちにとっては、余計なことをされたことになる。

うちの人間は、少ない食事へ集まるスズメを見て言った。

「みんなで仲良く分けてね」

分ける気はない。
朝から取り合っている。

話すたびに大きくなる

一方、うちの人間は、姉へタヌキの話をしていた。

「家を出たら目の前にタヌキがいて、急に倒れたの」
「本当に死んだかと思った」
「役所に電話したら、狸寝入りかもしれないって」

話すたびに、少し出来事が大きくなっている。

最初は、玄関近くにタヌキがいた。
次に話したときには、目の前へ飛び出してきたことになった。

さらにあとでは、

「私を見た瞬間、ばたっと倒れた」

と、自分の存在が強すぎてタヌキが倒れたような話になっていた。

実際には、うちの人間もタヌキも同時に驚いただけである。

うちの人間は話の最後に言った。

「でも、無事でよかった」

その点は正しい。

タヌキは怪我をしていなかった。
人間も噛まれなかった。
庭も大きく荒らされなかった。
役所が動くほどの被害もなかった。

タヌキは怖い思いをして、二度と来なくなった。
うちの人間は、結果として庭への餌の置き方を少し見直した。

悪くない終わりである。

最も理解していなかった者

ただし、タヌキを庭へ引き寄せた原因は、うちの人間が置いた食事だった。

それに気づかず、
スズメがよく食べる。
と思い、さらに量を増やした。

タヌキが倒れれば、死なせたと思って慌てた。
狸寝入りだと分かれば、遅刻の心配を始めた。

そして最後には、

「シジミ、食べ物じゃないからね」

と猫を警戒した。

最初から最後まで、最も状況を理解していなかった者だけが、全員を心配していた。

シジミは猫語でつぶやく。

「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」


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本当に人間ってあさはかな生き物だよね
創作実験TOP日常系/猫視点コメディ/人間観察―― 猫には猫の常識がある。人間はそれを、何ひとつ分かっていない。 ――作品紹介黒猫のシジミは、人間に飼われている。少なくとも、うちの人間はそう思っている。だが、シジミからすれば話は逆だ。毎日決…

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