
犬が走る場所
シジミは、いつもの見回りの道を少し変えた。
散歩ではない。
見回りである。
どこに新しい匂いがあるか。
知らない猫が入り込んでいないか。
人間が食べ物を落としていないか。
危険な犬が放されていないか。
周囲の変化を確認するために歩いている。
うちの人間は、シジミが家の近くを歩くと、
「お散歩してる」
と言う。
目的もなく歩いているわけではない。
ただし、その日に道を変えたことには、特に深い理由はなかった。
いつもの塀へ上がろうとしたところ、日当たりのよい別の道が目に入った。
そちらへ進んだ。
たまたまである。
人間は少し違う道を選ぶだけで、
「今日は冒険だね」
などと言う。
道を一本変えただけで冒険になるなら、人間の冒険はずいぶん小さい。
しばらく進むと、広い場所へ出た。
周囲は柵で囲まれている。
中には、何匹もの犬がいた。
走る。
止まる。
別の犬を追う。
追われる。
地面の匂いを嗅ぐ。
飼い主のもとへ戻る。
また走る。
犬たちは、特に目的もなく走り回っているように見える。
シジミには理解しにくい場所だった。
獲物を追っているわけではない。
危険から逃げているわけでもない。
移動する必要もない。
ただ、走っている。
犬にとっては、それだけで楽しいらしい。
近くの看板には、人間の文字で何か書かれている。
シジミには読めない。
だが、人間たちの会話から、この場所がドッグランと呼ばれていることは分かった。
犬が走る場所。
そのままである。
人間は、分かりやすい名前をつけることもあるらしい。
友達!
シジミは柵の外から中を見た。
大型の犬。
小型の犬。
毛の長い犬。
短い犬。
耳の立っている犬。
垂れている犬。
ずいぶん種類が多い。
猫にも毛の長さや色の違いはある。
だが、犬ほど体の大きさは違わない。
小さな犬と大きな犬では、同じ種類の生き物とは思えないほど差がある。
それでも犬同士では、相手が犬だとすぐに分かるらしい。
匂いで判断しているのだろう。
シジミが柵の横を通り過ぎようとしたとき、一匹の犬が動きを止めた。
以前、道端で会った犬だった。
シジミを見るたび、
「遊ぼう!」
「走ろう!」
と誘ってくる犬である。
一度、飼い主が紐を落としたため、勢いよく走ってきたこともある。
シジミは壁の上へ移動した。
犬はその下で、
「降りて!」
「走ろう!」
と騒いでいた。
今回も、その犬はシジミに気づいた。
耳が立つ。
目が大きくなる。
尻尾が激しく動き始める。
そして、大声で鳴いた。
「友達!」
友達の友達
シジミは足を止めた。
友達ではない。
何度か会っただけである。
犬は近くにいた別の犬へ向かって、さらに鳴いた。
「友達!」
別の犬が振り返る。
「友達?」
「猫?」
以前の犬は、シジミのいる方向へ走りながら答えた。
「シジミ! 友達!」
名前まで覚えている。
そこは少し意外だった。
以前、飼い主同士の会話から聞いた名前を、きちんと覚えていたらしい。
犬は人間の言葉をすべて理解するわけではない。
だが、名前についてはよく覚える。
自分の名前。
一緒に暮らす人間の名前。
散歩で会う犬の名前。
そして、遊んでくれそうな者の名前。
シジミは遊んでいない。
犬の中では、そこは問題ではないらしい。
別の犬が鳴いた。
「シジミ?」
「名前?」
「猫の名前?」
以前の犬が胸を張る。
「シジミ!」
まるで自分が名づけたような態度である。
その声を聞き、近くにいた犬たちが次々に振り返った。
「何?」
「誰?」
「友達来た?」
「猫?」
「シジミ?」
情報が、犬から犬へ広がっていく。
一匹が走り出す。
その動きを見て、別の犬も走る。
何があるのか分からないまま、さらに別の犬もついていく。
犬は、誰かが走っていると、自分も走らなければならないと思うらしい。
数匹だった犬が、あっという間に増えた。
シジミのいる柵の近くへ、犬たちが集まってくる。
「どこ?」
「猫!」
「黒い!」
「シジミ!」
「友達?」
「友達らしい!」
誰が決めた。
以前の犬が、
「友達!」
と言った。
それだけで、全員がシジミを友達として扱い始めた。
犬の友達の友達は、犬の友達になるらしい。
返事を待たない
確認はない。
シジミ本人の同意もない。
一匹の犬が鼻を柵の隙間へ近づけた。
「匂い嗅いでいい?」
返事をする前に、もう嗅いでいる。
別の犬も来る。
「オレも!」
さらに別の犬。
「どこ住んでる?」
「何歳?」
「走る?」
「中に来る?」
「遊ぶ?」
一度に話すな。
犬は、自分の知りたいことを順番に聞くという考えがないらしい。
質問する。
返事を待たずに別の質問をする。
その途中で別の犬が割り込む。
さらに、以前の犬がまた叫ぶ。
「シジミ! 走ろう!」
走らない。
シジミは柵の外。
犬たちは柵の中。
それ以前に、一緒に走るつもりがない。
だが、犬は柵の存在を大きな問題とは考えていないらしい。
「入って!」
どうやってだろう。
「こっち!」
入口の場所は分かる。
だが、シジミが自分で門を開けることはできない。
開いていたとしても、入るつもりはない。
中には何匹もの犬がいる。
全員がこちらを見ている。
尻尾を振っている。
足踏みしている。
一匹は興奮しすぎて、その場で小さく回っている。
敵意はない。
それは分かる。
だが、敵意がないことと、落ち着いていることは別である。
あれだけの犬が一度に近づけば、踏まれる可能性がある。
匂いを嗅がれる。
顔を近づけられる。
遊びのつもりで前足を出される。
そして、全員から、
「走ろう!」
と言われる。
危険というより、面倒である。
遊ぼ!
シジミは少し後ろへ下がった。
犬たちが一斉に反応した。
「動いた!」
「走る?」
「走るぞ!」
「どっち?」
まだ走っていない。
一歩下がっただけである。
犬は猫が動けば、すぐに遊びが始まったと思う。
以前の犬が柵に沿って走り始めた。
「こっち!」
別の犬もついていく。
「走る!」
さらに別の犬も走る。
シジミが動いていないのに、犬たちだけが走り始めた。
柵の内側を往復する。
「シジミも!」
「早く!」
「競争!」
勝手に競争を始めないでほしい。
シジミはその場に座った。
走らない意思を示したつもりである。
犬たちも止まった。
だが、諦めたわけではなかった。
一匹が前足を低くして、尻を上げる。
遊びに誘う姿勢である。
「遊ぼ!」
別の犬も同じ姿勢になる。
「遊ぼ!」
さらに二匹。
「遊ぼ!」
「遊ぼ!」
犬は数が増えると、同じことを大きな声で繰り返す。
一匹なら断れる。
二匹でも、まだ話は通じる。
十匹近くが同時に、
「遊ぼ!」
と鳴くと、断る声が届く気がしない。
シジミは、以前の犬へ向かって言った。
友達ではない。
何度か会っただけだ。
犬は首を傾げた。
「会った!」
そうである。
「名前知ってる!」
そうである。
「友達!」
なぜそうなる。
犬の中では、
会ったことがある。
名前を知っている。
遊びたい。
この三つがそろえば、友達になるらしい。
相手が一度も遊んでいなくても関係ない。
シジミが断っても、
「今日は遊ばない友達」
になるだけなのだろう。
一緒に走った
別の犬が、以前の犬へ尋ねた。
「一緒に何して遊んだ?」
以前の犬が答える。
「走った!」
走っていない。
犬が追いかけ、シジミが壁へ移動しただけである。
「シジミ、速い!」
逃げたのではない。
近づかれたくなかっただけだ。
「高いところ上手!」
それは合っている。
別の犬が目を輝かせた。
「すごい!」
さらに別の犬も言う。
「シジミすごい!」
話が勝手に広がっている。
以前の犬の中では、追いかけた出来事が、一緒に走った思い出になっている。
シジミが壁へ上がったことは、遊びの一部である。
下から降りてと騒いだことも、楽しい思い出なのだろう。
犬は、自分が楽しかった出来事を、相手も楽しかったことにする。
人間にも似たところがある。
一方的に話した。
自分は楽しかった。
だから、
「盛り上がった」
と言う。
相手がほとんど返事をしていなくても、
「話が合った」
と言う。
自分の感情を、相手にも広げる。
犬は、その方法がさらに強いらしい。
遊びたい。
だから友達。
追いかけた。
だから一緒に走った。
また会った。
だから再会を喜んでいる。
シジミの考えが入る場所がない。
人気者だねえ
犬たちの飼い主も、ようやく集まってきた。
さきほどまで犬同士で走っていたのに、急に一か所へ集まったため、何があるのか気になったらしい。
「どうしたの?」
「何かいる?」
一人の人間が、柵の外にいるシジミへ気づいた。
「あ、猫ちゃん」
別の人間も言う。
「みんな猫が気になるんだ」
少し違う。
猫だから集まった犬もいる。
だが、最初の犬が友達だと紹介したために集まった犬も多い。
犬たちは今も話している。
「シジミ!」
「入って!」
「友達!」
「匂い嗅がせて!」
「何食べる?」
「どこで寝る?」
「今日何する?」
質問が多い。
人間の子どもに少し似ている。
興味を持った相手へ、思いついたことをすべて聞く。
相手が答えている途中でも、次を聞く。
一匹の飼い主が笑った。
「人気者だねえ」
人気者とは違う。
一匹の犬が知っている名前を大声で広めた結果、集団から一方的に友達認定されたのである。
別の飼い主が、以前会った犬を見て言った。
「知ってる猫ちゃんなの?」
犬はうれしそうに鳴いた。
「友達!」
人間には、ただ大きく吠えたように聞こえたらしい。
「興奮しちゃってるね」
興奮はしている。
だが、理由もはっきりしている。
シジミを見つけた。
名前を覚えていた。
再会した。
ほかの犬へ紹介した。
犬なりに筋は通っている。
飼い主は犬の首輪へ手をかけた。
「猫ちゃん怖がってるから、静かにしようね」
怖がってはいない。
うるさいと思っているだけである。
以前と同じ誤解だ。
猫の近くで犬が吠える。
ならば、猫は怖いはず。
人間は、それ以外を考えない。
犬の友達は増える
シジミは毛を逆立てていない。
耳も伏せていない。
逃げてもいない。
ただ座り、犬たちを見ている。
それでも、
「怖がってる」
ことになる。
ほかの飼い主も犬たちを呼び戻そうとした。
「ほら、猫ちゃんを囲まないの」
囲んでいるのは事実である。
柵がなければ、本当に周囲へ集まっていたかもしれない。
だが、襲うつもりではない。
犬たちは、シジミへ挨拶している。
遊びへ誘っている。
質問している。
中には、以前の犬が友達と言ったから、何となく来ただけの犬もいる。
一匹が隣の犬へ小さく尋ねた。
「どんな友達?」
「知らない」
「何して遊ぶ?」
「知らない」
「でも友達?」
「そう言ってた」
犬にも、よく分からないまま集まった者がいるらしい。
集団が走れば走る。
集団が止まれば止まる。
誰かが友達と言えば、友達だと思う。
犬は集団の判断を信じる傾向が強い。
猫なら、ほかの猫が知っているからといって、すぐに近づいたりはしない。
まず自分で見る。
匂いを確かめる。
安全か判断する。
必要がなければ近づかない。
犬は違う。
「あいつの友達なら、オレの友達かもしれない」
と考える。
ずいぶん前向きである。
悪く言えば、警戒が足りない。
よく言えば、仲間を増やすのが早い。
一匹の小さな犬が柵の下へ鼻を差し込んだ。
「シジミ」
名前を呼ばれた。
シジミがそちらを見る。
小さな犬の尻尾が激しく動く。
「見た!」
見るくらいはする。
「オレのこと見た!」
見ただけである。
「友達!」
また増えた。
犬の友達になるために必要なことは、ずいぶん少ないらしい。
シジミの人間
名前を呼ぶ。
相手が見る。
それで成立する。
別の犬が言う。
「オレも!」
「シジミ!」
シジミは見なかった。
「見ない」
「もう一回!」
「シジミ!」
まだ見ない。
「聞こえてない?」
聞こえている。
反応しないだけである。
犬は無視されている可能性をあまり考えない。
聞こえなかった。
気づいていない。
もう一度呼べばよい。
実に強い。
人間なら、一度返事をされなかっただけで、
嫌われた。
怒っている。
何か悪いことをした。
そのように考えることがある。
犬は違う。
返事がない。
ならば、もっと大きな声で呼ぶ。
「シジミ!」
うるさい。
シジミがそちらを見ると、犬は満足した。
「見た! 友達!」
どうしても友達にされるらしい。
そのとき、道の向こうから、うちの人間が歩いてきた。
シジミがいつもの道にいないため、探しに来たのかもしれない。
犬たちが一か所へ集まっているのを見て、足を速める。
「シジミ?」
うちの人間が名前を呼ぶ。
犬たちが一斉に反応した。
「シジミ!」
「名前言った!」
「シジミの人間!」
「友達の人間!」
今度は、うちの人間まで友達の関係へ入れられた。
どこまでも広がる友達
犬の友達。
その友達であるシジミ。
シジミと一緒に暮らす人間。
だから、犬の友達。
犬の関係は、どこまでも広がるらしい。
うちの人間は柵の近くまで来た。
大量の犬がシジミを見ている。
「すごい。シジミ、犬にモテモテだね」
違う。
一匹の犬が、友達だと紹介した。
それを聞いた犬が集まった。
名前を呼ぶ。
シジミが見る。
さらに友達になる。
その連鎖である。
好かれていると言えば、好かれているのかもしれない。
だが、人間の考える人気とは少し違う。
犬たちは、シジミの性格を知らない。
何が好きかも知らない。
一緒に遊んだこともない。
ただ、友達の友達だから友達だと思っている。
名前を知ったから親しくなったと思っている。
うちの人間が笑う。
「お友達、たくさんできたね」
できていない。
勝手に増えた。
シジミの意思は確認されていない。
以前の犬が、うちの人間にも鳴いた。
「シジミ、入れて!」
うちの人間には、
「ワンワン!」
としか聞こえない。
「シジミと遊びたいのかな」
そこは合っている。
珍しい。
中に入れてあげたら
うちの人間は、入口のほうを見た。
「中に入れてあげたらどうなるんだろう」
やめてほしい。
犬たちが一斉に反応した。
「入る?」
「来る?」
「遊ぶ?」
「走る!」
「早く!」
人間の言葉を完全に理解したわけではない。
だが、うちの人間が入口を見た。
シジミを見た。
何かが始まりそうだと判断したらしい。
犬たちが門の近くへ走る。
以前の犬も走る。
「こっち!」
道を案内するつもりである。
シジミはすぐに立ち上がった。
入らない。
犬たちの期待が大きくなる前に、離れたほうがよい。
シジミが道を戻り始める。
犬たちは柵の内側を並んでついてきた。
「どこ行く?」
「帰る?」
「遊ばない?」
「次は?」
「また来る?」
以前の犬が大きく鳴いた。
「次は走ろう!」
次も走らない。
うちの人間が、シジミのあとを追う。
「もう帰るの?」
帰る。
見回りの道を変えた結果、犬の集団に友達認定された。
これ以上ここにいる理由はない。
関心にも種類がある
うちの人間は、柵の向こうの犬たちへ手を振った。
「またね」
犬たちが騒ぐ。
「また!」
「シジミも!」
「次は入って!」
「走ろう!」
うちの人間が楽しそうに笑う。
「シジミ、すっかり人気者だね」
人間は、集団が自分へ関心を向ければ、人気があると考える。
だが、関心にも種類がある。
匂いを嗅ぎたい。
遊びたい。
知り合いが友達と言った。
猫が珍しい。
名前を呼んだら見た。
それらが混ざっている。
全員がシジミを深く知り、好いているわけではない。
それでも、犬たちに悪意はなかった。
それだけは確かである。
少しうるさい。
距離が近い。
友達になる判断が早すぎる。
だが、名前を覚えていた犬には、少し感心した。
以前の飼い主が一度呼んだ名前を覚えていた。
次に会ったときも、すぐにシジミだと分かった。
犬は落ち着きがないように見える。
何も考えず走っているようにも見える。
だが、覚えるべきことは覚えているらしい。
またね、シジミ
シジミが振り返ると、以前の犬はまだ柵の近くにいた。
尻尾を振りながら鳴く。
「またね、シジミ!」
ほかの犬たちも続いた。
「またね!」
「シジミ!」
「次は遊ぼう!」
一度も名乗っていない犬たちから、名前を呼ばれている。
シジミは相手の名前を一匹も知らない。
犬たちは、それでも気にしていないらしい。
自分の名前を知られていなくても、友達は友達。
ずいぶん一方的である。
うちの人間は、隣を歩きながら言った。
「犬のお友達、いっぱいできてよかったね」
よかったかどうかは、シジミが決めることである。
そもそも、友達になった覚えはない。
道を少し変えた。
以前会った犬に見つかった。
名前を大声で広められた。
気づけば、犬軍団の友達になっていた。
人間は、猫同士が近くにいれば仲良しと言う。
鳥が集まれば仲間と言う。
犬が大量に近づけば人気者と言う。
相手がどう思っているかは、やはり考えない。
シジミは猫語でつぶやく。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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