
鳴る箱
朝になると、うちの人間は大きな音で目を覚ます。
枕元に置かれた小さな箱が、毎日ほとんど同じ時刻に鳴り始めるのである。
うちの人間は自分で、その時間に鳴るようにしている。
それなのに、音が鳴るたびに嫌そうな顔をする。
布団の中から腕だけを伸ばし、手探りで箱を探す。
一度、音を止める。
しばらくすると、また鳴る。
うちの人間はさらに嫌そうな顔をして、もう一度止める。
起きたくないのなら、最初から鳴らさなければよい。
鳴らす必要があるなら、一度で起きればよい。
毎朝同じことを繰り返しているのに、何一つ改善されない。
人間は眠っているあいだに、前の日のことを忘れてしまうのだろうか。
シジミはうちの人間の足元で丸くなりながら、その様子を眺めていた。
シジミは箱に起こされたりしない。
起きる必要があるときに起きる。
鳥の声。
外を歩く猫の気配。
食事の袋が開く音。
うちの人間が寝返りを打ち、布団の中にちょうどよい隙間ができたとき。
起きる理由があれば目を開ける。
何もなければ、そのまま眠る。
それで困ったことはない。
うちの人間は、三度目の音でようやく上半身を起こした。
肩まで伸びた髪が、あちこちへ跳ねている。
目は半分しか開いていない。
起きたくないことが全身から伝わってくる。
それでも布団から出る。
立ち上がり、ふらふらと部屋を出ていく。
眠いなら、もう一度横になればよい。
家の中は安全である。
雨は入ってこない。
風も強くない。
敵になるような動物もいない。
食べ物もある。
水もある。
暖かい場所も、柔らかい寝床もある。
眠い人間が、わざわざ布団から出る理由など見当たらない。
シジミは空いた枕の上へ移動した。
うちの人間の頭があった場所は、ほどよく暖かい。
人間は、このようなよい場所を毎朝捨てている。
理解に苦しむ。
外へ出る準備
しばらくすると、うちの人間は顔を洗って戻ってきた。
髪をとかし、後ろでまとめる。
鏡の前に立ち、寝起きの顔へ何かを塗っている。
小さな容器を開けたり閉じたりしながら、何度も鏡を確認する。
家を出るために、ずいぶん手間をかける。
猫なら、顔を前足で洗えば終わりである。
水を使う必要もない。
鏡もいらない。
誰かに見せるためではなく、必要だから毛づくろいをする。
うちの人間は、まだ何かを気にしているらしい。
前髪を少し動かす。
横から見る。
首を傾ける。
また前髪を動かす。
それほど変わったようには見えない。
人間同士には分かる違いなのだろうか。
猫の毛並みを見分けられない者たちが、自分たちの髪のわずかな違いだけは細かく気にする。
ずいぶん都合のよい目をしている。
うちの人間は、家の中で着ている柔らかな服から、外へ出るための服へ着替えた。
動きにくそうな服である。
首元を整え、腰の辺りを何度か引っ張る。
足には硬そうな靴を履くらしい。
猫は外へ出るとき、服を着替えたりはしない。
家の中でも外でも、同じ毛皮で十分である。
人間は毛が少ないため、自分で別の毛皮を用意しなければならないらしい。
それだけでも不便なのに、季節や場所によって何枚も使い分ける。
しかも、着たあとは洗う。
乾かす。
畳む。
しまう。
そして、また取り出して着る。
人間の一日は、毛皮の管理だけでかなりの時間を使っている。
最初から体に生えていれば、そんな手間はかからない。
うちの人間は鏡の前へ立ち、服の形を整えた。
家を出るだけなのに、まだ確認することがあるらしい。
シジミが散歩へ出るときは、扉を開けてもらえばそれでよい。
毛並みが少し乱れていても、歩いているうちに整う。
必要なら、その場で舐めればよい。
人間は鏡がなければ、自分の毛並みすら確認できない。
うちの人間は台所へ向かった。
朝の食事を口へ入れる。
食べながら、絵の光る板を見る。
急いでいるようなのに、板から目を離さない。
時間がないと言いながら、指で何度も画面を動かしている。
その時間を眠ることに使えば、もう少し元気に起きられるのではないだろうか。
あるいは、食事をゆっくり食べればよい。
人間は、自分で時間を使っておきながら、
「時間がない」
と言う。
時間は最初から同じだけある。
なくしたのは人間である。
うちの人間は食事を終えると、細長い容器や小さな袋を鞄へ入れ始めた。
紙。
小さな箱。
細い棒のようなもの。
布。
何に使うのか分からない物が、いくつも入っている。
外で遊ぶための道具だろうか。
シジミが外へ行くときは、何も持たない。
必要なものは外で見つける。
日なたは外にある。
虫も外にいる。
木も塀もある。
水が必要なら、家へ戻ればよい。
遊ぶために重い荷物を運ぶ必要はない。
人間は遊び方まで不器用である。
行ってきます
うちの人間が玄関へ向かう。
シジミもあとをついていった。
うちの人間は硬い靴を履き、扉へ手をかける。
外からは、車の音や人間の足音が聞こえている。
鳥も鳴いている。
日もすでに昇っている。
これから昼へ向かう時間である。
猫なら、家の中で落ち着く時間だ。
夜や朝方に周囲を確認し、昼は安全な場所で体を休める。
何も起きていないのに、明るい時間から外を歩き回る必要はない。
目立つ。
暑い。
人間も多い。
車という大きくて速い物まで動いている。
それなのに、うちの人間は毎日のように外へ出ていく。
「行ってきます」
うちの人間は、少し高い声でそう言った。
シジミへ言ったのかもしれない。
行き先を説明する言葉ではない。
いつ戻るのかも分からない。
ただ、行ってくるとだけ伝えて出ていく。
ずいぶん雑な報告である。
シジミが散歩へ出るとき、うちの人間は、
「どこへ行くの?」
「いつ帰ってくるの?」
「遠くへ行っちゃ駄目だよ」
と何度も言う。
自分が出かけるときは、行ってきますの一言で済ませる。
人間は、自分にだけ決まりが甘い。
昼間から遊びに出かけた
扉が閉まった。
家の中が静かになる。
シジミは玄関の前で、少しのあいだ耳を澄ませた。
硬い靴の足音が遠ざかっていく。
今日も、昼間から遊びに出かけたらしい。
家にいれば安全なのに。
暖かい寝床もある。
好きなときに水も飲める。
外から何かが入ってくれば、すぐに気づける。
それなのに、わざわざ危険の多い外へ出ていく。
しかも、ほとんど毎日である。
遊びに行くのが好きなのだろう。
うちの人間は、外へ出る前にはたいてい嫌そうな顔をしている。
だが、人間はときどき、楽しみにしていることを隠す。
甘い物を食べる前にも、
「太るからよくないんだけど」
と言う。
そのわりに食べる。
遅くまで絵の動く箱を見るときも、
「肌に悪いから早く寝ないと」
と言う。
そのわりに寝ない。
つまり、外へ出る前の嫌そうな顔も、遊びに行くことを隠すためなのかもしれない。
人間には、人前で楽しそうにしてはいけない決まりでもあるのだろうか。
シジミは長椅子へ戻った。
うちの人間がいなくなった家は広い。
真ん中で寝ても邪魔されない。
窓辺へ行っても、急にカーテンを動かされることがない。
食事の時間まで静かに過ごせる。
うちの人間が家を空けること自体は、悪いことばかりではない。
ただし、外へ行くなら、もっと短い時間で戻ってくるべきである。
猫の散歩は、それほど長くない。
周囲を確認する。
気になる匂いを調べる。
日なたで少し休む。
用事が済めば家へ戻る。
外には危険が多い。
長くいるほど、何かに遭う可能性も増える。
うちの人間は、そのことを分かっていない。
昼を過ぎても戻ってこない。
シジミは窓辺へ移動し、外を見た。
道を歩く人間がいる。
荷物を持った人間。
急いでいる人間。
立ち止まって話している人間。
どの人間も、明るいうちから外を歩き回っている。
人間は家を作った。
雨や風を防げるようにした。
戸をつけ、知らない者が入らないようにした。
食べ物を置く場所も、眠る場所も作った。
長い時間をかけて、安全な場所を用意したはずである。
それなのに、完成すると毎日そこから出ていく。
何のために家を作ったのだろう。
使わないのであれば、初めから外で暮らせばよい。
猫は安全な場所を見つければ、そこを使う。
人間は安全な場所を作ったあと、危険な外へ遊びに行く。
せっかくの知恵を、自分で無駄にしているように見える。
決まった場所でしかできない遊び
午後になった。
日の当たる場所が少しずつ動く。
シジミも日なたに合わせて移動する。
窓辺。
床。
長椅子の端。
部屋の奥。
人間は、猫が一日中寝ていると思っている。
実際には、日の位置を見ながら最も暖かい場所へ移動している。
外の音も聞いている。
鳥の動きも確認している。
家の中に変わったことがないかも調べている。
ただ横になっているだけではない。
効率よく休みながら、必要な情報を集めているのである。
一方、うちの人間は外で何をしているのだろう。
朝から大きな鞄を持って出かけた。
さぞ楽しい場所へ行っているに違いない。
広い場所を走り回っているのかもしれない。
大勢の人間と遊んでいるのかもしれない。
絵の光る板を使って、何か複雑な遊びをしている可能性もある。
うちの人間は帰ってくると、
「今日も一日、画面を見てた」
と言うことがある。
外まで行って、絵の光る板を見ているらしい。
家にも同じような板がある。
わざわざ遠くへ行く必要はない。
人間の遊びには、場所の決まりがあるのだろうか。
家でしてはいけない遊び。
決まった建物でしかできない遊び。
決まった服を着なければならない遊び。
決まった時間まで帰ってはいけない遊び。
ずいぶん窮屈である。
遊びとは、もっと自由なものだ。
眠りたければ眠る。
走りたければ走る。
気になるものがあれば触る。
飽きたらやめる。
うちの人間は遊ぶために、朝から嫌そうな顔で起き、髪を整え、顔へいろいろ塗り、動きにくい服へ着替え、重い鞄を持ち、遠くまで出かける。
そこまで準備しなければ遊べないのなら、別の遊びを探したほうがよい。
帰宅時刻の確認
夕方になった。
外が少し暗くなり始める。
だが、うちの人間は戻ってこない。
シジミは玄関の音へ注意を向けながら、食事の皿を見た。
まだ少し早い。
うちの人間が帰ってくる日なら、このあと食事が出る。
しかし、帰りが遅ければ、シジミの食事まで遅くなる。
自分が遊び歩くのは勝手である。
だが、家で待っているシジミの生活へ影響を出すべきではない。
うちの人間には、自分が面倒を見られているという自覚が足りない。
シジミが毎日帰りを確認しているから、この家へ戻ってこられる。
玄関の音がすれば迎えに行く。
外の匂いがついていれば、安全な場所へ行っていたか確かめる。
疲れていれば、長椅子の隣で休ませる。
朝になれば、決まった時間に起きるよう顔の近くへ行く。
これだけ面倒を見ているのに、うちの人間は昼間から勝手に外を歩き回る。
若い人間は落ち着きがない。
日が沈んだ。
窓の外は暗い。
ようやく、人間が動きやすい時間になった。
猫なら、これから周囲を見回してもよい。
昼間より人通りが少ない。
車も減る。
鳥は眠り、虫が動き始める。
だが、うちの人間は昼間から外にいた。
もう十分に遊んだはずである。
それでも帰ってこない。
シジミは玄関へ行った。
扉の向こうへ耳を向ける。
まだ足音はしない。
長椅子へ戻る。
しばらくして、また玄関へ行く。
人間は猫が玄関で待っていると、
「寂しかったの?」
と言う。
違う。
帰宅時刻を確認しているだけである。
食事の時間にも関係する。
戸を開けたままにしないか、見張る必要もある。
外から余計な物を持ち込まないかも確認しなければならない。
人間は自分が待たれていると思いたがる。
実際には管理されているのである。
遊び疲れて帰ってくる
夜も遅くなったころ、ようやく玄関の外から足音が聞こえた。
シジミは耳を立てた。
朝より少し遅く、重たい足音である。
鍵が触れ合う音。
扉の向こうで、うちの人間が何かを探している。
一度、違う物を取り出す。
小さな容器が床へ落ちる。
拾い上げる音がする。
また鞄の中を探る。
毎日使っている鍵なのだから、同じ場所へ入れておけばよい。
人間は帰宅する最後の瞬間まで要領が悪い。
鍵が回り、扉が開いた。
うちの人間が入ってくる。
「ただいま」
朝よりも姿勢が悪い。
肩が下がっている。
足取りも重い。
まとめていた髪も少し崩れている。
昼間から遊び歩いていたはずなのに、ひどく疲れている。
遊び方を間違えているのではないだろうか。
猫は遊び疲れれば、その場で休む。
人間は疲れても遊びをやめず、夜になるまで続けるらしい。
シジミはうちの人間の足元へ近づいた。
まず匂いを確認する。
知らない人間の匂い。
外の空気。
食べ物。
紙。
金属。
少し甘い匂い。
さまざまなものが混ざっている。
ずいぶん多くの場所を歩き回ったようだ。
うちの人間は、シジミを見て笑った。
「迎えに来てくれたの?」
確認しに来たのである。
どこへ行っていたのか。
危険なものを持ち帰っていないか。
食べ物はあるか。
特に最後が重要だ。
うちの人間は鞄を床へ置いた。
そして、靴を脱ぐ前に大きく息を吐く。
「疲れたあ」
自分から出かけたのである。
誰も外へ行けとは言っていない。
朝、あれほど布団から出たくなさそうにしていた。
それでも家を出て、夜遅くまで戻らなかった。
帰ってくると疲れたと言う。
人間の行動には、始まりから終わりまで一貫性がない。
嫌なら行かなければよい。
行くなら楽しめばよい。
疲れたなら早く戻ればよい。
そのどれもせず、毎日同じことを繰り返す。
家で寝ていられて
うちの人間は靴を脱ぎ、部屋へ入った。
シジミもあとをついていく。
食事を忘れられては困る。
うちの人間は髪をまとめていたものを外し、長椅子へ倒れ込んだ。
髪が背もたれへ広がる。
「もう動けない」
動いてもらわなければ困る。
シジミの食事がまだである。
シジミはうちの人間の前へ座った。
顔を見る。
動かない。
短く鳴く。
うちの人間は目を閉じたまま答える。
「ちょっと待って」
昼間から外で遊び続け、家へ帰ると食事の用意さえできない。
自分の体力を考えずに遊ぶから、こうなる。
シジミはもう一度鳴いた。
うちの人間が、ゆっくりと片目を開ける。
「分かった、分かった」
本当に分かっているかは疑わしい。
それでも長椅子から起き上がり、台所へ向かった。
ようやく一日の最も重要な仕事を果たす気になったらしい。
皿へ食事が入る。
シジミは匂いを確かめ、口をつけた。
うちの人間は、近くの床へ座り込んでいる。
「シジミはいいなあ。毎日家で寝ていられて」
何を言っているのだろう。
シジミは家を守っていた。
外の音を確認した。
日の動きに合わせて部屋の状態を見た。
帰宅時刻の遅いうちの人間を待ち、無事に戻ったか確認した。
食事を忘れた人間へ、その仕事を思い出させた。
一日中、何もしていなかったわけではない。
それに、家で寝ていられることがよいと思うなら、うちの人間もそうすればよい。
安全な家がある。
柔らかな布団がある。
食べ物も水もある。
それなのに人間は、朝になると嫌そうな顔で起き、わざわざ家から出ていく。
昼間から遊び歩き、夜遅くになって疲れ果てて帰ってくる。
そして、家にいたシジミをうらやましがる。
最初から家にいれば、すべて解決する話である。
人間は、自分で家を出たことを忘れているのだろうか。
うちの人間は立ち上がり、自分の食事を用意し始めた。
外で長く遊んできたのに、まだ食べるらしい。
食事を終えれば、風呂という水を浴びる場所へ行く。
そのあと、顔に塗ったものを落とし、髪を乾かし、絵の動く箱を見る。
そして夜遅くまで起きている。
翌朝になれば、また鳴る箱を嫌そうに止める。
起きたくないと言いながら起きる。
出かけたくないと言いながら出かける。
疲れたと言いながら遅くまで帰らない。
眠いと言いながら夜更かしをする。
そうして毎日、同じことを繰り返す。
猫なら、一度嫌な目に遭えば避ける。
足場が滑れば、次からは慎重になる。
危険な道だと分かれば、別の道を使う。
食べられないものなら、二度と口へ入れない。
人間は学ぶことができると言う。
だが、毎朝同じ音を嫌がり、毎晩同じように疲れている。
少なくとも、うちの人間が学んでいるようには見えない。
明日も仕事
食事を終えたシジミは、長椅子へ飛び乗った。
うちの人間が座るはずの場所の真ん中で丸くなる。
昼間、家を空けていた者に場所を選ぶ権利はない。
この家を一日守っていたのはシジミである。
しばらくして、風呂から戻ったうちの人間が、濡れた髪を布で拭きながらやってきた。
シジミを見て、少し困った顔をする。
「そこ、座りたいんだけど」
先に座った者の場所である。
うちの人間は諦め、長椅子の端へ腰を下ろした。
髪を乾かすための大きな音が鳴り始める。
シジミは少しだけ耳を伏せた。
外で一日遊び歩いたあと、家へ帰ってからも人間は騒がしい。
ようやく音が止まる。
うちの人間はシジミの背中を撫でながら、ため息をついた。
「明日も仕事かあ。行きたくないなあ」
仕事というのは、昼間から外を遊び歩くことらしい。
行きたくないなら、行かなければよい。
だが、おそらく明日の朝も、うちの人間は鳴る箱を止め、嫌そうな顔で布団から出る。
髪を整える。
鏡を見る。
顔へいろいろ塗る。
重い鞄を持ち、安全な家から出ていく。
夜になれば疲れ果てて帰り、家にいたシジミをうらやましがる。
人間は、自分で選んだ行動に自分で困っている。
シジミは撫でてくる手を受け入れながら、ゆっくりと目を閉じた。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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